第三部『聖アージェンティウム共和国 ― 白環の響解 ―』:第二章「破綻する都-蠢く真実-」:三
奏真の《調律》の音楽が、共和国全土に響き渡った。
人々の内なる感情が、目覚めた。
そして――もう、止まらなかった。
下級国民たちは、長らく背負わされてきた《役割》という名の鎖を――
次々と、断ち切り始めた。
「もう、従わない!」
「俺たちは、器じゃない!」
「自由を!」
聖都の下層。長引く食料配給の遅延、白天族による霊法資源の独占。
積もりに積もった不満が、爆発した。
怒りは、もはや誰にも制御できない。
小さなデモが、大規模な抗議へと膨れ上がっていく。
各衛星都市の労働区画でも、同様の抵抗運動が多発した。
共和国全土が、制御不能な混乱の渦に巻き込まれていく。
◆
「秩序が……崩壊していく……!」
シルヴァンは、自室で次々と届く報告を見つめていた。
【下層区画、制御不能】
【工匠奉都、抵抗運動拡大】
【豊穣奉都、霊法施設占拠】
一つ、また一つと、悪い知らせが積み重なっていく。
シルヴァンの顔は、青ざめていた。
ミラルジャン家が誇る強固な情報統制網が――
〈見窓志端〉から溢れ出す感情の波の前で、無力に掻き消されていく。
彼の手が震えた。報告書が、床に落ちる。
「馬鹿な……こんなはずでは……」
かつて絶対の自信を持っていた男の目に、今は動揺だけが浮かんでいた。
(完璧だったはずだ)
(情報統制は万全だった)
(民衆の管理も――)
(なぜ……)
窓の外から、怒号が聞こえてくる。
シルヴァンは、耳を塞ぎたくなった。
だが、その音は止まらない。
◆
ダミアンは、総力を挙げた。
全ての兵力を投入し、デモを鎮圧する。
「『静謐の環』を全て起動させろ!」
「衛士犬を放て!」
「威嚇射撃を許可する!」
だが、民衆は止まらなかった。
聖水から解放され、感情を取り戻した人々――
もはや『静謐の環』や衛士犬の咆哮も、彼らの怒りの前では無力だった。
むしろ、弾圧が激しくなればなるほど――
人々の怒りは、燃え上がった。
「引くな! 前進しろ!」
ダミアンの命令が飛ぶ。
だが、衛士たちも困惑していた。
相手は、テロリストでも異国の兵士でもない。
自分たちと同じ、共和国の国民なのだ。
反抗の炎は、さらに激しく燃え盛った。
◆
その混乱の中、『律霊掌』リアム・ド・アルバートルは悟った。
自分の選択の時が、来たのだと。
彼の心を揺さぶっていたもの――
それは、〈見窓志端〉から流れる奏真の音楽だけではない。
霊依を操るたびに感じていた、抑圧された生命の響き。
〈見窓志端〉を通じて知った、『偽りの聖水』の真実。
それら全てが、彼の心の中で響き合い――
確信へと、変わった。
「これは……冒涜ではない」
リアムは、自らに言い聞かせるように呟いた。
「これが――真の《調和》なんだ……!」
その言葉と共に、長きにわたる葛藤に終止符を打った。
彼は、決断した。
そして――彼は一人ではなかった。
他の『律霊掌』たちも、同じ疑念を抱いていた。
同じ《響き》を、感じていた。
リアムの決断は、彼らの心にも火を灯した。
◆
リアムは、自らが操る霊依に命じた。
『天昇の繭』の巨大烏賊が、触手を引き寄せる。
繭が、中層で停止した。
上層への道が、閉ざされる。
聖都中層と上層を結ぶ主要な移動手段が停止したことで――
上層の要人たちは孤立し、衛士の動きも大きく制限される。
さらに、リアムは他の『律霊掌』の仲間たちと連携した。
『聖鯨艇』――聖都を巡り、物資輸送と交通を担う霊法船。
その運用にも、決定的な妨害を加える。
船が、一隻、また一隻と、共和国の指揮下から外れていく。
物流と移動の中枢が、完全に麻痺した。
『律霊掌』――体制側のエリートが、反旗を翻した。
共和国の生命線たるインフラを、内側から攻撃する。
それは、支配層に甚大な、かつ予想外の打撃を与えた。
「リアム! 貴様……何をしている!」
ダミアンは、『律霊掌』の裏切りを知り、激昂した。
彼の顔は、怒りと焦燥で紅潮している。
「正気か! お前は『律霊掌』だぞ!
共和国の秩序を支える、選ばれし者だ!」
だが、リアムは答えなかった。
彼は既に、自分の道を選んだのだ。
ダミアンは、拳を握りしめた。
『律霊掌』たちの妨害は、衛士庁の鎮圧活動を著しく阻害している。
上層からの指示が滞り、各所への兵力投入も思うようにいかない。
鎮圧部隊の足並みは乱され、混乱は拡大の一途を辿った。
「秩序が……私の守ってきた秩序が……」
ダミアンにとって、秩序の崩壊は――
世界の終わりを、意味した。
◆
カシアンは、屋敷の隠し部屋で――
聖都が《覚醒》していく様子を、〈見窓志端〉を通じて見守っていた。
画面には、次々と映像が流れてくる。
下層の抗議デモ、工匠奉都の労働者たち、
『天昇の繭』の停止、物流の混乱。
人々の感情の爆発は、予想以上の規模で広がっていた。
だが、その混乱の中にも、確かな希望の光が見えた。
「民は、もう偽りの静寂には戻らない」
カシアンは、静かに言った。
シエル・ド・セレスティエが、隣で頷いた。
その冷静な声の奥に、確かな決意が秘められている。
「今こそ、真の『天律教』を示す時です」
彼女は、地図上の一点を指さした。
『天律大聖堂』。
「天律教皇との直接対決の準備を――
この覚醒の波を、大聖堂へと向かわせるのです!」
シエルの目が、鋭く光る。
奏真は、その言葉を聞いて、カリンバを構えた。
彼の音楽は、変わり始めていた。
かつては、感情を解放する音だった。
今は――それだけではない。
混沌の中から、新たな秩序を生み出す力。
怒りの奔流を、希望へと導く調べ。
人々を、一つの目標へと集める旗印。
指が、弦を弾いた。
音が、響く。
それは、革命を導く旗印――
人々を、大聖堂へと導く道標。
〈見窓志端〉を通じて、その音楽が広がる。
デモの群衆が、一斉に同じ方向を向いた。
大聖堂へ。
奏真の《調律》の音楽は、混沌の中から新たな調和を生み出そうとしていた。
◆
聖都の《覚醒》――
それは、革命の最終局面へと突入する合図だった。
下層から、中層へ。
中層から、上層へ。
人々の波が、押し寄せていく。
まるで、川の流れのように。
一つの方向へ、収束していく。
その先にあるのは、『天律大聖堂』。
聖都の中心に立つ、白い尖塔。
共和国の信仰の象徴。
そして――欺瞞の根源。
真の《調律》の音が、聖アージェンティウムの空に響き渡る。
もはや、誰にも止められない。
静寂の時代は、終わろうとしていた。
奏真のカリンバの音が、革命を導いていく。
その先に待つのは――
最後の対決。
天律教皇との、決着の時が、迫っていた。




