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第三部『聖アージェンティウム共和国 ― 白環の響解 ―』:第二章「破綻する都-蠢く真実-」:一

カシアンの屋敷の隠し部屋で――

奏真は、カリンバを構えた。


深く、息を吸い込む。


手が、わずかに震えていた。


ついに――この時が来た。


理奈が解析した《眠味成分》の解毒を促し――

人々の内なる感情を呼び覚ます《調律》の音楽を、

共和国全土に届ける時が。


奏真の心臓が、激しく打った。

カリンバの弦と共鳴するかのように、高鳴る鼓動。


(本当に、届くだろうか――)


一瞬、疑念が脳裏をよぎる。


だが、彼は首を振った。


今は、信じるしかない。


「俺の音楽は――」


奏真は、隣に立つシエルとカシアンに強い眼差しを向けた。


「ただの音じゃない」


カリンバを、胸元に抱く。

その温もりが、心を落ち着かせてくれる。


「この《新しい霊珠》を使って奏でる霊法は――

体内に蓄積された《眠味成分》の代謝を、活性化させる」


一呼吸置いて、彼は続けた。


「感情の鎖を解き放ち、人々を真の自己へと導く――

命の調べだ」


その瞳には、使命への揺るぎない決意が宿っていた。



シエルは、部屋の中央に設置された装置を指さした。


共和国の古書に載っていた霊法技術と――

アノンノアの技術を組み合わせた、新たな霊法増幅装置。


「この装置は、貴方の音楽の《調律》の波長を捉え――

〈見窓志端〉を通じて、共和国全土に伝播させる」


シエルの指が、装置の表面をなぞる。

複雑な霊法陣が、かすかに光を放っている。


「衛士庁の霊法探知は、特定の周波数帯を監視している。

だが、この装置は――その網の目を掻い潜る」


シエルの瞳が、光を帯びた。


「貴方の音楽は、人々の心に直接届く。

まるで、魂に語りかける響きとなるでしょう」


奏真は、目を閉じた。


深く、集中する。


呼吸を整える。

心を、共和国の人々に向ける。


まだ眠っている、彼らの感情――

それに、寄り添うように。


奏真の指先が、カリンバの澄んだ弦に触れた。


そして――


弾いた。



最初の一音は――あまりにも小さかった。


まるで聖都の沈黙に、吸い込まれてしまいそうな響き。


だが――


シエルの増幅装置が、静かに起動する。

霊法陣が、青白い光を放つ。


そして、数多の〈見窓志端〉を通じて――


聖都の地下採掘場へ。

工匠奉都の工房へ。

豊穣奉都の農場へ。

聖都の中層の住居へ。


ゆっくりと、しかし確実に――

広がり始めた。


まるで水面に広がる波紋のように。


地下採掘場の端末が、光る。

工房から、音楽が流れ出す。

農場で、労働者が手を止める。


音が――届いている。


凍てついた大地を融かす春の陽光のように――

奏真の《調律》の音楽は、聖都に浸透していく。



届けられた音楽が、人々の体に作用した。


最初は、微かな温もり。

それが徐々に、体の奥深くから湧き上がってくる。


代謝が、活性化していく。


体内に蓄積されていた《眠味成分》が――

ゆっくりと、分解されていく。


鈍っていた感覚が、研ぎ澄まされていく。


白黒だった世界に――

再び鮮やかな色彩が、戻ってきた。


心が、内側から温かく満たされていく。


「これ……は……」


地下採掘場の、薄暗い坑道で――

労働者の一人が、立ち止まった。


胸が、熱い。

何かが、込み上げてくる。


頬を、何かが伝った。


涙だ。


長らく忘れていた《悲しみ》が、溢れ出している。


「俺は……泣いているのか?」


隣の老女は、〈見窓志端〉を握りしめていた。

音楽が流れている。


抗しがたい《喜び》が、湧き上がる。


(何十年ぶりだろう、こんな感覚は――)


凍り付いていた表情が、豊かな感情で彩られていく。


若い労働者は、混乱していた。


「これは……《混沌》では? でも、なぜこんなに――」


(心地良いのだろう……)


怒り、悲しみ、喜び、希望――


これまで《混沌》として否定され、奥底に押し込められていた感情が――

まるで堰を切ったかのように、溢れ出した。


人々は、自分たちの心の中に――

これほど多くの《音》が隠されていたことに、驚き、そして感動した。


涙を流す者。

笑い出す者。

呆然と立ち尽くす者。


それぞれの、それぞれの感情が――


まるで個々の魂が共鳴し合う合唱のように、

聖都の空へと、響き渡り始めた。


静寂の奥底で――


魂が、


目覚めた。


その音は、止まらない。

聖都全体を包み込み、さらに広がっていく。


共和国の新たな《調律》が――


今、


始まろうとしていた。

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