第三部『聖アージェンティウム共和国 ― 白環の響解 ―』:第三章「新生の都-調和の萌芽-」:一
天律教皇ユリウスの失脚――
それは、聖アージェンティウム共和国に――
長きにわたる《静寂》の終焉を、告げた。
玉座の間を埋め尽くした国民たちの怒りと、解放の歓声。
その声は、聖都全体に木霊した。
旧体制の象徴であった白環七家――
アロワール家、ミラルジャン家、ジヴレクール家。
その権力は、まるで砂の城のように、音を立てて崩れ去った。
◆
シルヴァン・ド・ミラルジャンは、混乱の中で姿を消した。
誰も、彼の行方を知らない。
ダミアン・ド・ジヴレクールは――
自らの家門の不名誉と、甥への裏切りに打ちひしがれ、
衛士庁の指揮権を完全に放棄した。
彼の目は虚ろだった。まるで、魂が抜け落ちたかのように。
その顔には、長きにわたる支配がもたらした疲弊と――
秩序の崩壊への絶望が、深く刻まれていた。
◆
しかし、自由は常に混沌と隣り合わせだ。
数百年もの間、《静寂こそ善》という教義の下で生きてきた国民たち。
『偽りの聖水』による精神支配に縛られてきた人々。
大聖堂から街へと溢れ出した歓喜の裏には――
長年の服従から解放されたことへの不安、先行き不透明な未来への恐れ。
人々は、互いの顔を見合わせる。
どうすればいいのか。何を感じればいいのか。
わからずに、不安げにざわめき合っていた。
「これから……どうすればいい?」
「誰が、私たちを導くんだ?」
「本当に、これで良かったのか?」
不安は、次第に恐怖へと変わりつつあった。
革命の熱狂が冷めた後に――
現実の問題が、人々を襲い始めていた。
◆
その時――
「静かになれ!」
崩壊した大聖堂の玉座の間で、一人の男が立ち上がった。
カシアン・ド・ジヴレクール。
押し寄せる群衆に向かって、彼は声を張り上げた。
その声は、混乱の中にも確かな響きを持っていた。
ざわめきが、徐々に静まっていく。
「これ以上、混沌に呑まれてはならない!」
カシアンの声が、響く。
「我々は確かに、《静寂》という名の牢獄を打ち破った」
一呼吸。
「だが、それは混沌に身を委ねるためではない」
カシアンの目が、人々を見渡す。
「新たな《アージェンティウム》を築くためだ!」
彼の隣には、シエル・ド・セレスティエが立っていた。
静かに、しかし確固たる存在感を持って。
その知的な眼差しが、群衆一人ひとりの不安を捉えている。
シエルが、一歩前に出た。
「私たちは、真の『天律教』を取り戻すために立ち上がりました」
シエルは、大きく息を吸った。
「それは、秩序と感情が対立する《混沌》ではありません」
シエルの視線が、人々を見渡した。
「旧体制の《静寂》は、個を否定し、感情を封じ込めた。
だが、真の『天律教』は違います」
一拍。
「多様な《音》が響き合い、真に調和する世界――
それこそが、我々が目指すものです!」
シエルの視線が、人々を見渡した。
その言葉に、人々の間からざわめきが起こった。
だが、それは恐れではなく、希望のざわめきだった。
「私たちは、新たな共同体を設立します」
シエルの声は、静かだが明瞭だった。
「〈アージェンティウム志區〉――
革命派が掲げる真の『天律教』を守り、
新たなアージェンティウムの未来を築くための組織です」
シエルの目が、光る。
シエルは、隣のカシアンを見た。
「カシアン・ド・ジヴレクールが、その代表として。
そして私、シエル・ド・セレスティエが、思想的な柱として――
混乱する民衆をまとめ、新たな方向性を示します」
彼らの言葉は、不安に苛まれる人々の心に、新たな希望の灯をともした。
聖堂内に響くその声に、民衆は徐々に静まり返り――
真剣に、耳を傾け始めた。
◆
「我らは、アノンノアの《調律》の思想を――
この新しい共同体の根幹とする」
カシアンは、続けた。
「個人の感情と自由を尊重し、霊法を平和的に利用する新たな道を――
このアージェンティウムで、築き上げる!」
拳が、握られる。
カシアンは、深呼吸をした。
次の言葉が、どれほど重いものか、彼は理解していた。
「その為に……我々、新生アージェンティウムは――」
聖堂内が、静まり返った。
人々が、息を呑んでいる。
カシアンは、まっすぐ前を見据えた。
「アノンノア協和連への加入を、目指す」
カシアンの声が、響く。
一瞬の、沈黙。
そして――ざわめきが、起こった。
「アノンノア……?」
「あの、《混沌》の国に……?」
動揺が、波のように広がる。
だが、カシアンは続けた。
「恐れることはない」
彼の声が、動揺を鎮める。
「アノンノアは、我々が思い込まされていたような《混沌》ではない。
そこには、多様性と自由の中で、真の調和を実現した――
新たな世界がある」
そして、カシアンは続けた。
「さらに、霊窟孔の管理と霊法の研究を行う――
〈白環霊域志區〉の設立を、ここに宣言する」
カシアンの声は、力強かった。
「共和国の硬く閉ざされていた扉は、今、開かれる。
外部の《調和》の光を、受け入れるのだ!」
それは、聖都の歴史上、誰もが想像し得なかった――
新たな時代の幕開けを告げる、宣言だった。
◆
最初は、沈黙だった。
誰もが、この歴史的な瞬間の重みを噛みしめていた。
そして――
一人の老人が、拍手を始めた。
次に、若い女性が。労働者が。保護国民が。
やがて、それは大きな拍手の波となって、聖堂を満たした。
涙を流す者もいた。
笑顔を見せる者もいた。
まだ戸惑いを隠せない者もいた。
だが、確かに――希望が、そこにあった。
新たな時代が、始まろうとしていた。
◆
群衆の中で、奏真は静かにカリンバを抱いていた。
理奈が、隣で微笑んでいる。
リラが、感動の涙を流している。
ラカンとアキが、力強く頷いている。
そして、カシアンとシエルが、新たな未来を語っている。
奏真は、思った。
自分の音楽が、本当に人々を変えた。
静寂は破られ、《響解》が訪れた。
だが、これは終わりではない。
始まりなのだ。
新たな調和を築くための、長い道のりの。
(これから――)
奏真の目が、窓の外を見る。
聖都の空が、見える。
かつて監視烏が飛び交っていた空。
今は――
ただ青く、広がっている。
奏真の指が、カリンバの弦に触れた。
静かに、希望の音色を奏でる。
その音は、新生アージェンティウムの未来を祝福するかのように――
聖堂に、響き渡った。
そして――
その音楽は、開かれた窓から外へと流れ出し、
聖都全体へと、広がっていく。
新しい時代の、始まりを告げる音楽として。




