第零部『亡命者』:第三章「志を奏でる都-アノンノア-」:三
『修己』入門の課程を終えた数日後。
俺と理奈は、再び律紀の元へ招集された。
場所は――『天蓋』の内壁に設けられた、展望ラウンジ。
窓の外には、アノンノアの風景が一望できる。
遠くに見える丘陵。
緑の段畑。
規則正しく律動する、骨組みの塔。
「今日、皆さんには『社会基本』の講習を受けてもらいます」
律紀が、窓際に立って言った。
「ここでは、このアノンノアという邦が、
どのような仕組みで動いているのか――
その根幹に、触れてもらいます」
律紀は、〈志盤〉にキーワードを映し出した。
〈アノンノア機構:三つの運用原理〉
「まず、大前提です」
彼女の声が、少し力を込める。
「機構は支配者ではありません。
私たちの『志』を支える――公共インフラです」
律紀は、一つ目の原理を指し示す。
〈一、志源配分原理〉
「この邦に、貨幣はありません」
理奈が、思わず声を上げた。
「え……?」
「暮らしの基礎は『志源権』として、
基礎配当枠と申請枠が全員に配られます」
律紀は、続けた。
「日々の選択は、皆さん自身で行います。
希少資源は、その用途を申請することで受け取れます」
理奈が、信じられないという顔で呟いた。
「じゃあ……働かなくても、生きていけるってこと?」
「ええ」
律紀は、静かに頷いた。
「この邦では、仕事は生きるための義務ではなく――
自らの『志』を形にするための、権利ですから」
俺と理奈は、顔を見合わせた。
共和国での、『役割』に縛られる日々。
協連で見た、『イリム』のために働く人々。
それらとは、全く違う世界が――ここにある。
次に、律紀は二つ目の原理を示した。
〈二、公開原則〉
「提案、議論、採決、実装、監査――
運営の全履歴は〈縁譜鎖〉――通称:〈縁鎖〉に編纂され、
誰でも閲覧できます」
律紀は、はっきりと言った。
「この邦に――密室はありません」
俺は、言葉を失った。
共和国の、決して覆ることのない絶対的な階級。
協連の、『衡位(FSI)』という名の巧妙な多数派支配。
それらを思い出す。
だが、ここは――
全ての人間が、邦のあり方を変える可能性を、
平等に持っている。
「本当に……誰でも?」
俺は、念のため確認する。
「ええ」
律紀は、優しく微笑んだ。
「誰でも、です」
最後に、三つ目の原理が映し出された。
〈三、ガバナンス――自律統治〉
「決めるのは《誰も》であり《全員》です。志行邦民は誰でも提案でき、支持された案は機構が実装します。更新は常態です」
「じゃあ、誰もやりたがらない仕事は?」
理奈が尋ねる。
「『公務』として要請が出ます。ですが、それは命令ではありません。
拒否も、相談もできます。その代わり、公務を担った人は、多くの尊敬と感謝を受け取ります。
強制ではなく、誇りこそが、この邦のインフラを支えているのです」
律紀は言った。
「説明はここまでです。百聞は一見に如かず、と言いますからね」
律紀は、二人を『天蓋』の外を一望できるバルコニーへと案内する。
「奏真さん。理奈さん。先ほど来られた時、あの風景――
特に天蓋や塔の《律動》を、とても興味深そうに見つめていましたね。
その正体を、今からご案内します」
◆
最初に案内されたのは、『蓄舎』と呼ばれる巨大なドームだった。
扉が開くと――
「冷たっ」
理奈が、思わず声を上げた。
白い息が、ふっと伸びる。
内部は――途方もなく広大な、静寂の空間。
甲虫めいた運搬機が、コンテナを滑らせている。
壁面に設置された昇降機が、静かに上下する。
天井からは、壁に沿って走る冷気の霧が――
均一な結露を作っては、消していく。
人の足音だけが、場違いに響いた。
「ここで一度、すべてを預かり、整え、送り返すんです」
律紀の声が、静かに響く。
「この邦には――《淀み》がありません」
理奈が、息を呑んだ。
「信じられない……一切の無駄がない。
それに、なんて静かなの……」
俺は――その完璧すぎるほどの静寂に、
何かを感じ取っていた。
共和国とは違う種類の、
しかし、どこか通じる――
《熱の匂いがしない秩序》
そう感じていた。
◆
次に訪れたのは――あの《生ける律動》の正体だった。
自律型農業地〈豊穣の律動〉。
そこでは、無数の律霊機が織りなす――
静かな労働のシンフォニーが広がっていた。
刈り穂の青い匂い。
銀のトンボ型が、霧を散らす。
ヒュウ――という風切り音。
人型が、害虫を摘む。
小さな機械音が、規則正しく響く。
収穫期の稲田では――
箱型機が、鯨のように田を泳いでいた。
穂だけを、静かに刈り取っていく。
ザッ、ザッ、ザッ――
それは、まさに――合奏だった。
「これ……」
俺は、思わず呟いていた。
「音楽だ」
自律型工業地〈創造の律動〉は――金属音のしない工場だった。
巨大な湾曲ドームの内側。
腕型の律霊機が、段取りだけで動く舞台のように、
静かに組み上げていく。
圧延機や溶鉱炉は、ない。
代わりに――
タールのように粘る、多様な素材。
それが『霊魔複合場』で、鋳るのではなく――”育って“いた。
部品の形へと、成長していく。
「これは……」
理奈が、職人の目で呟いた。
「製造じゃない。”育成“だ――」
「ええ」
律紀が頷く。
「モノを作るというより――
アイデアという種を、育てる場所なのです」
◆
そして最後に――
二人は、天蓋の中心部へと案内された。
「ここから先は」
律紀が、立ち止まった。
「普段は、入れません」
彼女は、真剣な表情で言った。
「今日は特別に、許可を得ました。
どうか――心して、ご覧ください」
扉が、開く。
そこにあったのは――一つの巨大な部屋。
環状に配置された、巨大な律霊機。
〈アノンノア核霊珠〉が搭載された〈アノンノア律霊核機〉が、
静かに明滅している。
壁や床を走る光の線は――まるで、血管のようだ。
「ここが――」
律紀の声が、静かに響いた。
「アノンノアの、心臓です」
俺と理奈は、その圧倒的な光景を前に――
ただ、立ち尽くすしかなかった。
「この機構は、英雄の霊珠から得た知識を元に、〈双代謝〉と呼ばれる動力源によって、半永久的に活動します。現場を担うのは、〈律霊能機〉たちです。そして、ここで起こる全ての事象、全ての決定は、〈縁鎖〉に残ります」
俺と理奈は、まだ言葉も出ない。
「しかし」と律紀は続けた。
「私たちも、この機構の全てを理解しているわけではありません。英雄の知識はあまりに膨大で、その完全な解読には、まだ多くの時間と、そして……私たちだけでは足りない知識が必要です」
その言葉に、俺はふと――疑問を口にした。
「俺は……」
言葉を選ぶ。
「これほど完璧な世界で――
俺たち人間に、できることはあるんだろうかと……」
胸の奥で、何かが揺れている。
共和国では、『役割』に縛られていた。
協連では、『衡位』に左右されていた。
ここでは――完璧なシステムに、守られている。
(俺は、何をすればいい?)
(俺の、存在意義は?)
一呼吸置いて、続けた。
「少しだけ……怖くなりました」
その言葉に――
律紀は、初めて心の底から微笑んだ。
「それこそが――『修己』実践の入り口です」
彼女は、優しく言った。
「奏真さん。良い問いです。
この素晴らしいシステムも――
元は、人の『志』から生まれました」
律紀の声が、温かみを帯びる。
「アノンノアが『邦』となる以前から、
この地には『修和の民』と呼ばれる人々がいました」
彼女は、遠くを見るような目をした。
「彼らは、日々の暮らしそのものを『修己』と捉え――
自然と、道具と、そして自らの心と対話しながら、
生きてきたのです」
その言葉に、俺の胸に何かが灯る。
(暮らしそのものが、修己)
(生きることが、学び)
そういう、生き方があるのか――
「アノンノア機構は」
律紀は、〈アノンノア律霊核機〉を見渡した。
「その哲学を、誰もが実践できるよう助けるための――
いわば、壮大な『器』にすぎません」
「どんなに優れた機構も」
彼女は、俺たちを見た。
「新しい音色を奏でることはできない。
未知の美しさを、発見することもできない」
一呼吸置いて、続けた。
「それは――私たちにしか、できないことです」
その言葉が、胸に沁みた。
俺は、拳を握りしめる。
(そうだ)
怖がる必要は、ない。
(機械にできないこと)
(俺にしかできないこと)
それは、きっとある。
(それを――見つけるんだ)
俺の中で、何かが変わった。
恐れが、期待に変わっていく。
彼女は続ける。
「次の課程では、あなた方自身の《手》で、その源流に触れてもらいます。
実習地『礎の郷』で皆さんを待つ、山田修吾さんと楓さんご夫妻も、その修和の民の血を引く方々です。
生きることを、自らの手で実感するために。そして、あなただけの音色を見つけるために」
律紀の言葉に、二人の胸に新たな火が灯る。
ただ与えられるだけの場所ではない。
自らの手で、この世界の調和に参加できるのだ。
二人は顔を見合わせ、力強く頷いた。
その夜。
呼び鈴が鳴った。
理奈だ。
彼女の〈志端〉も、同じ光を放っている。
〈開始ガイド:修己実践/実習予約/
一年間の住み込み実習+課題完遂で遷籍(※遷籍=所属区分の移行)〉
〈実習地:礎の郷(管理:山田修吾・山田楓)〉
一年間――
その文字を、じっと見つめる。
長い。
でも――必要な時間なのだろう。
「……行くんでしょ?」
理奈の声。
少しだけ不安そうな、でも――
強い光を宿した瞳で、俺を見ている。
その問いは、彼女自身への確認のようでもあった。
「当たり前だろ」
俺が短く応えると――
彼女の表情が、ふっと和らいだ。
「……よかった」
小さく、そう呟いた。
俺たちは肩を並べ、同時に登録ボタンに触れる。
澄んだ鐘の音が、二つ――重なった。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
部屋に戻り、俺は膝のカリンバに指を置く。
窓の外では、『天蓋』が静かに脈打っている。
その律動に合わせるように――
俺は、理奈と共に踏み出す次の一歩を想い、
未来へ向けて、最初の音を奏でた。
トゥリン――
澄んだひと音が、部屋の静寂に溶けていく。
――行こう。
暮らしの中へ。
この音の続きは――
あの郷で、見つける。




