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第零部『亡命者』:第三章「志を奏でる都-アノンノア-」:二

受講初日。


薄光に満ちた教室には、すでに四人の『志候』がいた。


一つの長机に、家族らしい四人が並んで座っている。

人の良さそうな父親と、気丈そうな母親。

そして、俺たちと同じくらいの年頃の、兄と妹。


俺と理奈は、空いている席に並んで腰を下ろした。


「初めまして。僕はマリオン・テオ。ヴィリディア邦から来ました」


兄が、訥々と話し始める。


「こちらは妹のティナと、父のセルジュ、母のアメリーです」


「槻沢奏真です」

「綾織理奈です。よろしくお願いします」


「生活が……行き詰まって」


テオの言葉が、少し詰まる。


「避難してきたんです、ここに」


ティナが、とん、とんと机を叩く。

(緊張すると出る癖なのだろう)


「でも――」


彼女は、小さく笑った。


「ここなら、やり直せるって。そう思ってます」


ほどなくして、扉が開いた。


一人の男が、静かに入ってくる。


柔らかな雰囲気。

だが、目の奥に――静かな芯を感じさせる人物だった。


「皆さん、こんにちは」


その声は、朗らかで温かい。

教室の緊張が、ふっと和らいだ。


「私は教師ではなく――『志導(しどう)』として、

『修己』の入口を案内します」


彼は、柔らかく微笑んだ。


「名は思優(しゅう)。どうぞよろしく」


「それでは、さっそく〈志盤〉の『修己』入門を開いてください」


俺は〈志盤〉に触れる。

画面が、淡く光った。


「最初に、序文を一行ずつ、心で味わうように音読しましょう」


思優が、俺を見た。


「では、奏真さんから」


俺は促されるまま、〈志盤〉に浮かび上がった最初の言葉を――

ゆっくりと、声に出した。


「人は、自らの可能性をひらくために生まれました」


一呼吸。


「その道しるべを、私たちは『志』と呼びます……」


理奈が、次の行を読む。

その声は、静かで、しかし確かだった。


マリオン家が、一人ずつ言葉を紡いでいく。


「『修己』とは、自らの行いを整え――《修身》」


「心を調え――《修心》」


最後の行を、ティナが読んだ。


「今日から、あなたの魂が奏でたがっている音色を探す旅を、

はじめましょう」




序文が終わると、教室には少しの沈黙が流れた。


理奈が、小さく息をつく。

テオが、「なるほど」と呟く。


俺の心にも――

カリンバの鍵をそっと弾かれたような、

澄んだ余韻が残っていた。


「この文章は『アノンノア原理』の冒頭を要約したものです。いわば、私たちの邦の理念です」


思優は笑みを浮かべて続けた。

「さて。『修己』入門の基本的な流れは――体験、言語化、そして『小さな約束』です」


〈志盤〉に二行が浮かぶ。


〈目的:全部を正しくではなく、ひとつを確かに。〉

〈手順:体験 → 言語化 → 小さな約束(24 時間以内に実行)。〉


「毎回、皆さん自身で『小さな約束』を決めてもらいます。完璧である必要はありません。できなかった日は《なぜ》を一行。それも前進――『修己』は観察から始まります」

ティナが安堵したように笑った。



それからの数日は、まさに発見の連続だった。


最初の授業は『姿勢と呼吸』。《三・六・九の呼吸》を実践すると、頭の芯がすっと澄んでいくのを感じた。


次の日は『挨拶の作法』。


思優は言った。


「挨拶は、他者の存在を認め、敬意を示す《最初の音》です」


その言葉に、俺ははっとした。


共和国の挨拶は――階級を確認する儀礼だった。

《白天族》には深く頭を下げ、

《代わり》に顎で示される。


協連では――取引を円滑にする道具だったのを見た。

《お客様》には笑顔を作り、

《使用人》には目も合わせない。


「奏真さん、どうしました?」


思優の声に、我に返る。


「いえ……今まで、挨拶の意味を考えたことがなくて」


「そうですか」


思優は、優しく微笑んだ。


「本来の挨拶は、支配のためでも、得をするためでもありません。

ただ――相手を尊重するため」


一呼吸置いて、続けた。


「相手が誰であれ、その存在を認め、敬意を示す。

それが、アノンノアの挨拶です」




その日の帰り道。


俺たちは、自然と背筋を正して、彩恵さんの屋台へ向かった。


夕飯を受け取る時――

俺と理奈は、今までで一番深く、自然に頭を下げていた。


「いつもありがとう、彩恵さん」


「おう!」


彩恵さんの笑顔が――昨日より少しだけ、温かく感じられた。


「また明日な!」


『整頓三点』の授業では、靴を揃えるだけで、帰るべき場所が少しだけ温かくなることを知った。

『一筆感謝』では、言葉にした途端、見過ごしていた日常の出来事が光を帯びて立ち上がるのを感じた。

俺たちが立てた『小さな約束』は、志盤に記録されていく。できた日の○、できなかった日の×。

思優は言った。

「×は敗北ではなく、観測点です」


『修身』が身体の《調律》なら、『修心』は魂の《調律》だった。



ある日、思優が書板に六つの言葉を書いた。


【喜び、怒り、悲しみ、恐れ、驚き、嫌悪】


「これが、人の基本的な感情です」


思優が、書板を指し示す。


「感情は、魂が放つ信号です」


「怒りは――“守るべきものがある”と知らせます。

悲しみは――“失ったものの価値”を思い出させます」


彼は、一つ一つの言葉に触れながら続けた。


「感情を敵にするのではなく、その声に耳を澄ませてください」




次に、〈志盤〉に例題が表示された。


〈同僚に意見を無視された〉


「これを、三つに分けてみましょう」


思優が言う。


「事実――何が起きたのか。

推測――どう解釈したのか。

感情――何を感じたのか」


俺たちは、それぞれ〈志盤〉に向かう。


隣で、理奈がはっとしたように顔を上げた。


「理奈さん?」


「……私、工房で親方に図面を無視されたことがあって」


彼女の声は、小さかった。


「ずっと、《役立たずだと思われている》って……」


一呼吸置いて、続けた。


「でも、それは――推測、だったのかもしれない」


思優が、優しく頷く。


「そうです。事実と推測を分けることで、

不必要な苦しみから解放されることがあります」


――「私は怒っている」ではなく「私は怒りを《感じている》」と言い直す練習。


――感情に呑まれそうな時に、呼吸を整えて作る《間》。


一つ一つの学びが、固く閉ざされていた俺たちの心を、少しずつ解きほぐしていった。



そして、入門課程の締めくくりは、円形に机を並べての対話だった。

書板には、ひときわ大きく文字が書かれていた。

【小川に架ける橋】


「今日で入門の授業は一区切り。最後は『調和的対話』です」

思優が柔らかい声で語る。

「対話とは、相手を打ち負かすことではなく、響き合うこと。異なる声を合わせ、第三の音を生むことです」


「想像してみてください。目の前に小川が流れています。こちら岸と向こう岸をつなぐ、小さな橋を設計しましょう。

――あなたにとって“良い橋”とは、どんな条件を備えたものですか?」


受講者たちはしばし黙考し、やがて一人ずつ口を開いた。


「効率性と耐久性」理奈が言った。「最小の資材と時間で建設でき、最大の荷重に耐え、長く使えることです」

「美しさと心地よさ」俺が続けた。「ただ渡るための道具ではなく、立ち止まって川を眺めたくなるような、心を安らげる橋です」

「自然との調和、でしょうか」ティナが、とん、とんと机を叩きながら口を開いた。「魚の棲み処や水流を壊さないことが、最も大切だと思います」


「それぞれは、どう助け合いますか?」


思優が、問いを重ねた。


少しの沈黙。


やがて、テオが口を開いた。


「強度があるから――遊び心の意匠を載せられる、とか?」


「ああ!」


理奈が、目を輝かせながら言う。


「美しい橋は人の流れを生む。

結果として――効率的になる」


「人が川を愛でれば」


ティナが、とん、とんと机を叩きながら言った。


「自然を守る心が、育つかも」


俺が、最後に続けた。


「風が吹けば音を奏でる欄干(らんかん)なら――

自然と、共演できる」


「素晴らしい!」


思優が、書板に書き始める。


対話から生まれた設計図が、形を取っていく。


【構造:効率的かつ頑丈】

【素材:『月寄樹(つきよりじゅ)』――年輪が淡く光り、『月光養生(げっこうようせい)』で自己修復】

【意匠:風が吹けば音を奏でる、巨大な楽器のような欄干】


「一人では生まれなかった橋が――」


思優は、満足げに微笑んだ。


「ここに、あります」


「今日まで学んだ『修己』は、『志』の入口に過ぎません。あなたがどのように歩み続けるかで、いかような人生にもなります。どうか、今日の対話のように、自分の声と相手の声を重ねて、新しい調和を奏でてください」

と静かに告げた。


最後に、〈志盤〉にページが表示された。

〈次の扉へ:志行の修己〉

「迷ったら、ここに列ぶ行いから一つ真似してみてください。真似は立派な次の一歩です」


深い礼で結ぶ思優。その背に、自然と全員が頭を下げていた。



教室を出ると、夕焼けがドームの空を赤く染めていた。

「…橋、良かったな」

理奈が笑う。「『風鈴欄干』、本当に作れたらいいのに」

「作ろう。いつか、必ず」


その夜。小さな部屋で、〈志端〉が淡く脈打つ。


〈開始ガイド:社会基本/授業予約/一通り受講で通過〉


呼び鈴が鳴る。扉の向こうには理奈。彼女の〈志端〉も、俺のものと同じ画面で淡く脈打っていた。

「一緒に、押そっか」


「ああ」

俺は短く応え、理奈と向き合う。


「せーの」


理奈の声に合わせ――

俺たちは同時に、それぞれの〈志端〉に表示された

登録ボタンを押した。




澄んだ鐘の音。


一つ。


そして、もう一つ。


二つの音が、寸分違わず重なって、部屋に響いた。




〈予約完了〉


表示が、淡く流れる。


画面の光が消えると、部屋に静けさが戻った。


「……ぴったり合ったね」


理奈が、少し照れたように笑う。


「ああ」


俺も、自然と笑顔になっていた。


「じゃあ、また明日」


理奈が頷き、自分の部屋へ戻っていく。


扉が閉まり――再び、一人になる。


俺は、膝の上のカリンバに指を置く。


授業で学んだ、《三・六・九の呼吸》。


吐ききる息に合わせ――

ひと音だけを、そっと奏でた。


トゥリン――


澄んだ音色が、部屋の空気に橋を架ける。


あの日の授業で、俺たちが夢見た橋。


俺の魂の音色が――

今、この部屋と、外で律動する『天蓋』の鼓動とを、繋いでいく。




俺は、この『天蓋』の音になる。


いや――


この『天蓋』と響き合う、俺だけの《音》を奏でるのだ。




その決意が、音と共に――


静かに、胸に灯った。

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