1.
「うん――大丈夫。ちゃんと食べてるって。僕を何歳だと思ってるの。26だよ?」
電話の向こうで相変わらずの母親の声にお決まりの返事をする。
なぜ毎度毎度、朝の支度の時間にかけてくるんだ。
中津滋は内心溜息をついたが母は気がついてない。自分が話すことに忙しい人なのだ。
「あんたはいっつもそうなんだから。近いのに全然帰って来ないし」
「僕も忙しいんだよ」
「あぁ。もう、その言い方お父さんにそっくり。お父さんもいっつも仕事仕事で休みの日に家にいた試しもなかったんだから」
母の溜息混じりの言葉に父親の顔を思い浮かべようとしたが、うまく思い出せない。どことなく靄がかかったような感じだが、不思議なことに後ろ姿だけははっきりと思い出せる。
「お姉ちゃんがあんたやお父さんみたいな人と結婚しなかったのは不幸中の幸いだわ」
「そうだね。嫁さんの実家の近所に家買って住んでくれるいい旦那さんじゃん」
電話のせいですっかり冷めてしまったコーヒーを啜るが、味気ない苦い液体が喉を通り過ぎるだけだ。
「ほんとよ。でもね、お姉ちゃんったら……」
はい、始まった。
滋は机の上あったタバコの箱を手に取ると、一本取り出して口に咥えて火をつける。
この後は姉が次の盆には旦那の実家に帰る事が気に入らない、去年生まれた姪の一歳の誕生日なのに祝えないという愚痴が続くのだ。
年末はクリスマスに姉が帰って来ないという愚痴が、クリスマスまできっちり4週間続いたので、アドベントみたいだなと滋は思ったものだ。
ただ、ありがたいことに母も節度を忘れてないのか、この一服が終わる頃には言い終えて満足するのだ。
滋は根元まで吸ったタバコを灰皿に押し付ける。
前の会社の激務で覚えたタバコは、転職した今も癖になっている。
「あぁ、仕事行かなきゃよね?とにかく、たまには顔を出しなさいよ」
「わかったよ。近いうちに帰るよ。じゃあね」
スマホの終話ボタンをタップすると、画面は待受画面に変わった。
ニュースアプリの通知が一件。あとは味気ない時間を示す文字だけが表示されている。丁度家を出る時間だ。
母さんはストップウォッチでも持って話してるんじゃないかと疑いたくなるが、そうだとしても驚かない。
飲みかけの冷めたコーヒーを飲み干すと、スーツの上着にファブリックミストをかけて慣れた手つきで袖を通した。
さて、今日も元気に出勤しますか。
「課長、おはようございます。昨日のエラーの原因ですが、レポートをまとめてメールしてますので、目を通しておいていただけますか」
上司の江坂が出勤すると、滋はすぐに挨拶と報告をする。
「ありがとう。中津君は本当にいつも仕事が早いねぇ」
34歳の若さで課長になった江坂は、背が高くてモデルのような容姿の上仕事ができる。滋の尊敬する上司であり、理想の男像でもある。
大学を卒業して就職した会社は、所謂ブラック企業というやつだった。
無茶苦茶なプロジェクトをいくつも詰め込まれ、朝早くから夜遅くまで働いても終わらない仕事。みなし残業というよくわからない制度のせいで残業代もない上に、やりがいも達成感も得られなかった。
入社して1週間目には、家よりも会社にいる時間の方が長くなっていた。
その頃に比べるまでもなく、有休も残業代もやりがいもある今の会社は天国だ。
「お、中津。今日も顔色がいいな」
喫煙所に入ってくるなり話しかけてきたのは速水祥子だった。技術開発部のチーフで目元が涼しげな美人だ。いやでも人目を惹く。
滋の前の会社の先輩で、あの地獄から救い出してくれた恩人――いや、神様だ。
「速水先輩」
「珍しいな、ここで会うの。お前最近タバコ控えてたのに」
「ええ……まぁちょっと色々」
「なんだ?江坂さんにいじめられてるのか?」
「まさか!!」
滋は慌てて否定した。美人なのにサバサバすぎる口調が残念な印象を与えるが、そこがどことなく親しみと人間らしさを感じさせる。
実際面倒見もよく、前の会社でも滋に仕事を教えてくれたのもこの人だ。
速水が退職すると知った時、滋は絶望しかなかったが、「あと1年だけ耐えろ。この会社は確かにクソだけどな、得られる経験もある」と言った速水の言葉を信じて頑張ったちょうど一年後、この会社にスカウトしてくれた。
転職後は違う部署に配属となったものの、時折顔を合わせるとこうやって滋を気にかけてくれている。
それがとてもありがたかった。
「ああいう人畜無害そうな顔した奴ほど腹黒いんだ。あとでぎっちぎちに締めてやる」
「実は――」
速水が江坂をどう締めようかとほくそ笑んだので、滋は観念して口を開いた。
江坂と速水は大学の先輩後輩の仲だと聞く。江坂はいつも速水には勝てないようで、言い負かされてはしょんぼりしている。
自分のせいでこれ以上江坂が責められる口実を作ってはいけない。しかも冤罪で。
「最近みちるの様子がおかしくて……前まではどれだけ忙しくても毎日おはようとかお休みくらいは送ってくれていたのに、ここ2週間はそれもなく」
「住吉さん?総務の?」
住吉みちるは、滋がひと月かけて口説き落とした最愛の恋人だ。
「メッセージごときで……なんだ、新手の惚気か?」
食傷気味だと言わんばかりに速水がわざとらしく苦笑いするが、滋は顔色を曇らせる。
「2週間前も、デートで彼女の好きなイタリアンに行ったんですけど、いつもはピザとかフリットとかを喜んで食べるのに、あの日はガーリックを抜いたクリームリゾットだけだったし、食後に僕がタバコを吸おうをしたら吸わないでって怒られたし」
「2週間前?」
「はい。平日は僕が仕事で会えなかったから、土曜にランチをしたんです。彼女が行きたがってた美術館の服飾展に行くついでに」
「あー。あの子服飾系の専門学校出身だったな」
「そうなんですよ。だからすごく喜んでくれると思ったんですけど、なんか心ここにあらずって感じで、結局あの日はすぐに別れて――僕なんかしちゃったんですかね」
わかりやすくしょんぼりとした滋に、速水は顔をしかめた。
「それからなのか?彼女の様子がおかしくなったのは」
「はい。それから体調が悪いとか忙しいとか言って、全然会えていないし、メッセージの返事もなんかそっけないし……僕、なんかやっちゃったのかな」
「落ち着けって。お前だけが原因じゃないとは限らないだろ」
「僕が原因じゃなかったら何が――」
言いかけた滋の脳裏に、ある記憶が浮かんだ。
2年前の11月だ。祖父の7回忌で実家に召喚された滋は、久しぶりの母の手料理をつまんでいた。
出前の寿司に、魚の煮物、カボチャのサラダ――見事に姉の好物ばかりが食卓に並んでいた。
だが、その時姉はそのどれにも手を付けずに、かろうじてサラダだけを不機嫌そうにつついていた。
そして、滋がそばを通るたびに「タバコくさい!気持ち悪い!」と小型犬のように吠えられたのだ。
あの後、姉ちゃんが妊娠していたことがわかったんだっけ。
そして、それ以来ファブリックミストが手放せなくなったのだ――いや、それはどうでもいい。
みちるの様子はあの時の姉と同じだったように感じる。
最後にみちると愛し合ったのはいつだろう。淡白な彼女とは半年の交際の中で、まだ数えるほどしか体を重ねていない。
最後は確か……先月の初めだった――
「先輩……どうしよう、僕……」
滋が力なく呟くように声を発するのを聞きながら、速水は唇を軽く噛んで言葉を探していた。
「中津……その」
「僕、父親になるのかもしれません!」
「は――?父親?」
その時、滋のポケットの中でスマホが小さく震えた。
「すみません」と、急いで取り出すと、滋は息を飲んだ。
『明日、仕事が終わったら会えないかな?話したいことがあるの』
短いメッセージが滋の心臓を握りしめた。
リライト前からガラッと変えました
本当にすみません
もう断筆しませんので、最後までお付き合いいただけると嬉しいです




