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第零部『亡命者』:第三章「志を奏でる都-アノンノア-」:四

社会基本の課程を終え――


俺と理奈は、『礎の郷』と呼ばれる実習地へと向かった。



『天蓋』を出ると、世界が変わった。


山影は、遅い朝を抱えている。

湿った土の匂いが、肺に沈む。


棚田の畔で、水が三拍に割れる。

鶏の声が、六拍で応える。


ここでは――

時間が、人の都合ではなく、畔の呼吸で進んでいる。



郷の中心にあったのは、古い木材で組まれた大きな一軒家。


煙突から、細い煙が立ちのぼる。

家の周りには、棚田や畑が段を重ねている。


自給自足――


その言葉が、これほど似合う場所はない。


出迎えてくれたのは――

日焼けした顔に、深い皺を刻んだ初老の夫婦だった。


「ようこそ」


男性が、笑った。


「俺が山田修吾。こっちは、かかあの楓だ」


握手をすると――土の匂いのする、分厚い手。


その隣で、楓と名乗った女性が、

人の良さそうな笑顔で言った。


「まあまあ、遠いところを。お腹は空いてないかい?」


その温かさに――

俺と理奈は、思わず顔を見合わせた。


まるで、家族に迎えられたような気がした。



二人は、アノンノアが『邦』となる以前から

この地に住み、似たような暮らしを続けてきた

『修和の民』の末裔だと――


律紀さんの話を思い出した。



俺たちの『修己』実践は翌朝から始まった。授業ではなく、起きて、働き、食べ、眠ることの連なりだった。


最初の仕事は、畑の草むしり。


理奈は――

アルティフィキアで身につけた効率主義で、

驚くべき速さで進めていく。


その手つきは、まるで機械のようだった。


だが――


「リナちゃん」


楓さんが、静かに彼女の手を止めた。


「早いのは、いいことだ」


一呼吸置いて、続けた。


「でもね――見てごらん」


指さす先――

抜き跡は、浅く土を削っていた。


「根っこが、残っちまってる」


楓さんは、優しく言った。


「これじゃ、またすぐ生えて、野菜の養分を吸っちまう」



「雑な仕事は――」


楓さんの声が、少し厳しくなった。


「後で必ず、自分か誰かに返ってくる」



「糸の一本、塩の一粒、草の一本を――

丁寧に見つめることが、明日を動かす第一歩だよ」



理奈が、はっと顔を上げた。


彼女の世界では――

速さが、すべてだった。


丁寧さは、切り捨てられてきたのだ。


「……ごめんなさい」


理奈の声が、小さく震えた。


「謝るほどの事じゃないよ。次から気を付ければいいのさ」


楓さんは、微笑みながら言った。



俺は修吾さんに、工房の古い柵の修理を命じられた。単純な作業だ。すぐに飽きて、頭の中では新しいカリンバの旋律が鳴りはじめ、金槌のリズムも不規則になる。


その時――

背後から、修吾さんの静かな声。


「奏真」


俺は、手を止めた。


「木の声を、聞け」



修吾さんは、俺の手から金槌を抜き取った。


そして――

一本の釘を、寸分の狂いもなく打ち込んで見せた。


ト・ト・トン――


三度の打撃が、同じ拍に沈む。



「木には、木目という流れがある」


修吾さんは、木の表面を撫でながら言った。


「釘には、進むべき道がある。

金槌には、力を伝える一点がある」


一呼吸置いて、続けた。


「それらの声を聞き――

お前が、それを助けてやるんだ」



修吾さんは、俺を見た。


「感傷は、持ち込むな」


その目は、厳しかった。


「だが――最高の敬意を払え」



「それが――職人というもんだ」



その言葉が、胸に刺さった。


俺は、シラベと対話してきた。

魂の声を、聞いてきた。


だが――


木の、沈黙の声を聞いたことは、なかった。


その夜、焚き火のそばで短い旋律を弾くと、修吾さんは目だけで笑った。

「……“相棒”って呼ぶ理由は、今の音で分かった」



季節は、巡る。



春。


種を蒔く。

小さな命を、土に託す。



夏。


汗を流して、草をむしる。

太陽が、容赦なく照りつける。



秋。


実りに感謝して、収穫する。

黄金色の稲穂が、風に揺れる。



冬。


楓さんに、織物を教わる。

修吾さんに、木工を教わる。


静かな、学びの季節。



だが――道は、平坦ではなかった。


二人とも、一度ずつ――

大きな壁に、ぶつかった。


理奈の失敗は――工房で試作した、棚の蝶番。


開閉のたび、耳障りな軋みが鳴る。


彼女は――癖で、油を差しかけた。


「――待ちな」


楓さんが、その手を止める。


「それは――《誤魔化す》って言うんだよ」


楓さんの声は、優しいが、厳しかった。


「音の源を治さなきゃ、またすぐ鳴くさ」



そこへ、修吾さん。


軋む材を手に取り、木口を指でなぞる。


「木の(くせ)を、読んでいない」


彼は、理奈を見た。


「これじゃ木が泣くのも、当たり前だ」



理奈の顔が、青ざめた。


「私……また……」


アルティフィキアでも、同じことをしてきた。

速く作って、問題が出たら、誤魔化す。


「ごめんなさい……」


彼女の目から、涙がこぼれた。



「泣くことはない」


修吾さんは、優しく言った。


「気づいたんだ。それが、第一歩だ」


その日から、理奈は修吾さんから木材の乾燥、木殺し、木口の処理といった、基礎の基礎を徹底的に叩き込まれた。効率だけではない、素材との対話。彼女が初めて知る、ものづくりの作法だった。


俺の失敗は――柵の仕口だった。


完璧に組んだはずの込み栓が、翌朝には緩んで抜け落ちていた。


「なんで……」


俺は、呆然としていた。


昨日、確かに完璧に組んだはずなのに。


「木は――生きてるんだ、奏真」


修吾さんが、俺の隣で木の表面を撫でながら言った。


「この追い柾の目は――湿気を吸うと、こっちに反る」


指が、木目をなぞる。


「こっちの板目には――見えねえ捻じれがある」



「形だけ合わせても、意味がない」


修吾さんは、俺を見た。


「木の呼吸を読んで、それを見越して組め」


一呼吸置いて、続けた。


「形だけなら――夜のうちに、外れる」



その言葉が、胸に刺さった。


俺は――形だけを見ていた。

木の、内側の声を聞いていなかった。


「……すみません」


「いい。謝って済むうちは、思う存分挑戦していけ」


修吾さんは、優しく言った。


「木の声を聞く方法を、これから教える」



それから――


修吾さんは、根気よく教えてくれた。


木の呼吸を。

その声を聞く方法を。


それは――

俺がシラベの魂と対話するのとは、全く違う。


沈黙の、対話だった。



そして――

一年間の実習の、終わり。


俺たちの最終課題は――

郷を流れる小川に、『音楽を奏でる橋』を架けることに決まった。


『修己』入門の最後に、夢物語のように語り合った――

あの橋だ。



修吾さんは、構造設計と木工技術を指導。

楓さんは、建設に携わる実習生の食事と休息の場を整える。



理奈は――

丁寧さと効率を、融合させた。


優美で、力学的に合理的な曲線の設計図を引く。


「出水期に備えて、通水断面を一割増やす」


彼女の目は、真剣だった。


「踏板には、濡れても滑らないよう――

微細な刻みを入れる」



俺は――

学んだ木の癖を読む技術を活かし、

欄干の音響設計を担当した。


「欄干の管は、三群」


カリンバを弾きながら、確かめる。


「基音・三度・五度」


「節が継手に来るよう、印を切る」


「風が――修己入門で学んだ〈三・六・九〉の拍で、

和音が立ち上がるように」



意見がぶつかる。


そのたび――

俺たちは、あの日の『調和的対話』を思い出して、重ねた。



ある日、理奈が設計図を見直していた。


「……ダメだ」


彼女が、呟く。


「この角度だと、荷重が一点に集中する」


「じゃあ、支柱を増やせば?」


俺が提案すると、理奈は首を振った。


「そうすると、川の流れを遮る」



二人で考える。


修吾さんが教えてくれた、木の性質。

楓さんが教えてくれた、丁寧さ。


そして――思優さんが教えてくれた、対話。


「……あ」


理奈が、顔を上げた。


「曲線を、もう少し緩やかにすれば――

荷重が分散して、支柱も最小限で済む」


「その分、欄干の音響設計を調整すれば――」


俺も、気づく。


「両立できる!」



一つ一つ、問題を解決していく。


二人で。対話しながら。


それは――この一年で学んだ、すべてを使う作業だった。



やがて――橋は、完成した。



川に、一拍。

空に、一拍。

里に、一拍。


橋が、刻み始めた。



風が、吹く。


『月寄樹』の欄干が――

巨大な風鈴のように、音を奏でた。


穏やかで、澄んだ音色。



それは――


この一年で、俺たちの魂が紡ぎ出した、協和音だった。



橋のたもとで――


修吾さんが、初めて仕事以外のことで、俺の肩を叩いた。


「……いい音色だ」


その声は、少し震えていた。



楓さんは――


ただ黙って、涙を浮かべて微笑んでいた。



俺と理奈も――


何も言えなかった。


ただ、自分たちが作った橋を見つめていた。


風が吹くたび、橋が歌う。


俺たちの、一年間が歌っている。



「……渡ってみる?」


理奈が、小さく言った。


「ああ」


二人で、橋を渡る。


一歩、また一歩。


踏板が、しっかりと足を支えてくれる。


欄干が、風を受けて歌う。


ヒュリン――リン――リン――


〈三・六・九〉の拍で、和音が響く。



橋の真ん中で、俺たちは立ち止まった。


川を、見下ろす。


水が、流れている。


変わらず、これからも流れ続ける。


「私たちが作ったんだね」


理奈が、呟いた。


「ああ」


俺も、実感が湧いてきた。


「俺たちが――作ったんだ」



郷を去る日。


俺と理奈は、夫婦に深々と頭を下げた。


「ありがとうございました」


声が、震える。


「何を言うんだい」


楓さんが、笑った。


「私たちは――ただ一緒に、暮らしただけだよ」



楓さんは、カリンバに手作りの織り紐ストラップを結んでくれた。


温かい手が、俺の手に触れる。


「達者でな」


修吾さんは、不器用な手つきで――

俺の掌に、紙包みを握らせた。


中には、小さな込み栓。

頭に、三つの微細な切り欠きが刻まれている。


「お前たちの『志』――」


修吾さんは、俺たちを見た。


しばらく、沈黙。


やがて、彼は続けた。


「見届けさせてもらうぞ」



その言葉が――重かった。


約束であり、期待であり、信頼だった。


「はい」


俺たちは、深く頭を下げた。



振り返らず、歩き出す。


振り返ったら――泣いてしまいそうだった。



『天蓋』へと続く道を歩きながら――


理奈が、呟いた。


「私たち――少しは、変われたかな」


「ああ」


俺は、頷いた。


「変われた」


一呼吸置いて、続けた。


「そして――変わらないものも、見つけられた」



手の中のカリンバは――


楓さんの紐の温もりと、

修吾さんの木の重みで、


以前よりずっと、確かだった。



『薄明天蓋』へ、帰還した。



一年ぶりの、『天蓋』。


そこには――見慣れた光景が広がっていた。


屋台の活気。

天蓋の律動。


「……ただいま」


理奈が、小さく呟いた。


「ああ――ただいま」


俺も、そう思った。


ここが、俺たちの帰る場所になっていた。



その夜。


俺たちは、それぞれの部屋で旅の荷を解いていた。


すると――


〈志端〉が、光を放った。


あの時と同じように。

しかし、前よりも少しだけ――誇らしげな光。


〈現況:探志邦民(遷籍完了)〉

〈歓迎:槻沢奏真〉

〈開始ガイド:志行邦民への道/体験授業+志の宣言/基準を満たすと遷籍〉


一年間の実習――それは、俺たちの帰化を認めるための、最後の対話だったのだ。


俺は、画面を閉じた。


カリンバの基音を、そっとはじく。


トゥリン――



机の上の込み栓が――

コツ、と指に返る。


《気のせい》で片づけるには、拍が正確すぎる。



三拍、置く。


六拍、聴く。


九拍目、『天蓋』のどこかで――


息を吸う気配がした。

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