第零部『亡命者』:第三章「志を奏でる都-アノンノア-」:一
アルティフィキアの煤けた荒野を抜けた――
その先に、それはあった。
薄い光が、地平の向こうでふくらんでいる。
「……あれ」
理奈が、指をさした。
丘陵の稜線に沿って、卯の花色の『天蓋』が呼吸している。
外縁には、緑の段畑がうねり、
骨組みの塔が、規則正しい律動を刻んでいた。
まるで――土地そのものが、静かに生きているようだった。
近づくにつれ、その律動が鮮明になる。
畑の稜線と塔の揺らぎは、人の手つきよりも規則正しい。
天蓋の光は、装置の心拍のように一定で――
それがただの輝きではなく、都市の鼓動だと分かる。
「……あれが」
理奈が、小さく息を呑んだ。
俺も、言葉を失っていた。
あれが――アノンノア。
『天蓋』の手前には、思い思いの屋台や工房が肩を寄せ合う外庭の街が広がっていた。
木枠の机で、歯車が細かく鳴る。
向かいの金床が、二拍ごとに火花を吐く。
湯釜の笛が、合いの手を入れる。
路上では、子どもが紙の凧に糸を張りながら、
知らない節を口ずさんでいる。
火の香り。
油の匂い。
焼けた土の手触り。
雑然としているのに――
どこか、合奏に似た統一感があった。
協連の、金に追われる喧騒ではない。
共和国の、規律に縛られた静寂でもない。
一人ひとりが、自分の目的に没頭する。
穏やかで、しかし確かな熱を帯びた《活気》。
それが、ここには満ちていた。
「お、旅の人かい?」
工房の前で汗を拭っていた屈強な男が、俺たちを見て気さくに笑った。
「は、はい。アノンノアを目指して来たんですが……」
理奈が答えると、男は「ああ、ならあの『薄明天蓋』を目指すといい」と指差した。
「あの中が本当の都市さ。こっちは『外庭市』って呼ばれてる。『天蓋』の中で出来ねえことをやりたい連中が店や工房を並べてたら、いつの間にか町になっちまったんだ」
「問題は起きないんですか?」
俺が尋ねると、男はからからと笑う。
「しょっちゅうさ。だが、『天蓋』の声――つまり〈アノンノア機構〉が言うんだ。『まず話し合え。だめなら一時封鎖、重ねれば使用権を凍結する』ってな。だから、なんだかんだで上手くやってるのさ。さあ、行ってみな。驚くぞ」
礼を言い、俺たちは歩を進めた先にそれはあった――
都市そのものを飲み込んだような、巨大な『天蓋』の入口。
卯の花色の壁面は、滑らかで、継ぎ目ひとつない。
俺は、深く息を吸った。
理奈と、視線を交わす。
意を決して、扉に手を伸ばす。
触れるより早く――
扉は、音もなく内側へ滑り込んだ。
内側の空気は、外よりややひんやりしていた。
清涼な香りが、かすかに漂う。
そして――
〈「ようこそ、アノンノアへ」〉
どこからともなく、やわらかな声が響いた。
俺は、思わず立ち止まる。
理奈も、同じように目を見開いていた。
光の粒子が集まり、案内板の形を取って――
俺たちを、内部へと導いていく。
〈「わたくしは入邦審査対応用疑似人格〈アケノ〉。判断権は持ちませんが、手順をご案内します。入邦希望の方は、お名前と目的を。つづいて、前方の球体に手をかざし、魂の律動――『霊紋』を登録してください」〉
台座の球体が、海のような青で脈打つ。
「槻沢奏真。観光のつもりでしたが……この街を見て、ここに住みたいと思いました」
「綾織理奈。私も、ここに住みたいです!」
掌をかざすと、温かい光が全身を包み込んだ。
〈「奏真様、理奈様ですね。承知しました。観光は最長 90 日。
帰化を望む場合、こちらのアノンノア原理に賛同していただければ、
『志候』となります〉
案内板が、新たな光を灯す。
〈『アノンノア原理』〉
文字が、ゆっくりと浮かび上がる。
俺と理奈は、じっとそれを見つめた。
〈《三大原理》〉
〈第一原理:志の第一原理〉
〈個人の『志』の追求は、最も尊重される基本的人権であり、
邦民が負う根本的責務である〉
〈第二原理:公開と共有の原理〉
〈知識・技術・文化は原則として公開・共有され、未来へ継承される公共資産である。
ただし、人格権・安全保障・当事者保護に関わる情報は必要最小限の秘匿を許す〉
〈第三原理:自律機構の原理〉
〈邦の運営はアノンノア機構の透明で検証可能な判断に委ねる。
機構は支配者ではなく、邦民の『志』を支えるための、中立の基盤であり、
邦民による監督・異議申立て・監査の下に置かれる〉
〈以下省略…〉
〈「よくお読みの上、賛同か保留を選んでください」〉
理奈が、一瞬だけ目を伏せる。
呼吸を、整える。
やがて、顔を上げた。
視線が、合う。
俺たちは、短くうなずいた。
「賛同です」
「賛同します!」
〈「それでは、本日よりお二人は『志候』となります。
詳細はこの後の身体チェック後に案内者の説明と、
その際お渡しする端末でご確認ください。
なお『霊紋』は匿名/完全を選べます。
完全の方が、暮らしの自由度は広がります」〉
匿名――?
胸の奥で、息が一拍止まった。
監視が当たり前の国で育った俺には、
その選択肢が――
この街の信頼の基準を、物語っているように思えた。
俺たちは、もう躊躇しなかった。
「「完全登録で」」
二人同時に、声が出た。
その瞬間――
何かが、変わった気がした。
もう、隠れる必要はない。
もう、怯える必要もない。
ここでは、自分自身でいられる。
光る通路を進む。身体チェックは機械に隅々まで照らされ、温かいシャワーを浴びるだけであっけなく終わった。清潔な衣服に着替えて外へ出ると、聡明な佇まいの女性が立っていた。
「ようこそ、アノンノアへ。『志候』の案内とサポートを担当する、律紀です。本日は簡単な説明と、住居のご案内をします」
案内された部屋で、律紀は書板に筆を走らせた。
三度、短く鳴る。
横一列に、文字が並ぶ。
【志候 → 探志 → 志行】
「これが、アノンノアにおける区分です」
律紀の指が、左から順に文字をなぞる。
「『志候』――アノンノア原理に賛同した、帰化志望者。
義務教育課程の履修義務を負い、課程修了により『探志』邦民資格を得る」
次の文字へ。
「『探志』――志を探す者。
邦民としての基本権を有し、『志の宣言』を未提出の学び、試し、自分の道を見つける段階」
そして、最後。
「『志行』――志を追求する者。
『志の宣言』を公開し、公共への責務と相応の権限を有する邦民として、この邦を共に導く人々」
彼女は、俺たちを見た。
「細かい規定や手続きは、こちらの端末で確認してください」
机上の箱から二種の端末が配られる。掌に収まる楕円の器が〈志端〉、板状のものが〈志盤〉。
「機能は同じです。〈志端〉=携行(身分・鍵・通知)、〈志盤〉=学習/制作(閲覧・記述・提出)。
用途で使い分けてください。設定は初期化済み、『霊紋』と紐づいています」
一呼吸置いて、柔らかく笑む。
「アノンノアは、何を成したかと同じくらい、
何を成そうとしているかを尊びます」
その言葉が、胸に沁みた。
「ここでの最初の一歩は――学びです」
配布された薄紙の予定表に指を置く。
「入邦初期の共通課題は二つ。
一、生活導入――住戸登録・配当受取・安全講習(〈志端〉に順に案内が届きます)。
二、国語・算数の基礎テスト――基準点到達で合格(自習/授業どちらでも可)」
小さく会釈して締めくくった。
「本日はここまで。これより住居をご案内し、以後は各自のペースで進めてください」
案内されたのは、隣り合う清潔な小部屋だった。扉が閉まると、久しぶりに“誰にも脅かされない静けさ”が落ちてくる。荷をほどき、息を整えたとき、掌の〈志端〉が淡く灯った。
〈開始ガイド:国語・算数 基礎/自習または授業予約/基準点到達で合格〉
呼び鈴が鳴く。扉を開けると、理奈が少し照れたように立っていた。
「ね、夕飯とか、どうする?」
「ちょうど考えてた。説明にあった『志源権』、使ってみよう」
「いいね! それと、もしよかったら……夕飯のあと、一緒に勉強しない?」
「もちろん」
〈志盤〉を操作し、『志源権』で配当された品目を選ぶ。交換所で〈志端〉を光柱にかざして受け取り、袋を抱えた帰り道、広場の向こうから香ばしい匂いが漂ってきた。
「お、新入りさんかい? 飯はどうだい?」
見ると、移動式の調理台で手際よく料理をする女性が笑っている。看板には【料理代行屋 あやめ】。
「今日から『志候』になりました、奏真です」
「私は理奈です。はじめまして」
「いいねえ! 私は彩恵ってもんだ。よかったら、そいつを渡してみな。うまいもん作ってやるよ」
常連たちが「ここのは絶品だぞ」と囃す。
「お願いします!」
理奈が食材の袋を差し出す。彩恵は野菜と米、保存肉を取り出し、鍋を温め、刻み、炒め、香りを立てる。あっという間に湯気の立つ皿が並んだ。
「はいよ。薄明丼と香油のあえもの、それから温豆のスープだよ」
「お代は……」
「お代はね、〈志端〉で〈互志網〉――簡単に言えば“隣人の手“に入っておくれ。材料が余るときは回して、足りないときは頼ればいい。この街は“次へ渡す”で回るのさ」
俺と理奈は〈志端〉を取り出し、彩恵の端末と軽く触れ合わせる。小さな鐘の音が鳴り、〈互志網:料理代行屋あやめ〉の灯がともった。俺の分も作ってもらい、二人で部屋へ戻る。
夜。
向かい合って、ひと口。
塩気が、やさしく舌に広がる。
温い豆の甘さが、追いかけてくる。
「「……美味しい」」
声が、同時にこぼれた。
温かい食事が――
空っぽだった胃だけでなく、
ささくれ立っていた心まで、満ちていく。
これが、《安心》の味だ。
そう気づいた瞬間、視界が滲んだ。
故郷でも、旅の途中でも――
こんなにも安心して、食事をしたのは初めてだった。
理奈の瞳から、一筋、涙がこぼれる。
俺も、少し遅れて――視界が滲む。
二人とも、何も言わなかった。
言葉は、要らなかった。
ただ、静かに食べ続けた。
この温もりを、噛みしめるように。
食後、机を片付けて、勉強を始めた。
「この計算、どうやるんだっけ……」
俺が首を傾げると、理奈がすっと手を伸ばした。
「ああ、それはね――」
彼女の説明は、簡潔で分かりやすい。
技術者らしい、論理的な思考。
「なるほど! ありがとう」
次は、俺の番。
「理奈、この文章の意味が分からないって言ってたよね」
「うん……」
「これはね、こういうことだと思う」
分からないところを、教え合う。
励まし合う。
一人では挫けそうな時間も――
二人なら、越えていけた。
翌日、昼過ぎにテストを受ける。合格点には少し足りない。だが、落ち込むより先に、「もう一息だ」という気持ちが湧いてくる。
「あと少しだよ、もう一回やろう」
「うん、計算は私が刻む。奏真は全体の調子を」
夕方。
深呼吸をして、再びテストに臨む。
最後の問題を解き終えた。
送信ボタンを、押す。
数秒の沈黙。
そして――
〈志端〉に、文字が浮かび上がった。
『合格』
「やった……!」
理奈の声が、隣の部屋から聞こえた。
俺も、思わず拳を握りしめる。
安堵と、心地よい空腹が、同時に押し寄せる。
部屋を出ると、理奈も出てきたところだった。
目が合う。
二人とも、自然と笑顔になっていた。
「合格した?」
「うん! 奏真も?」
「ああ」
ハイタッチ――という仕草を、
理奈が恥ずかしそうに手を出したので、
俺も応える。
パン、という乾いた音。
その音が、妙に嬉しかった。
交換所へ向かう足取りは、昨日よりもずっと軽い。
帰り道、彩恵に合格を報告すると、彼女は自分のことのように喜んでくれた。「そりゃあ祝いだな!」――香油をひと回し増やし、卵を落とした《祝い仕様》の夕飯を拵えてくれる。
温かい料理の湯気が部屋に満ちた、ちょうどその時。まるで次の門出を祝うかのように、〈志端〉が新たな光を放った。
〈開始ガイド:修己(修身・修心)入門/授業予約/一通り受講で通過〉
「次は『修己』入門だって。何やるんだろうな」
「『修己』は、この邦の軸だって律紀さんが言ってた。楽しみだね」
理奈が心から楽しそうに笑う。その笑顔にうなずき、俺たちは同時に受講予約のボタンを押した。
理奈と別れ、一人になった部屋で――
俺は、膝の上のカリンバに指を置く。
窓の外では、『天蓋』が静かに脈打っている。
その律動は、規則正しさの中に温かさがある。
この『天蓋』は、仕組みの鼓動で動いている。
なら、俺は――
魂の音色で、その仕組みすらも震わせるような――
『作品』を、創り出す。
そう心に誓って――
指が、一つの音を奏でた。
トゥリン――
その音色は、部屋に響き、『天蓋』の律動に溶け込んでいく。
途方もない、けれど確かな予感。
それが、音と共に静かに胸に灯った。




