第三部『聖アージェンティウム共和国 ― 白環の響解 ―』:第二章「破綻する都-蠢く真実-」:終
聖都を埋め尽くす、民衆の怒号。
それに共鳴し響き渡る、奏真の《調律》の音楽。
混沌の渦の中を、カシアン、シエル、奏真、理奈の四人は――
『天律大聖堂』の最上部へと、駆け上がっていた。
足元で石畳が震える。背後から押し寄せる、民衆の熱気。
衛士庁の抵抗は凄まじかった。幾度も、行く手を阻まれた。
だが、『律霊掌』リアムの決死の妨害工作と――
聖水から解放された労働者層の決死の抵抗が、
その防衛線を、内部から突き崩した。
大聖堂への道は、興奮と激怒に燃える民衆の波で――
埋め尽くされていた。
◆
『天律大聖堂』の大広間。
巨大な円柱が天井を支え、ステンドグラスから差し込む光が――
床に幾何学的な模様を描いている。
その中央の、神聖な輝きを放つ玉座に――
聖アージェンティウム共和国の最高指導者が、座していた。
ユリウス・ド・アロワール天律教皇。
白い法衣を纏った老人。その背後には、未だ忠誠を誓う衛士たちが隊列を組み――
シルヴァン・ド・ミラルジャンとダミアン・ド・ジヴレクールが、
教皇を守護するように、立ちはだかる。
奏真たちが足を踏み入れると、教皇の視線が彼らを捉えた。
その顔は、憔悴しているようにも、諦めを湛えているようにも見えた。
「異端者どもめ、よくもここまで辿り着いたな」
教皇ユリウスは、威厳に満ちた声で言った。
その瞳の奥には、長年の絶対的支配者としての確固たる信念と――
しかし、隠しきれない微かな動揺が、垣間見えた。
「この《静寂》こそが、天律教の真理。
貴様らの《混沌》は、共和国を滅ぼすだけだ」
奏真は、玉座の前に進み出た。
彼のカリンバは、共和国中の人々の目覚めた感情と共鳴し――
かつてないほどの輝きを放っている。
その音色は、この聖堂の堅牢な壁すら震わせるかのようだった。
「静寂は真理ではない!」
奏真は、全身全霊を込めて叫んだ。
「それは、あなた方が人々から奪い、閉じ込めた――感情の牢獄だ!」
拳が、握られる。
彼は、カリンバを構えた。深く、息を吸う。
そして――指が、音板を弾いた。
◆
音が、大聖堂に響き渡った。
それは、ただの音ではない。
共和国の人々が今、真に感じている《怒り》と《悲しみ》、
そして《自由への願い》を乗せた、数百万の魂が織りなす――
解放の、叫び。
大聖堂の空気が震えた。壁が軋む。床が振動する。
まるで建物全体が、この音楽に共鳴しているかのように。
教皇ユリウスの顔が、歪んだ。
数十年にわたる《偽りの天律》が生み出した魂のしがらみが――
この音によって、揺るがされていく。
◆
続いて、理奈が前に進み出た。
彼女の手には、聖水の解析結果を記した詳細な文書が握られている。
「教皇ユリウス、『偽りの聖水』に含まれる眠味成分――これを、ご覧ください」
理奈の声は、冷静だった。科学者の、事実を述べる声。
彼女は、文書を掲げた。
「この化学構造式が示すのは、人の感情の高ぶりを抑え――
思考を鈍らせる物質です」
理奈の目が、鋭く光る。
「あなたの《静寂》は、真の信仰ではなく――
卑劣な精神支配の上に、成り立っていた!」
一呼吸置いて、彼女は続けた。
「さらに問います。なぜ、《魂と器の神聖性》という教義は――
これほど厳しく、人工物に魂を宿すことを冒涜としたのですか?」
理奈の瞳が、鋭く教皇を射抜いた。
「まさか、あなたの信仰こそが、過去の霊法的な過ちを隠蔽し――
民から真実を、遠ざけてきたのではないですか!」
理奈の言葉は、教皇の絶対的な権威を――
論理と科学の刃で、深く抉った。
シルヴァン・ド・ミラルジャンは激昂し、「黙れ、異端者め!」と叫び――
霊法を発動しようとした。
だが、教皇ユリウスは微かに手を上げ、それを制した。
その細い指は、僅かに震えていた。
教皇の顔には、真実を直視させられた苦悶が浮かんでいた。
◆
その時、大聖堂の巨大な扉が――
轟音と共に、押し開かれた。
シルヴァンが、振り返った。
「何者だ!」
現れたのは、『律霊掌』の制服を纏った男――
リアム・ド・アルバートル。
彼の背後には、彼に同調した数人の『律霊掌』の仲間たちが続いていた。
「リアム……! 貴様……『律霊掌』でありながら、裏切るのか!」
シルヴァンの顔が、驚愕に歪んだ。
リアムは、まっすぐ教皇を見据えた。
彼の顔には、長きにわたる葛藤を乗り越えた――
清々しい決意が、宿っていた。
「教皇様……私は、これまで聖なる職務に誇りを持っておりました」
震える声。しかし、堂々と。
「しかし、あの《聖水》の真実、そして霊依たちが発する《響き》は――
私の信念を、揺るがしました」
リアムの拳が、握られる。
「真の『天律教』は、抑圧された静寂の中にはありません!
多様な生命が織りなす《調和》の中にこそ、あるのです!」
リアムの声が、響く。
リアムは、『天昇の繭』の霊依を利用して、上層への通路を完全に解放していた。
大聖堂の外から聞こえる轟音は、もはや遠い音ではなかった。
それは、中層から国民たちが上層へと押し寄せ――
この天律大聖堂へと殺到している、まさにその足音だった。
怒りと自由への渇望が渦巻く人々の熱気が、大聖堂の奥深くまで押し寄せる。
「教皇ユリウス! 民が、貴方を裁きに来たぞ!」
カシアン・ド・ジヴレクールは、傍らに立つダミアン・ド・ジヴレクール衛士総監の――
憔悴しきった顔を一瞥し、教皇に宣言した。
ダミアンは、甥カシアンの姿を見つめた。
革命を率いる凛々しい横顔、そしてリアム、『律霊掌』たちの裏切り、
押し寄せる民衆の波――
自らが守ってきた共和国の秩序が、目の前で崩壊していく。
「カシアン……お前は……本当に……」
ダミアンの声は、か細かった。
膝が力を失った。ガクリと、その場に崩れ落ちる。
甲冑が石床に当たり、鈍い音を立てた。
彼の心もまた、《静寂》という名の鎖から解放された。
だが、それは自由ではなく、抗いようのない絶望だった。
その瞳には、かつて見たことのないほど深い虚無が宿っていた。
◆
その時、大聖堂全体が震えた。
扉が軋む。ガンッ、ガンッ、という衝撃音。
外から、民衆が押し寄せている。
そして――
轟音と共に、巨大な扉が内側へと倒れ込んだ。
なだれ込んできたのは、怒り、悲しみ、そして何よりも自由への渇望に燃える――
数えきれないほどの、国民たち。
彼らの目には、もはや《静寂》への盲目的な服従の影はない。
自分たちの感情を取り戻した《生》の輝きが、宿っていた。
その波動は、大聖堂全体を震わせた。
床が軋み、柱が揺れ、ステンドグラスが振動する。
「教皇を!」
「真実を!」
「自由を!」
咆哮が、聖堂を満たした。
◆
教皇ユリウスは、押し寄せる民衆の波を見つめた。
全身を揺さぶる奏真の音楽、『律霊掌』の裏切り、理奈の論理的な告発――
自らの絶対的な権威が、崩壊していく。
(これが……終わりか)
彼は、ゆっくりと目を閉じた。
顔から、徐々に威厳が消え去る。
深い絶望、そして――長きにわたる重圧からの解放を意味する、
一抹の安堵のような表情が浮かんだ。
それは、彼自身もまた《静寂》の囚人であったことを物語っていた。
(私も……縛られていたのか)
玉座から、ゆっくりと立ち上がる。老いた体が、震えていた。
「……『天律教』は」
か細い声。民衆の咆哮と音楽の中に、しかし確かに響いた。
「変わるのか……」
一呼吸。
教皇の目が、ゆっくりと開く。
その瞳には――もはや支配者の光はなく、
ただ一人の老人としての、静かな諦念があった。
「いや――」
微かに、首を振る。
「変わるのではない」
「元に、戻るのか……」
それが、聖アージェンティウム共和国天律教皇――
ユリウス・ド・アロワールが最後に発した、《裁き》だった。
◆
その瞬間、聖アージェンティウム共和国の――
長きにわたる《静寂》の支配は、終わりを告げた。
大聖堂に、奏真のカリンバの音が響き渡った。
もはや、それを遮るものは何もない。
音楽は、民衆の歓声と混じり合い、聖都全体を包み込んでいく。
窓の外――聖都の空が、変わり始めていた。
灰色の雲が晴れ、青空が覗く。
まるで、共和国の未来を祝福するかのように。
カシアンは、シエルと視線を交わした。
二人とも疲弊しきっていたが、その瞳には確かな光があった。
理奈は、奏真の隣に立った。
「やったわね」
「ああ……」
奏真は、カリンバを胸に抱いた。
この音楽が、本当に人々を自由にした。
大聖堂の外から、歓声が響いてくる。
静寂は、破られた。
新たな時代が、始まろうとしていた。
――第二章「破綻する都-蠢く真実-」終――




