第零部『亡命者』:第三章「志を奏でる都-アノンノア-」:四
社会基本の課程を終え――
俺と理奈は、『礎の郷』と呼ばれる実習地へと向かった。
『天蓋』を出ると、世界が変わった。
山影は、遅い朝を抱えている。
湿った土の匂いが、肺に沈む。
棚田の畔で、水が三拍に割れる。
鶏の声が、六拍で応える。
ここでは――
時間が、人の都合ではなく、畔の呼吸で進んでいる。
郷の中心にあったのは、古い木材で組まれた大きな一軒家。
煙突から、細い煙が立ちのぼる。
家の周りには、棚田や畑が段を重ねている。
自給自足――
その言葉が、これほど似合う場所はない。
出迎えてくれたのは――
日焼けした顔に、深い皺を刻んだ初老の夫婦だった。
「ようこそ」
男性が、笑った。
「俺が山田修吾。こっちは、かかあの楓だ」
握手をすると――土の匂いのする、分厚い手。
その隣で、楓と名乗った女性が、
人の良さそうな笑顔で言った。
「まあまあ、遠いところを。お腹は空いてないかい?」
その温かさに――
俺と理奈は、思わず顔を見合わせた。
まるで、家族に迎えられたような気がした。
二人は、アノンノアが『邦』となる以前から
この地に住み、似たような暮らしを続けてきた
『修和の民』の末裔だと――
律紀さんの話を思い出した。
◆
俺たちの『修己』実践は翌朝から始まった。授業ではなく、起きて、働き、食べ、眠ることの連なりだった。
最初の仕事は、畑の草むしり。
理奈は――
アルティフィキアで身につけた効率主義で、
驚くべき速さで進めていく。
その手つきは、まるで機械のようだった。
だが――
「リナちゃん」
楓さんが、静かに彼女の手を止めた。
「早いのは、いいことだ」
一呼吸置いて、続けた。
「でもね――見てごらん」
指さす先――
抜き跡は、浅く土を削っていた。
「根っこが、残っちまってる」
楓さんは、優しく言った。
「これじゃ、またすぐ生えて、野菜の養分を吸っちまう」
「雑な仕事は――」
楓さんの声が、少し厳しくなった。
「後で必ず、自分か誰かに返ってくる」
「糸の一本、塩の一粒、草の一本を――
丁寧に見つめることが、明日を動かす第一歩だよ」
理奈が、はっと顔を上げた。
彼女の世界では――
速さが、すべてだった。
丁寧さは、切り捨てられてきたのだ。
「……ごめんなさい」
理奈の声が、小さく震えた。
「謝るほどの事じゃないよ。次から気を付ければいいのさ」
楓さんは、微笑みながら言った。
俺は修吾さんに、工房の古い柵の修理を命じられた。単純な作業だ。すぐに飽きて、頭の中では新しいカリンバの旋律が鳴りはじめ、金槌のリズムも不規則になる。
その時――
背後から、修吾さんの静かな声。
「奏真」
俺は、手を止めた。
「木の声を、聞け」
修吾さんは、俺の手から金槌を抜き取った。
そして――
一本の釘を、寸分の狂いもなく打ち込んで見せた。
ト・ト・トン――
三度の打撃が、同じ拍に沈む。
「木には、木目という流れがある」
修吾さんは、木の表面を撫でながら言った。
「釘には、進むべき道がある。
金槌には、力を伝える一点がある」
一呼吸置いて、続けた。
「それらの声を聞き――
お前が、それを助けてやるんだ」
修吾さんは、俺を見た。
「感傷は、持ち込むな」
その目は、厳しかった。
「だが――最高の敬意を払え」
「それが――職人というもんだ」
その言葉が、胸に刺さった。
俺は、シラベと対話してきた。
魂の声を、聞いてきた。
だが――
木の、沈黙の声を聞いたことは、なかった。
その夜、焚き火のそばで短い旋律を弾くと、修吾さんは目だけで笑った。
「……“相棒”って呼ぶ理由は、今の音で分かった」
◆
季節は、巡る。
春。
種を蒔く。
小さな命を、土に託す。
夏。
汗を流して、草をむしる。
太陽が、容赦なく照りつける。
秋。
実りに感謝して、収穫する。
黄金色の稲穂が、風に揺れる。
冬。
楓さんに、織物を教わる。
修吾さんに、木工を教わる。
静かな、学びの季節。
だが――道は、平坦ではなかった。
二人とも、一度ずつ――
大きな壁に、ぶつかった。
理奈の失敗は――工房で試作した、棚の蝶番。
開閉のたび、耳障りな軋みが鳴る。
彼女は――癖で、油を差しかけた。
「――待ちな」
楓さんが、その手を止める。
「それは――《誤魔化す》って言うんだよ」
楓さんの声は、優しいが、厳しかった。
「音の源を治さなきゃ、またすぐ鳴くさ」
そこへ、修吾さん。
軋む材を手に取り、木口を指でなぞる。
「木の癖を、読んでいない」
彼は、理奈を見た。
「これじゃ木が泣くのも、当たり前だ」
理奈の顔が、青ざめた。
「私……また……」
アルティフィキアでも、同じことをしてきた。
速く作って、問題が出たら、誤魔化す。
「ごめんなさい……」
彼女の目から、涙がこぼれた。
「泣くことはない」
修吾さんは、優しく言った。
「気づいたんだ。それが、第一歩だ」
その日から、理奈は修吾さんから木材の乾燥、木殺し、木口の処理といった、基礎の基礎を徹底的に叩き込まれた。効率だけではない、素材との対話。彼女が初めて知る、ものづくりの作法だった。
俺の失敗は――柵の仕口だった。
完璧に組んだはずの込み栓が、翌朝には緩んで抜け落ちていた。
「なんで……」
俺は、呆然としていた。
昨日、確かに完璧に組んだはずなのに。
「木は――生きてるんだ、奏真」
修吾さんが、俺の隣で木の表面を撫でながら言った。
「この追い柾の目は――湿気を吸うと、こっちに反る」
指が、木目をなぞる。
「こっちの板目には――見えねえ捻じれがある」
「形だけ合わせても、意味がない」
修吾さんは、俺を見た。
「木の呼吸を読んで、それを見越して組め」
一呼吸置いて、続けた。
「形だけなら――夜のうちに、外れる」
その言葉が、胸に刺さった。
俺は――形だけを見ていた。
木の、内側の声を聞いていなかった。
「……すみません」
「いい。謝って済むうちは、思う存分挑戦していけ」
修吾さんは、優しく言った。
「木の声を聞く方法を、これから教える」
それから――
修吾さんは、根気よく教えてくれた。
木の呼吸を。
その声を聞く方法を。
それは――
俺がシラベの魂と対話するのとは、全く違う。
沈黙の、対話だった。
◆
そして――
一年間の実習の、終わり。
俺たちの最終課題は――
郷を流れる小川に、『音楽を奏でる橋』を架けることに決まった。
『修己』入門の最後に、夢物語のように語り合った――
あの橋だ。
修吾さんは、構造設計と木工技術を指導。
楓さんは、建設に携わる実習生の食事と休息の場を整える。
理奈は――
丁寧さと効率を、融合させた。
優美で、力学的に合理的な曲線の設計図を引く。
「出水期に備えて、通水断面を一割増やす」
彼女の目は、真剣だった。
「踏板には、濡れても滑らないよう――
微細な刻みを入れる」
俺は――
学んだ木の癖を読む技術を活かし、
欄干の音響設計を担当した。
「欄干の管は、三群」
カリンバを弾きながら、確かめる。
「基音・三度・五度」
「節が継手に来るよう、印を切る」
「風が――修己入門で学んだ〈三・六・九〉の拍で、
和音が立ち上がるように」
意見がぶつかる。
そのたび――
俺たちは、あの日の『調和的対話』を思い出して、重ねた。
ある日、理奈が設計図を見直していた。
「……ダメだ」
彼女が、呟く。
「この角度だと、荷重が一点に集中する」
「じゃあ、支柱を増やせば?」
俺が提案すると、理奈は首を振った。
「そうすると、川の流れを遮る」
二人で考える。
修吾さんが教えてくれた、木の性質。
楓さんが教えてくれた、丁寧さ。
そして――思優さんが教えてくれた、対話。
「……あ」
理奈が、顔を上げた。
「曲線を、もう少し緩やかにすれば――
荷重が分散して、支柱も最小限で済む」
「その分、欄干の音響設計を調整すれば――」
俺も、気づく。
「両立できる!」
一つ一つ、問題を解決していく。
二人で。対話しながら。
それは――この一年で学んだ、すべてを使う作業だった。
やがて――橋は、完成した。
川に、一拍。
空に、一拍。
里に、一拍。
橋が、刻み始めた。
風が、吹く。
『月寄樹』の欄干が――
巨大な風鈴のように、音を奏でた。
穏やかで、澄んだ音色。
それは――
この一年で、俺たちの魂が紡ぎ出した、協和音だった。
橋のたもとで――
修吾さんが、初めて仕事以外のことで、俺の肩を叩いた。
「……いい音色だ」
その声は、少し震えていた。
楓さんは――
ただ黙って、涙を浮かべて微笑んでいた。
俺と理奈も――
何も言えなかった。
ただ、自分たちが作った橋を見つめていた。
風が吹くたび、橋が歌う。
俺たちの、一年間が歌っている。
「……渡ってみる?」
理奈が、小さく言った。
「ああ」
二人で、橋を渡る。
一歩、また一歩。
踏板が、しっかりと足を支えてくれる。
欄干が、風を受けて歌う。
ヒュリン――リン――リン――
〈三・六・九〉の拍で、和音が響く。
橋の真ん中で、俺たちは立ち止まった。
川を、見下ろす。
水が、流れている。
変わらず、これからも流れ続ける。
「私たちが作ったんだね」
理奈が、呟いた。
「ああ」
俺も、実感が湧いてきた。
「俺たちが――作ったんだ」
◆
郷を去る日。
俺と理奈は、夫婦に深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
声が、震える。
「何を言うんだい」
楓さんが、笑った。
「私たちは――ただ一緒に、暮らしただけだよ」
楓さんは、カリンバに手作りの織り紐ストラップを結んでくれた。
温かい手が、俺の手に触れる。
「達者でな」
修吾さんは、不器用な手つきで――
俺の掌に、紙包みを握らせた。
中には、小さな込み栓。
頭に、三つの微細な切り欠きが刻まれている。
「お前たちの『志』――」
修吾さんは、俺たちを見た。
しばらく、沈黙。
やがて、彼は続けた。
「見届けさせてもらうぞ」
その言葉が――重かった。
約束であり、期待であり、信頼だった。
「はい」
俺たちは、深く頭を下げた。
振り返らず、歩き出す。
振り返ったら――泣いてしまいそうだった。
『天蓋』へと続く道を歩きながら――
理奈が、呟いた。
「私たち――少しは、変われたかな」
「ああ」
俺は、頷いた。
「変われた」
一呼吸置いて、続けた。
「そして――変わらないものも、見つけられた」
手の中のカリンバは――
楓さんの紐の温もりと、
修吾さんの木の重みで、
以前よりずっと、確かだった。
◆
『薄明天蓋』へ、帰還した。
一年ぶりの、『天蓋』。
そこには――見慣れた光景が広がっていた。
屋台の活気。
天蓋の律動。
「……ただいま」
理奈が、小さく呟いた。
「ああ――ただいま」
俺も、そう思った。
ここが、俺たちの帰る場所になっていた。
その夜。
俺たちは、それぞれの部屋で旅の荷を解いていた。
すると――
〈志端〉が、光を放った。
あの時と同じように。
しかし、前よりも少しだけ――誇らしげな光。
〈現況:探志邦民(遷籍完了)〉
〈歓迎:槻沢奏真〉
〈開始ガイド:志行邦民への道/体験授業+志の宣言/基準を満たすと遷籍〉
一年間の実習――それは、俺たちの帰化を認めるための、最後の対話だったのだ。
俺は、画面を閉じた。
カリンバの基音を、そっとはじく。
トゥリン――
机の上の込み栓が――
コツ、と指に返る。
《気のせい》で片づけるには、拍が正確すぎる。
三拍、置く。
六拍、聴く。
九拍目、『天蓋』のどこかで――
息を吸う気配がした。




