第一部『アルマティア協商連邦 ― 偽りの天秤 ―』:第一章「残響の都-協和のフーガ-」:一
【会合記録 抄(機密・配布禁)】
議題1:南縁移民の"受入上限"に関する議論の誘発。(主管:■■■局)
議題2:〈黎明天蓋〉における"食料配分"への異物混入および小規模インフラ障害の惹起。
議題3:潜入工作員(コード:■■■)への追加指示:『不信の種子』散布を継続。
付記:目標は内部からの調和崩壊。報告コードは〈天秤〉を維持。
承認:全会一致
あれから、数ヶ月――
アノンノアは、新しい夜明けを迎えていた。
完成したばかりの『朝暉天蓋』。
その名の通り――
朝の陽光を浴びて、青白い巨大な弧を描いている。
その規模は、俺たちが最初に見た『天蓋』の三倍以上。
居住区。
食料生産施設。
学びの場。
労働の場。
すべてを収める――新しい器だ。
器が満ちれば、次は拍を揃える番だ。
『志』を立てた多くの邦民たちが、
より広い居住区と研究施設を求めて――
新天地へと、移っていった。
街は、穏やかな発展の季節に入った。
数日前――
俺たちの〈志端〉に、機構からの正式な公示が届いていた。
『薄明天蓋』と呼ばれていた、最初の『天蓋』。
それが――再整備される。
協連からの移住希望者を迎える、玄関口――
〈志候域〉として。
そして、その名を――
『黎明天蓋』と改める、と。
〈縁鎖:命名布告 第72号〉
〈第一天蓋=黎明天蓋〉
〈第二天蓋=朝暉天蓋〉
〈総称=薄明天蓋を維持〉
「これで――」
理奈が、微笑んだ。
「新しい『志候』の人たちにも、ちゃんとした場所を、用意できるね」
「ああ」
俺は、頷いた。
そんな話をしながら――
俺たちは、第二の『天蓋』に広がる新区画を巡った。
俺と理奈は――
その『黎明天蓋』に新設された〈志候域〉で、
新たに来た人々を案内・支援する《公務》に就いていた。
俺は、工房で新しいカリンバを作り続ける。
それは、もう個人的な楽器ではない。
協和を守るための――相棒だ。
理奈は、《機巧霊装学》の工房に通い詰めている。
彼女は、まだ自分の『志』を探している。
だが、その過程で得た知識を――
ここで、人々のために使っている。
その合間に――
ここで受けた親切を、次の誰かへ渡していく。
それが、俺たちの日々だった。
数ヶ月前まで移住希望者の急増は都市を揺らす難題だった。だが『朝暉天蓋』の完成で資源不安はひとまず解けた。
――少なくとも、アノンノアの内側では。
◆
『黎明天蓋』前の広場には、今日も数百人が列を作っていた。疲労の表情の底に、怯えの色がある。
先頭の中年男が――
震える手で、小さな革の手帳を差し出す。
「こ、これが……『通商録』だ」
その声は、必死だった。
「これがあれば――ここに、入れるんだろう?」
『通商録(正式名称:協連通商録)』――
協連域での通行・就労・商売の権限を、紐で付与・記録する手帳。
アノンノアでは不要。
だが――彼らにとっては、安心の証なのだ。
受付の律紀さんが、柔らかく微笑む。
「ここでは、その手帳は必要ありません」
男の顔が、強張った。
「な、何だって……?」
「アノンノアでは――
〈志候域〉に登録すれば、暮らせます」
男は――
命綱だと思っていたそれが、
ただの紙切れだと告げられたかのように――
『通商録』を握りしめたまま、固まった。
列の後ろで、ざわめきが起きる。
「じゃあ、これは意味がないってことか?」
「でも、これがなければ通れないはずじゃ……」
「騙されてるんじゃ……」
不安が、波紋のように広がっていく。
理奈が――一歩、前に出た。
落ち着いた声で、言う。
「意味がないわけじゃない」
ざわめきが、少し静まる。
「ただ――ここでは、違う仕組みなんです」
彼女は、『通商録』を握りしめる男を見た。
「その手帳が、あなたを守ってくれた。
それは、事実です」
一呼吸置いて、続けた。
「でも、ここでは――
それがなくても、あなたは守られます」
「安心してください」
理奈は、優しく微笑んだ。
「アノンノアでは、身分や出身にかかわらず――
まず、《あなた自身》を見ますから」
彼女の言葉に、ざわめきは静まった。
男の手から、力が抜けていく。
『通商録』が、震えを止めた。
「……本当に、いいのか」
掠れた声で、男が呟く。
「俺みたいな者でも――」
律紀さんが、穏やかに頷いた。
「ええ。ようこそ、アノンノアへ」
俺はそんな様子を見ながら、ふと思った。
――制度が違えば、安心の拠り所も違う。『通商録』は、彼らにとって命綱のようなものだったのだ。
◆
だが――
〈志候域〉と名付けられた、希望の場所は、
穏やかな川のようには流れなかった。
アノンノアの理想と、協連の現実が混ざり合う。
奇妙な熱が、立つ。
故郷の訛り。
昔の身分で値踏みする、視線。
心の底に張り付いた、警戒。
協連の《残響》――
不信と、対立と、悪意――
それが、『天蓋』の下で、渦巻いている。
「ヴィリディアの連中が――
配給の水を、余分に取ってる」
「ポルトゥリアの奴らは、いつも徒党を組んで――
仕事を、さぼっている」
「オリエンティアから来た商人は――
裏で何か企んでるに違いない」
「やっぱり――
俺たちは、追い出されるんじゃないか……」
「『通商録』がないと――
認められないんだ……」
声は、日に日に大きくなっている。
些細な誤解や偏見が、すぐに言い争いの火種になる。
そして――
そのいくつかは、確信犯的に撒かれた悪意の種子のように、
明確な意図を持って拡散されているようにも見えた。
そのたび――
俺と理奈は、駆けつける。
理奈は〈志盤〉を開いて、
〈縁鎖〉の配給記録や仕事の達成度を示す。
俺は、短い調律の音で――
群衆の呼吸を、揃える。
『調和的対話』の作法で――
ほとんどの諍いは、大事になる前に収まった。
だが。
俺の胸の底で――
何かが、引っかかっている。
数字は、整う。
〈縁鎖〉の記録を見れば――
配給は公平。
仕事の配分も、適切。
だが――
律が、合わない。
まるで――
完璧な楽譜なのに、
演奏が、微妙にずれているような。
拍だけが、わずかに狂っている。
(これは、ただの混乱じゃない)
俺は、確信していた。
(誰かが――
意図的に、不協和音を奏でている)
計算された――
この協和を乱すための、音を。
新しい夜明けは、確かに訪れた。
だが――
その光の下には、まだ見えない影が潜んでいる。
俺は、窓の外を見た。
『朝暉天蓋』が、朝日を浴びて輝いている。
美しい。
希望に満ちている。
だが、『黎明天蓋』では――
不信の種が、静かに芽吹いている。
俺たちの本当の戦いは――
この理想郷の中で、
静かに、しかし確実に――
始まろうとしていた。
◆
〈志候域〉となった『黎明天蓋』は――
希望と混沌が混じり合う、坩堝だった。
様々な邦から来た人々。
彼らは、アノンノアの豊かな資源と自由に安堵しながらも――
故郷で身につけた訛りや習慣。
そして、心の奥底に染み付いた不信感。
それを、すぐには拭えずにいた。
広場を歩けば――
ヴィリディアの訛り。
ポルトゥリアの所作。
アルティフィキアの警戒心。
それらが、混じり合い、ぶつかり合っている。
「おい!」
工房から、怒声が響いた。
「その鉋は――
俺たちアルティフィキアの者が、先に見つけたはずだ!」
「何を言うか!」
別の男が、鉋を握りしめる。
「共有の工房の道具に――
誰のものだと、決まっているか!」
些細な、道具の取り合い。
それが、怒号に変わる。
協連では当たり前だった、生存競争。
その残響が――
この理想郷にまで、持ち込まれているのだ。
そのたびに――
俺と理奈は、駆けつけた。
「落ち着いてください」
理奈が、二人の間に立つ。
〈志盤〉を開いて、利用ログを提示する。
「記録によれば――
次は、このヴィリディアの方が使う番です」
男たちが、画面を見つめる。
「ですが――」
理奈は、続けた。
「その作業なら、こちらの旋盤の方が効率的かもしれません」
彼女は、別の工具を指し示す。
「使い方、ご存知ですか?」
冷静に、事実を示す。
そして、代替案を提示する。
男たちの興奮が、少しずつ収まっていく。
俺は、そのささくれだった魂の律動を和らげるように――
カリンバで、短い調律の音をそっと奏でた。
トゥリン――リン――
音が――空間に溶ける。
二人の荒い呼吸が、ゆっくりと重なり始める。
肩の力が抜け、拳が緩む。
やがて――
同じリズムで、息を吐く。
呼吸が、整っていく。
ほとんどの諍いは、そうやって――
大きな問題になる前に、収まっていった。
数週間後――
最初の《異変》が、起こるまでは。
それは、食料配給所から始まった。
「お腹が……」
「俺も、痛い……」
「昨日から、ずっと調子が……」
原因不明の、軽い腹痛と倦怠感を訴える者が――
急増したのだ。
命に関わるほどではない。
だが――
じわりと体力を奪い、
人々の心に不安の影を落とすには、
十分だった。
〈アノンノア機構〉は、即座に原因究明に乗り出した。
〈縁鎖〉の記録を元に――
全ての食材と水の供給ルートを、徹底的に調査する。
食材の検査。
加工の過程。
運搬の経路。
配給の記録。
すべてを、精査した。
だが――
結果は、〈異常なし〉。
その結論は――
最悪の形で、人々の間に疑心暗鬼を広げた。
「おかしいだろう」
最初は、囁きだった。
「機構が〈異常なし〉って言ってるのに――
なんで、腹が痛いんだ?」
「隠してるんじゃないか?」
囁きが、疑問に変わる。
「俺たち新参者を――
厄介払いしようとしてるんじゃ……」
「いや、違う」
別の声が上がる。
「これは、ポルトゥリアの連中の仕業だ。
あいつらは昔から、自分たちの食い扶持のためなら何でもする」
「そうだ! ヴィリディアの奴らが、
良い食材を隠してるに違いない!」
根も葉もない噂が――
まるで病のように、伝染していく。
俺は、その広がり方に――
不自然なものを、感じていた。
これは、自然発生的なパニックではない。
まるで――
誰かが意図的に、不協和音を指揮しているような。
巧妙で、悪意に満ちた、律動があった。
「……奏真」
その夜。
理奈が、深刻な顔で俺を呼んだ。
「ちょっと、来て」
工房の隅。
彼女の前には――
分解された〈律霊調理機〉と、
〈浄水装置〉のフィルターが並べられている。
「どうした?」
「機構の診断は〈異常なし〉」
理奈は、フィルターを手に取った。
「それは、正しいわ」
彼女の声が、震える。
「だって――これは、故障じゃないもの」
理奈は、偏光灯をフィルターの縁に――
浅い角度で当てた。
何かが――微かに、光を拾う。
「……何だ、これ?」
「見て」
彼女は、その光る微細な粉を――
慎重に、ピンセットで摘み上げた。
「……毒薬?」
俺が尋ねると、理奈は首を振った。
「ううん、毒薬じゃない」
彼女は、粉末を見つめる。
「これは……『漆鋼』の微粉」
「魔法金属がなぜ……?」
「協連の衡鏡柱とかインフラによく使われてるわ」
一呼吸置いて、続けた。
「それも――伝導率の低い『薄漆』相当のものね」
理奈は、懐から一本の磁化針を取り出した。
そっと、粉末に近づける。
息を詰めて――
世界の真実を確かめるかのような、精密な動き。
すると――
針先に触れるか触れないかの距離で、
粉末が一斉に立ち上がった。
磁力線に沿って――
完璧な幾何学模様を描く。
まるで――
死んでいた金属が、
見えざる指揮者のタクトに合わせ、
意思を持って整列したかのようだった。
「……これが、原因?」
「ええ」
理奈は、頷いた。
「伝導は弱い」
理奈は、粉末を見つめながら言った。
「でも、〈律霊機〉の――
ほんの僅かな誤作動を、誘発する」
彼女は、〈縁鎖〉の保守記録を〈志盤〉に表示した。
「滲みは0.2mm以下」
数値が、画面に浮かぶ。
「初動遅延も、0.3秒未満」
「どちらも――保守基準の許容範囲内」
理奈の声が、静かに響く。
「だから、機構の診断は〈異常なし〉」
「でも……」
彼女は、針先で踊る金属の粒子を睨みつけた。
「このノイズが、調理機の出力や浄水のミネラル調整を、微妙にズラすの」
「腹痛は、その結果の一つ。毒じゃなく、単なる『品質低下』」
「完璧なアノンノアのシステムに慣れた人から見れば――」
一呼吸置いて、続けた。
「『最近、どうも調子が悪いな』と思わせるには――
十分すぎるほどの、ノイズよ」
俺は、彼女の言葉に息を呑んだ。
物理的な破壊ではない。
人々の心に「不信の種子」を蒔き、コミュニティを内側から崩壊させるための、あまりにも巧妙な攻撃。
「犯人は、どうしてこんなことを……」
「分からない。でも──」
理奈は、工房の窓から、言い争う志候者たちの影を見やった。
「……成功しつつあるわ」
俺は、目を閉じた。
〈三・六・九〉の呼吸で、カリンバに意識を集中する。
街に渦巻く――
怒り。
不安。
疑い。
その不協和音の奥に――
確かに、感じる。
数字は、正しい。
だが――
拍が、歪んでいる。
一つの、冷たく、嘲笑うかのような――
合奏から半拍だけ外れ続ける、誰かの指揮。
顔も声も出さず、
調和そのものを蝕む――
”見えない手“ 。
その存在を――
俺たちは、この夜、
はっきりと認識した。




