第三部『聖アージェンティウム共和国 ― 白環の響解 ―』:第二章「破綻する都-蠢く真実-」:一
カシアンの屋敷の隠し部屋で――
奏真は、カリンバを構えた。
深く、息を吸い込む。
手が、わずかに震えていた。
ついに――この時が来た。
理奈が解析した《眠味成分》の解毒を促し――
人々の内なる感情を呼び覚ます《調律》の音楽を、
共和国全土に届ける時が。
奏真の心臓が、激しく打った。
カリンバの弦と共鳴するかのように、高鳴る鼓動。
(本当に、届くだろうか――)
一瞬、疑念が脳裏をよぎる。
だが、彼は首を振った。
今は、信じるしかない。
「俺の音楽は――」
奏真は、隣に立つシエルとカシアンに強い眼差しを向けた。
「ただの音じゃない」
カリンバを、胸元に抱く。
その温もりが、心を落ち着かせてくれる。
「この《新しい霊珠》を使って奏でる霊法は――
体内に蓄積された《眠味成分》の代謝を、活性化させる」
一呼吸置いて、彼は続けた。
「感情の鎖を解き放ち、人々を真の自己へと導く――
命の調べだ」
その瞳には、使命への揺るぎない決意が宿っていた。
◆
シエルは、部屋の中央に設置された装置を指さした。
共和国の古書に載っていた霊法技術と――
アノンノアの技術を組み合わせた、新たな霊法増幅装置。
「この装置は、貴方の音楽の《調律》の波長を捉え――
〈見窓志端〉を通じて、共和国全土に伝播させる」
シエルの指が、装置の表面をなぞる。
複雑な霊法陣が、かすかに光を放っている。
「衛士庁の霊法探知は、特定の周波数帯を監視している。
だが、この装置は――その網の目を掻い潜る」
シエルの瞳が、光を帯びた。
「貴方の音楽は、人々の心に直接届く。
まるで、魂に語りかける響きとなるでしょう」
奏真は、目を閉じた。
深く、集中する。
呼吸を整える。
心を、共和国の人々に向ける。
まだ眠っている、彼らの感情――
それに、寄り添うように。
奏真の指先が、カリンバの澄んだ弦に触れた。
そして――
弾いた。
◆
最初の一音は――あまりにも小さかった。
まるで聖都の沈黙に、吸い込まれてしまいそうな響き。
だが――
シエルの増幅装置が、静かに起動する。
霊法陣が、青白い光を放つ。
そして、数多の〈見窓志端〉を通じて――
聖都の地下採掘場へ。
工匠奉都の工房へ。
豊穣奉都の農場へ。
聖都の中層の住居へ。
ゆっくりと、しかし確実に――
広がり始めた。
まるで水面に広がる波紋のように。
地下採掘場の端末が、光る。
工房から、音楽が流れ出す。
農場で、労働者が手を止める。
音が――届いている。
凍てついた大地を融かす春の陽光のように――
奏真の《調律》の音楽は、聖都に浸透していく。
◆
届けられた音楽が、人々の体に作用した。
最初は、微かな温もり。
それが徐々に、体の奥深くから湧き上がってくる。
代謝が、活性化していく。
体内に蓄積されていた《眠味成分》が――
ゆっくりと、分解されていく。
鈍っていた感覚が、研ぎ澄まされていく。
白黒だった世界に――
再び鮮やかな色彩が、戻ってきた。
心が、内側から温かく満たされていく。
「これ……は……」
地下採掘場の、薄暗い坑道で――
労働者の一人が、立ち止まった。
胸が、熱い。
何かが、込み上げてくる。
頬を、何かが伝った。
涙だ。
長らく忘れていた《悲しみ》が、溢れ出している。
「俺は……泣いているのか?」
隣の老女は、〈見窓志端〉を握りしめていた。
音楽が流れている。
抗しがたい《喜び》が、湧き上がる。
(何十年ぶりだろう、こんな感覚は――)
凍り付いていた表情が、豊かな感情で彩られていく。
若い労働者は、混乱していた。
「これは……《混沌》では? でも、なぜこんなに――」
(心地良いのだろう……)
怒り、悲しみ、喜び、希望――
これまで《混沌》として否定され、奥底に押し込められていた感情が――
まるで堰を切ったかのように、溢れ出した。
人々は、自分たちの心の中に――
これほど多くの《音》が隠されていたことに、驚き、そして感動した。
涙を流す者。
笑い出す者。
呆然と立ち尽くす者。
それぞれの、それぞれの感情が――
まるで個々の魂が共鳴し合う合唱のように、
聖都の空へと、響き渡り始めた。
静寂の奥底で――
魂が、
目覚めた。
その音は、止まらない。
聖都全体を包み込み、さらに広がっていく。
共和国の新たな《調律》が――
今、
始まろうとしていた。




