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第一部『アルマティア協商連邦 ― 偽りの天秤 ―』:第一章「残響の都-協和のフーガ-」:二

目に見える傷は、癒え始めていた。

理奈が中心となって修復した〈律霊調理機〉は再び稼働し、食料配給所の長い列も、少しずつ短くなっていた。

だが、人々の心に残された傷は、見えない場所で静かに膿んでいた。


彩恵の屋台ですら、以前のような和やかな雰囲気は消え失せていた。


鍋の湯気は上がるのに、笑い声だけが上がらない。


ヴィリディアの者たちは東の隅に。

ポルトゥリアの者たちは西の端に。


出身邦ごとに固まり、互いを疑いの目で見る。


彩恵さんが料理を出しても――

「ありがとう」の言葉すら、よそよそしい。


その不和を、油に火を注ぐように煽る者たちがいた。

ポルトゥリア出身を名乗る《港湾互助会》の男。

アルティフィキア出身を名乗る《元現場監督》の男。

彼らは、志候たちの不安を代弁するふりをしながら、巧みに結論を誘導していく。


――アノンノアのシステムは、まだ完璧ではない。

――結局、自分の身は自分で守るしかない。

――信じられるのは、同じ故郷の者だけだ。


二人は互いを知らぬふりをしながら、同じ間合いと同じ言い回しを使った。


そして、彼らがそれぞれ身につける装飾――片方は袖口の留め具、もう片方は指輪――には、同じ奇妙な紋が刻まれていた。


物を載せるはずの天秤の皿が、完璧な球体になった印。


何も測れない“虚飾”。

――『盲衡(もうこう)の天秤』。


見る者を選ぶ、歪んだ正義の象徴。


彼らの言葉は、じわりと、しかし確実に人々の心を蝕んでいった。

アノンノアが最も尊ぶはずの《信頼》という名の土壌に、《不信》という名の毒が撒かれていたのだ。


その夜、理奈が俺の部屋を訪ねてきた。その顔は、アルティフィキアで会った頃のような、疲労と怒りでこわばっていた。


「どうすればいいの」


理奈が、絞り出すように言った。


「私たちは、機材を直した。数字も、記録も、すべて正しくした」


彼女の拳が、震える。


「なのに――信じてもらえない。疑いは、消えない」


声が、裏返る。


「見えない悪意と、どう戦えっていうのよ……!」


その時、俺の頭に浮かんだのは、『礎の郷』で見た、修吾さんと楓さんの姿だった。


彼らは、ただ黙々と、日々の暮らしを営んでいた。


種を蒔き、水をやり、道具を手入れし、織物を織る。


派手な戦いではない。

声高な主張でもない。


その一つ一つの丁寧な営みが――

静かに、しかし確実に、郷の調和を守っていた。


そうだ――


敵は、不協和音で俺たちを分断しようとしている。


なら、俺たちは――


もっと大きな協和音で、世界を繋ぎ直せばいい。


破壊には、創造で。

分断には、調和で。


俺は、顔を上げた。


「理奈」


静かな、しかし確信に満ちた声で。


「俺たちの『作品』で戦おう」


「……作品?」

「ああ。理奈は、この街を守るための新しい『仕組み』を創るんだ。悪意を見つけ出し、繋がりを強めるための仕組みを」

そして、俺は続ける。

「俺は、この街の心を繋ぐための新しい『音楽』を創る。出身も、言葉も、過去も違う人々が、一つの声で歌えるような、そんな音楽を」


奏真の言葉は、ただの理想論ではなかった。それは、礎の郷で修吾さんが語った道具への敬意。アノンノアの『原理』が示す、思想の核心。

――作品は、飾りじゃない。世界をより良くするための、魂の道具だ。

その意味が、理奈の心を貫いた。


彼女の瞳に、驚きが走る。


そして――


疲労と怒りで曇っていた表情が、澄んでいく。


理奈は、ゆっくりと顔を上げた。


「……やってやるわ」


その声には、もう迷いはなかった。


彼女は――

職人の顔に、戻っていた。


「悪意を見つけ出す、最高の〈見張り番〉をね。明日の朝にでも〈縁鎖〉に素案v0.1を掲出してやるわ」


「俺もだ」

俺は、工房の隅に置いていた、作りかけのカリンバに視線を移した。

「最高の『フーガ』を、この街に響かせる」


俺たちの最初の『作品』は、志の宣言のためではない。

この、志を奏でる都を守るための、戦いのための音色になる。

その決意を胸に、二人は顔を見合わせ、頷いた。


夜は、まだ深い。


理奈は灯を落とし、代わりに〈志盤〉を起動させる。


暗闇に――

彼女の設計図を描き始める指の光だけが、浮かんだ。


俺は、カリンバを構える。


〈三・六・九〉の呼吸で、思考を澄ませる。


トゥリン――


最初の一音が、静寂を裂く。


明けの一拍目まで――

準備の音だけを、刻む。



二人の反撃が、


静かに、


始まった。



公式の〈異常なし〉という発表は、逆説的に人々の不信を増幅させた。

共有工房では道具が ”偶然“ 壊れ、配給所では食事の味を巡る口論が絶えない。誰もが、隣人を疑い始めていた。


俺たちの本当の敵は、この不信感そのものだった。

俺と理奈は、それぞれの部屋に籠り、見えない敵と戦うための『作品』創りに没頭した。


理奈の挑戦は、〈結節合奏網(けっせつがっそうもう)〉通称〈見張り番〉――

コミュニティ主導の防衛システムだった。

監視ではない。

合意で編む耳だ。

見るためでなく、聴き合うための網。


彼女は〈公開情報網〉からプロトコル群を読み解き、〈志端〉でも使いやすいように何度も何度も書き換えていった。

それは、彼女がアルティフィキアで夢見ていた、《誰もが使える、優しい機構》の最初の試作品だった。


「――違う。これじゃただの監視システムだわ」


深夜、工房で理奈がうめくように呟いた。


〈志盤〉の画面には――

権限レベル。

アクセス制限。

警告閾値。


それは確かに《機能》する。


だが――


「これじゃ、共和国と同じじゃない……」


彼女は、自分が作り上げたコードを睨みつける。


俺は、言葉をかけられなかった。

これは、理奈自身が越えなければならない壁だった。


彼女は、共和国のようなトップダウンの監視ではなく、アノンノアらしい、ボトムアップの信頼の網を編もうと苦しんでいた。



数日後、彼女は答えを見つけ出した。

それは、警告システムではなかった。

《小さな違和感》を共有するための、《告発板》ではなく、《点描板》だった。


仕様は、単純で強い。


〈点描〉

 誰でも、一行で《小さな違和感》を記す。


〈結び線〉

 点が時刻と地図上で自動に繋がり、パターンが浮かび上がる。


〈合奏室〉

 関係者だけで対話し、手当てを決める。


〈境界責任〉

 外部性が閾値を超えたら自動停止し、公開、補償、是正を行う。


告発ではない――観察だ。

監視ではない――共有だ。


一つ一つは、ただの些細な出来事。


『今日のスープ、少し鉄の味がしない?』――第三配給所、午前九時。

『工房の旋盤、回転がわずかにぶれる気がする』――第五工房、午前十時。

『あの区画で、似た揉め事が二日続いた』――黎明天蓋東区、正午。


バラバラに見える《点》が――


地図上で、時間軸上で、無数に集まった時――


それは、意図的に仕掛けられた攻撃という《線》として、浮かび上がる。


悪意を暴くのは、機構の冷たい目ではない。

人々の、日常を守ろうとする温かい視線そのものなのだ。


理奈は、完成したプロトタイプを、彩恵、そして〈志候域〉の有志たちに託すことにした。

『修己』入門で一緒だった兄妹テオとティナも、故郷の仲間たちと連絡を取り合い、この仕組みを広める手伝いをすると力強く約束してくれた。


一方の俺は、完成したカリンバを膝に置き、鍵盤をそっと弾いた。

澄んだ音が響くが、それはどこか孤独で、空虚だった。


「求めているのは独奏ではない――出身が違っても、声を合わせられる響きだ。」


俺は〈志候域〉を歩き回り、人々の奏でる音に耳を澄ませた。


ヴィリディアの農民が口ずさむ、素朴な労働歌。


ポルトゥリアの漁師が船の上で歌う、力強い海の歌。


アルティフィキアの職人が、金槌のリズムで刻む、無骨な仕事歌。


訛り、調子、歌い癖――


バラバラに聞こえる声たちが、一つの旋律に繋がれば。


それは、分断を越える力になる。


それこそが、俺のフーガの「主題」となった。


俺は、その素朴な主題を元に、いくつもの対旋律を編み上げていく。


まず――ヴィリディアの旋律を第一声部に。

それを追いかけるように、アルティフィキアのリズムが第二声部で入る。

そして、その下を支えるように、ポルトゥリアの低音部が第三声部で響く。


異なる音色が、互いを打ち消すのではなく――

互いを引き立て合い、

互いを広げ合い、

より豊かな響きを生み出していく。


これが、フーガの本質だ。


一つの主題が、形を変えながら、

異なる声部で繰り返される。


それぞれが独立しながらも、

全体として一つの調和を成す。


曲の名は、『万民のフーガ』。協連の多様な人々の声が重なり、一つの声で歌える歌。


それからの数週間は、静かな戦いだった。

理奈は、テオたちと夜遅くまで工房に籠り、〈結節合奏網〉のプロトタイプを磨き続けた。

小さな失敗と小さな改善が、糸の目のように積み重なる。


俺は、五線譜に最後の音符を置いた。ヴィリディアの節、アルティフィキアの拍、ポルトゥリアの息――

異なる声が互いを広げ合う一点に、静かに目印を置く。


譜は閉じた。あとは声だけだ。


そして――


全ての準備が整った夜。


呼び鈴が鳴く。


理奈が、俺の部屋の扉を叩いた。


「奏真」


扉を開けると――

彼女の目には、確かな光が宿っていた。


「〈見張り番〉は、もう動いてる」


一呼吸置いて、続ける。


「あとは、きっかけだけ」


俺は、机の上に広げた楽譜を見た。


譜面を指でなぞる――

三つの旋律が、交錯する。


それぞれが独立しながら、

全体として一つの調和を成している。


「こっちも、できた」


二人は、顔を見合わせる。


そして――静かに、頷いた。


翌朝――

〈縁鎖〉に、一つの掲示が現れた。


〈告知:三日後、中央広場にて合唱の試み――『万民のフーガ』〉


俺たちの武器は、揃った。


理奈が編んだ――信頼の網。

俺が紡いだ――調和の歌。


二つの異なる道は、同じ目標に向かっていた。


俺たちはまだ若く、無力に思える。


だが――


無力だからこそ、見えるものがある。

無力だからこそ、編めるものがある。


誰もが手にできる、武器を。



”見えない手“ は――


また不協和音を鳴らすだろう。



しかし、こちらには――


聴き取る耳がある。


合わせる声がある。



待つだけだ。



次の一手を。

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