表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/38

第一部『アルマティア協商連邦 ― 偽りの天秤 ―』:第一章「残響の都-協和のフーガ-」:一

【会合記録 抄(機密・配布禁)】

議題1:南縁移民の"受入上限"に関する議論の誘発。(主管:■■■局)

議題2:〈黎明天蓋〉における"食料配分"への異物混入および小規模インフラ障害の惹起。

議題3:潜入工作員(コード:■■■)への追加指示:『不信の種子』散布を継続。

付記:目標は内部からの調和崩壊。報告コードは〈天秤〉を維持。

承認:全会一致

あれから、数ヶ月――


アノンノアは、新しい夜明けを迎えていた。



完成したばかりの『朝暉天蓋(ちょうきてんがい)』。


その名の通り――

朝の陽光を浴びて、青白い巨大な弧を描いている。


その規模は、俺たちが最初に見た『天蓋』の三倍以上。


居住区。

食料生産施設。

学びの場。

労働の場。


すべてを収める――新しい器だ。


器が満ちれば、次は拍を揃える番だ。



『志』を立てた多くの邦民たちが、

より広い居住区と研究施設を求めて――

新天地へと、移っていった。


街は、穏やかな発展の季節に入った。



数日前――


俺たちの〈志端〉に、機構からの正式な公示が届いていた。


『薄明天蓋』と呼ばれていた、最初の『天蓋』。


それが――再整備される。


協連からの移住希望者を迎える、玄関口――

志候域(しこういき)〉として。


そして、その名を――

黎明天蓋(れいめいてんがい)』と改める、と。



〈縁鎖:命名布告 第72号〉

〈第一天蓋=黎明天蓋〉

〈第二天蓋=朝暉天蓋〉

〈総称=薄明天蓋を維持〉



「これで――」


理奈が、微笑んだ。


「新しい『志候』の人たちにも、ちゃんとした場所を、用意できるね」


「ああ」


俺は、頷いた。


そんな話をしながら――

俺たちは、第二の『天蓋』に広がる新区画を巡った。



俺と理奈は――

その『黎明天蓋』に新設された〈志候域〉で、

新たに来た人々を案内・支援する《公務》に就いていた。



俺は、工房で新しいカリンバを作り続ける。


それは、もう個人的な楽器ではない。


協和を守るための――相棒だ。


理奈は、《機巧霊装学》の工房に通い詰めている。


彼女は、まだ自分の『志』を探している。

だが、その過程で得た知識を――

ここで、人々のために使っている。


その合間に――


ここで受けた親切を、次の誰かへ渡していく。


それが、俺たちの日々だった。


数ヶ月前まで移住希望者の急増は都市を揺らす難題だった。だが『朝暉天蓋』の完成で資源不安はひとまず解けた。

――少なくとも、アノンノアの内側では。



『黎明天蓋』前の広場には、今日も数百人が列を作っていた。疲労の表情の底に、怯えの色がある。


先頭の中年男が――

震える手で、小さな革の手帳を差し出す。


「こ、これが……『通商録』だ」


その声は、必死だった。


「これがあれば――ここに、入れるんだろう?」



『通商録(正式名称:協連通商録)』――

協連域での通行・就労・商売の権限を、紐で付与・記録する手帳。


アノンノアでは不要。


だが――彼らにとっては、安心の証なのだ。



受付の律紀さんが、柔らかく微笑む。


「ここでは、その手帳は必要ありません」


男の顔が、強張った。


「な、何だって……?」


「アノンノアでは――

〈志候域〉に登録すれば、暮らせます」



男は――


命綱だと思っていたそれが、

ただの紙切れだと告げられたかのように――


『通商録』を握りしめたまま、固まった。



列の後ろで、ざわめきが起きる。


「じゃあ、これは意味がないってことか?」

「でも、これがなければ通れないはずじゃ……」

「騙されてるんじゃ……」


不安が、波紋のように広がっていく。


理奈が――一歩、前に出た。


落ち着いた声で、言う。


「意味がないわけじゃない」


ざわめきが、少し静まる。


「ただ――ここでは、違う仕組みなんです」


彼女は、『通商録』を握りしめる男を見た。


「その手帳が、あなたを守ってくれた。

それは、事実です」


一呼吸置いて、続けた。


「でも、ここでは――

それがなくても、あなたは守られます」



「安心してください」


理奈は、優しく微笑んだ。


「アノンノアでは、身分や出身にかかわらず――

まず、《あなた自身》を見ますから」



彼女の言葉に、ざわめきは静まった。


男の手から、力が抜けていく。


『通商録』が、震えを止めた。


「……本当に、いいのか」


掠れた声で、男が呟く。


「俺みたいな者でも――」


律紀さんが、穏やかに頷いた。


「ええ。ようこそ、アノンノアへ」


俺はそんな様子を見ながら、ふと思った。

――制度が違えば、安心の拠り所も違う。『通商録』は、彼らにとって命綱のようなものだったのだ。



だが――


〈志候域〉と名付けられた、希望の場所は、

穏やかな川のようには流れなかった。



アノンノアの理想と、協連の現実が混ざり合う。


奇妙な熱が、立つ。


故郷の訛り。

昔の身分で値踏みする、視線。

心の底に張り付いた、警戒。


協連の《残響》――


不信と、対立と、悪意――


それが、『天蓋』の下で、渦巻いている。



「ヴィリディアの連中が――

配給の水を、余分に取ってる」


「ポルトゥリアの奴らは、いつも徒党を組んで――

仕事を、さぼっている」


「オリエンティアから来た商人は――

裏で何か企んでるに違いない」


「やっぱり――

俺たちは、追い出されるんじゃないか……」


「『通商録』がないと――

認められないんだ……」



声は、日に日に大きくなっている。



些細な誤解や偏見が、すぐに言い争いの火種になる。


そして――


そのいくつかは、確信犯的に撒かれた悪意の種子のように、

明確な意図を持って拡散されているようにも見えた。


そのたび――


俺と理奈は、駆けつける。


理奈は〈志盤〉を開いて、

〈縁鎖〉の配給記録や仕事の達成度を示す。


俺は、短い調律の音で――

群衆の呼吸を、揃える。


『調和的対話』の作法で――

ほとんどの諍いは、大事になる前に収まった。



だが。


俺の胸の底で――

何かが、引っかかっている。



数字は、整う。


〈縁鎖〉の記録を見れば――

配給は公平。

仕事の配分も、適切。


だが――


律が、合わない。



まるで――


完璧な楽譜なのに、

演奏が、微妙にずれているような。


拍だけが、わずかに狂っている。



(これは、ただの混乱じゃない)


俺は、確信していた。


(誰かが――

意図的に、不協和音を奏でている)


計算された――

この協和を乱すための、音を。


新しい夜明けは、確かに訪れた。


だが――


その光の下には、まだ見えない影が潜んでいる。



俺は、窓の外を見た。


『朝暉天蓋』が、朝日を浴びて輝いている。


美しい。


希望に満ちている。



だが、『黎明天蓋』では――


不信の種が、静かに芽吹いている。



俺たちの本当の戦いは――


この理想郷の中で、


静かに、しかし確実に――


始まろうとしていた。



〈志候域〉となった『黎明天蓋』は――


希望と混沌が混じり合う、坩堝(るつぼ)だった。



様々な邦から来た人々。


彼らは、アノンノアの豊かな資源と自由に安堵しながらも――


故郷で身につけた訛りや習慣。

そして、心の奥底に染み付いた不信感。


それを、すぐには拭えずにいた。



広場を歩けば――


ヴィリディアの訛り。

ポルトゥリアの所作。

アルティフィキアの警戒心。


それらが、混じり合い、ぶつかり合っている。


「おい!」


工房から、怒声が響いた。


「その(かんな)は――

俺たちアルティフィキアの者が、先に見つけたはずだ!」


「何を言うか!」


別の男が、鉋を握りしめる。


「共有の工房の道具に――

誰のものだと、決まっているか!」



些細な、道具の取り合い。


それが、怒号に変わる。


協連では当たり前だった、生存競争。


その残響が――

この理想郷にまで、持ち込まれているのだ。



そのたびに――


俺と理奈は、駆けつけた。


「落ち着いてください」


理奈が、二人の間に立つ。


〈志盤〉を開いて、利用ログを提示する。


「記録によれば――

次は、このヴィリディアの方が使う番です」


男たちが、画面を見つめる。


「ですが――」


理奈は、続けた。


「その作業なら、こちらの旋盤の方が効率的かもしれません」


彼女は、別の工具を指し示す。


「使い方、ご存知ですか?」



冷静に、事実を示す。

そして、代替案を提示する。


男たちの興奮が、少しずつ収まっていく。



俺は、そのささくれだった魂の律動を和らげるように――

カリンバで、短い調律の音をそっと奏でた。


トゥリン――リン――


音が――空間に溶ける。


二人の荒い呼吸が、ゆっくりと重なり始める。

肩の力が抜け、拳が緩む。


やがて――

同じリズムで、息を吐く。


呼吸が、整っていく。


ほとんどの諍いは、そうやって――

大きな問題になる前に、収まっていった。



数週間後――


最初の《異変》が、起こるまでは。



それは、食料配給所から始まった。


「お腹が……」

「俺も、痛い……」

「昨日から、ずっと調子が……」


原因不明の、軽い腹痛と倦怠感を訴える者が――

急増したのだ。



命に関わるほどではない。


だが――


じわりと体力を奪い、

人々の心に不安の影を落とすには、


十分だった。


〈アノンノア機構〉は、即座に原因究明に乗り出した。


〈縁鎖〉の記録を元に――

全ての食材と水の供給ルートを、徹底的に調査する。


食材の検査。

加工の過程。

運搬の経路。

配給の記録。


すべてを、精査した。



だが――


結果は、〈異常なし〉。



その結論は――


最悪の形で、人々の間に疑心暗鬼を広げた。


「おかしいだろう」


最初は、囁きだった。


「機構が〈異常なし〉って言ってるのに――

なんで、腹が痛いんだ?」



「隠してるんじゃないか?」


囁きが、疑問に変わる。


「俺たち新参者を――

厄介払いしようとしてるんじゃ……」



「いや、違う」


別の声が上がる。


「これは、ポルトゥリアの連中の仕業だ。

あいつらは昔から、自分たちの食い扶持のためなら何でもする」


「そうだ! ヴィリディアの奴らが、

良い食材を隠してるに違いない!」



根も葉もない噂が――


まるで病のように、伝染していく。



俺は、その広がり方に――

不自然なものを、感じていた。


これは、自然発生的なパニックではない。


まるで――


誰かが意図的に、不協和音を指揮しているような。


巧妙で、悪意に満ちた、律動があった。


「……奏真」


その夜。


理奈が、深刻な顔で俺を呼んだ。


「ちょっと、来て」



工房の隅。


彼女の前には――

分解された〈律霊調理機〉と、

〈浄水装置〉のフィルターが並べられている。


「どうした?」


「機構の診断は〈異常なし〉」


理奈は、フィルターを手に取った。


「それは、正しいわ」


彼女の声が、震える。


「だって――これは、故障じゃないもの」



理奈は、偏光灯をフィルターの縁に――

浅い角度で当てた。


何かが――微かに、光を拾う。


「……何だ、これ?」


「見て」


彼女は、その光る微細な粉を――

慎重に、ピンセットで摘み上げた。


「……毒薬?」


俺が尋ねると、理奈は首を振った。


「ううん、毒薬じゃない」


彼女は、粉末を見つめる。


「これは……『漆鋼(しっこう)』の微粉」


「魔法金属がなぜ……?」


「協連の衡鏡柱(こうきょうちゅう)とかインフラによく使われてるわ」


一呼吸置いて、続けた。


「それも――伝導率の低い『薄漆(はくしつ)』相当のものね」



理奈は、懐から一本の磁化針を取り出した。


そっと、粉末に近づける。


息を詰めて――

世界の真実を確かめるかのような、精密な動き。



すると――


針先に触れるか触れないかの距離で、

粉末が一斉に立ち上がった。


磁力線に沿って――

完璧な幾何学模様を描く。



まるで――


死んでいた金属が、

見えざる指揮者のタクトに合わせ、

意思を持って整列したかのようだった。



「……これが、原因?」


「ええ」


理奈は、頷いた。


「伝導は弱い」


理奈は、粉末を見つめながら言った。


「でも、〈律霊機〉の――

ほんの僅かな誤作動を、誘発する」


彼女は、〈縁鎖〉の保守記録を〈志盤〉に表示した。


「滲みは0.2mm以下」


数値が、画面に浮かぶ。


「初動遅延も、0.3秒未満」



「どちらも――保守基準の許容範囲内」


理奈の声が、静かに響く。


「だから、機構の診断は〈異常なし〉」



「でも……」


彼女は、針先で踊る金属の粒子を睨みつけた。

「このノイズが、調理機の出力や浄水のミネラル調整を、微妙にズラすの」


「腹痛は、その結果の一つ。毒じゃなく、単なる『品質低下』」


「完璧なアノンノアのシステムに慣れた人から見れば――」


一呼吸置いて、続けた。


「『最近、どうも調子が悪いな』と思わせるには――

十分すぎるほどの、ノイズよ」


俺は、彼女の言葉に息を呑んだ。

物理的な破壊ではない。

人々の心に「不信の種子」を蒔き、コミュニティを内側から崩壊させるための、あまりにも巧妙な攻撃。


「犯人は、どうしてこんなことを……」


「分からない。でも──」

理奈は、工房の窓から、言い争う志候者たちの影を見やった。

「……成功しつつあるわ」


俺は、目を閉じた。


〈三・六・九〉の呼吸で、カリンバに意識を集中する。



街に渦巻く――


怒り。

不安。

疑い。


その不協和音の奥に――


確かに、感じる。



数字は、正しい。


だが――


拍が、歪んでいる。



一つの、冷たく、嘲笑うかのような――


合奏から半拍だけ外れ続ける、誰かの指揮。



顔も声も出さず、

調和そのものを蝕む――


”見えない手“ 。



その存在を――


俺たちは、この夜、


はっきりと認識した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ