表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/38

第零部『亡命者』:第三章「志を奏でる都-アノンノア-」:三

『修己』入門の課程を終えた数日後。


俺と理奈は、再び律紀の元へ招集された。


場所は――『天蓋』の内壁に設けられた、展望ラウンジ。


窓の外には、アノンノアの風景が一望できる。

遠くに見える丘陵。

緑の段畑。

規則正しく律動する、骨組みの塔。


「今日、皆さんには『社会基本』の講習を受けてもらいます」


律紀が、窓際に立って言った。


「ここでは、このアノンノアという邦が、

どのような仕組みで動いているのか――

その根幹に、触れてもらいます」


律紀は、〈志盤〉にキーワードを映し出した。


〈アノンノア機構:三つの運用原理〉


「まず、大前提です」


彼女の声が、少し力を込める。


「機構は支配者ではありません。

私たちの『志』を支える――公共インフラです」


律紀は、一つ目の原理を指し示す。


〈一、志源配分原理〉


「この邦に、貨幣はありません」



理奈が、思わず声を上げた。


「え……?」


「暮らしの基礎は『志源権』として、

基礎配当枠と申請枠が全員に配られます」


律紀は、続けた。


「日々の選択は、皆さん自身で行います。

希少資源は、その用途を申請することで受け取れます」


理奈が、信じられないという顔で呟いた。


「じゃあ……働かなくても、生きていけるってこと?」


「ええ」


律紀は、静かに頷いた。


「この邦では、仕事は生きるための義務ではなく――

自らの『志』を形にするための、権利ですから」


俺と理奈は、顔を見合わせた。


共和国での、『役割』に縛られる日々。

協連で見た、『イリム』のために働く人々。


それらとは、全く違う世界が――ここにある。


次に、律紀は二つ目の原理を示した。


〈二、公開原則〉


「提案、議論、採決、実装、監査――

運営の全履歴は〈縁譜鎖〉――通称:〈縁鎖〉に編纂され、

誰でも閲覧できます」


律紀は、はっきりと言った。


「この邦に――密室はありません」



俺は、言葉を失った。


共和国の、決して覆ることのない絶対的な階級。

協連の、『衡位(FSI)』という名の巧妙な多数派支配。


それらを思い出す。


だが、ここは――


全ての人間が、邦のあり方を変える可能性を、

平等に持っている。


「本当に……誰でも?」


俺は、念のため確認する。


「ええ」


律紀は、優しく微笑んだ。


「誰でも、です」


最後に、三つ目の原理が映し出された。


〈三、ガバナンス――自律統治〉


「決めるのは《誰も》であり《全員》です。志行邦民は誰でも提案でき、支持された案は機構が実装します。更新は常態です」

「じゃあ、誰もやりたがらない仕事は?」


理奈が尋ねる。


「『公務』として要請が出ます。ですが、それは命令ではありません。

拒否も、相談もできます。その代わり、公務を担った人は、多くの尊敬と感謝を受け取ります。

強制ではなく、誇りこそが、この邦のインフラを支えているのです」


律紀は言った。


「説明はここまでです。百聞は一見に如かず、と言いますからね」


律紀は、二人を『天蓋』の外を一望できるバルコニーへと案内する。


「奏真さん。理奈さん。先ほど来られた時、あの風景――

特に天蓋や塔の《律動》を、とても興味深そうに見つめていましたね。

その正体を、今からご案内します」



最初に案内されたのは、『蓄舎(ちくしゃ)』と呼ばれる巨大なドームだった。


扉が開くと――


「冷たっ」


理奈が、思わず声を上げた。


白い息が、ふっと伸びる。


内部は――途方もなく広大な、静寂の空間。


甲虫めいた運搬機が、コンテナを滑らせている。

壁面に設置された昇降機が、静かに上下する。


天井からは、壁に沿って走る冷気の霧が――

均一な結露を作っては、消していく。


人の足音だけが、場違いに響いた。


「ここで一度、すべてを預かり、整え、送り返すんです」


律紀の声が、静かに響く。


「この邦には――《淀み》がありません」


理奈が、息を呑んだ。


「信じられない……一切の無駄がない。

それに、なんて静かなの……」


俺は――その完璧すぎるほどの静寂に、

何かを感じ取っていた。


共和国とは違う種類の、

しかし、どこか通じる――


《熱の匂いがしない秩序》


そう感じていた。



次に訪れたのは――あの《生ける律動》の正体だった。


自律型農業地〈豊穣の律動〉。


そこでは、無数の律霊機が織りなす――

静かな労働のシンフォニーが広がっていた。


刈り穂の青い匂い。


銀のトンボ型が、霧を散らす。

ヒュウ――という風切り音。


人型が、害虫を摘む。

小さな機械音が、規則正しく響く。


収穫期の稲田では――

箱型機が、鯨のように田を泳いでいた。


穂だけを、静かに刈り取っていく。


ザッ、ザッ、ザッ――


それは、まさに――合奏だった。


「これ……」


俺は、思わず呟いていた。


「音楽だ」



自律型工業地〈創造の律動〉は――金属音のしない工場だった。


巨大な湾曲ドームの内側。


腕型の律霊機が、段取りだけで動く舞台のように、

静かに組み上げていく。


圧延機や溶鉱炉は、ない。


代わりに――


タールのように粘る、多様な素材。

それが『霊魔複合場』で、鋳るのではなく――”育って“いた。


部品の形へと、成長していく。


「これは……」


理奈が、職人の目で呟いた。


「製造じゃない。”育成“だ――」


「ええ」


律紀が頷く。


「モノを作るというより――

アイデアという種を、育てる場所なのです」



そして最後に――


二人は、天蓋の中心部へと案内された。


「ここから先は」


律紀が、立ち止まった。


「普段は、入れません」


彼女は、真剣な表情で言った。


「今日は特別に、許可を得ました。

どうか――心して、ご覧ください」



扉が、開く。


そこにあったのは――一つの巨大な部屋。


環状に配置された、巨大な律霊機。

〈アノンノア核霊珠〉が搭載された〈アノンノア律霊核機〉が、

静かに明滅している。


壁や床を走る光の線は――まるで、血管のようだ。


「ここが――」


律紀の声が、静かに響いた。


「アノンノアの、心臓です」



俺と理奈は、その圧倒的な光景を前に――

ただ、立ち尽くすしかなかった。


「この機構は、英雄の霊珠から得た知識を元に、〈双代謝ツインメタ〉と呼ばれる動力源によって、半永久的に活動します。現場を担うのは、〈律霊能機〉たちです。そして、ここで起こる全ての事象、全ての決定は、〈縁鎖〉に残ります」


俺と理奈は、まだ言葉も出ない。


「しかし」と律紀は続けた。

「私たちも、この機構の全てを理解しているわけではありません。英雄の知識はあまりに膨大で、その完全な解読には、まだ多くの時間と、そして……私たちだけでは足りない知識が必要です」


その言葉に、俺はふと――疑問を口にした。


「俺は……」


言葉を選ぶ。


「これほど完璧な世界で――

俺たち人間に、できることはあるんだろうかと……」


胸の奥で、何かが揺れている。


共和国では、『役割』に縛られていた。

協連では、『衡位』に左右されていた。


ここでは――完璧なシステムに、守られている。


(俺は、何をすればいい?)

(俺の、存在意義は?)


一呼吸置いて、続けた。


「少しだけ……怖くなりました」



その言葉に――


律紀は、初めて心の底から微笑んだ。


「それこそが――『修己』実践の入り口です」


彼女は、優しく言った。


「奏真さん。良い問いです。

この素晴らしいシステムも――

元は、人の『志』から生まれました」


律紀の声が、温かみを帯びる。


「アノンノアが『邦』となる以前から、

この地には『修和の民(しゅうわのたみ)』と呼ばれる人々がいました」


彼女は、遠くを見るような目をした。


「彼らは、日々の暮らしそのものを『修己』と捉え――

自然と、道具と、そして自らの心と対話しながら、

生きてきたのです」


その言葉に、俺の胸に何かが灯る。


(暮らしそのものが、修己)

(生きることが、学び)


そういう、生き方があるのか――


「アノンノア機構は」


律紀は、〈アノンノア律霊核機〉を見渡した。


「その哲学を、誰もが実践できるよう助けるための――

いわば、壮大な『器』にすぎません」



「どんなに優れた機構も」


彼女は、俺たちを見た。


「新しい音色を奏でることはできない。

未知の美しさを、発見することもできない」


一呼吸置いて、続けた。


「それは――私たちにしか、できないことです」



その言葉が、胸に沁みた。


俺は、拳を握りしめる。


(そうだ)


怖がる必要は、ない。


(機械にできないこと)

(俺にしかできないこと)


それは、きっとある。


(それを――見つけるんだ)


俺の中で、何かが変わった。


恐れが、期待に変わっていく。


彼女は続ける。

「次の課程では、あなた方自身の《手》で、その源流に触れてもらいます。

実習地『礎の郷(いしずえのさと)』で皆さんを待つ、山田修吾さんと楓さんご夫妻も、その修和の民の血を引く方々です。

生きることを、自らの手で実感するために。そして、あなただけの音色を見つけるために」


律紀の言葉に、二人の胸に新たな火が灯る。

ただ与えられるだけの場所ではない。

自らの手で、この世界の調和に参加できるのだ。

二人は顔を見合わせ、力強く頷いた。


その夜。


呼び鈴が鳴った。


理奈だ。


彼女の〈志端〉も、同じ光を放っている。


〈開始ガイド:修己実践/実習予約/

一年間の住み込み実習+課題完遂で遷籍(せんせき)(※遷籍=所属区分の移行)〉


〈実習地:礎の郷(管理:山田修吾・山田楓)〉



一年間――


その文字を、じっと見つめる。


長い。


でも――必要な時間なのだろう。


「……行くんでしょ?」


理奈の声。


少しだけ不安そうな、でも――

強い光を宿した瞳で、俺を見ている。


その問いは、彼女自身への確認のようでもあった。


「当たり前だろ」


俺が短く応えると――

彼女の表情が、ふっと和らいだ。


「……よかった」


小さく、そう呟いた。


俺たちは肩を並べ、同時に登録ボタンに触れる。


澄んだ鐘の音が、二つ――重なった。


「じゃあ、また明日」


「ああ」



部屋に戻り、俺は膝のカリンバに指を置く。


窓の外では、『天蓋』が静かに脈打っている。


その律動に合わせるように――


俺は、理奈と共に踏み出す次の一歩を想い、

未来へ向けて、最初の音を奏でた。


トゥリン――


澄んだひと音が、部屋の静寂に溶けていく。


――行こう。


暮らしの中へ。


この音の続きは――


あの(さと)で、見つける。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ