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第三部『聖アージェンティウム共和国 ― 白環の響解 ―』:第一章「潜流の都-蠢く予感-」:終

リアム・ド・アルバートルは――

聖都の秩序を支える『律霊掌(りつれいしょう)』として、仕事をいつものように全うしていた。


律霊掌(りつれいしょう)』――それは、共和国のインフラを支える、

選ばれし者たちの称号。


幼い頃から厳しい訓練を受け、

霊魂を自在に操る技術を習得した、

エリート中のエリート。


彼らへの信頼は、絶対だった。


早朝、彼は『天昇の繭』の運用を始めるため――

中層の専用区画へと、足を踏み入れた。


霊法によって巨大烏賊が吊り上げる、繭型の昇降機。

その複雑な霊法を完璧に制御することが、彼の使命だった。


聖静菌の死骸の塊を霊依として形作られた巨大烏賊は――

その冷たい触手を中層区画の壁に這わせ、

まるで生きた機械のように、静かに脈動していた。


リアムは、その厚く、しかしどこか弾力のある触手に触れ――

自身の霊魂を憑依させる。


巨大烏賊を、律霊する。


それは彼の意思に呼応し、ゆっくりと触手を伸ばし――

繭を上層へと、吊り上げていく。


その作業は、彼にとって――

まさに神聖な儀式だった。


幼い頃から受けた専門教育、そしてアルバートル家としての伝統。

それらが、彼の魂の奥底に深く刻み込まれていた。



しかし最近、リアムの心には――

微かな、しかし無視できない違和感が生まれていた。


それは、律霊する際に――

霊依の奥底から伝わってくる、奇妙な《響き》だった。


本来であれば、霊依はただの霊魂の器であり――

彼の霊魂にただ従うだけの、無機質な存在のはず。


しかし、時にそれは――

まるで抑圧された生命の叫びのような、

かすかな震えとして、彼の霊魂に届くのだ。


彼自身、その感覚に戸惑い――

何事もないかのように、平静を装っていた。



その違和感は、ある日――

彼の手元に偶然舞い込んだ一基の〈見窓志端〉によって、

決定的なものとなった。


それは、中層区画の巡回中――

見慣れない落とし物として、わずかに損傷した状態で発見されたものだ。


『律霊掌』として、見慣れない霊具は即座にミラルジャン家に報告すべきだった。


(これは――)


リアムの手が、端末に触れる。


(報告しなければ……)


だが――


彼の指は、端末を握りしめていた。


(……少しだけ)


魅入られたように、その小さな端末の画面を凝視する。


起動……。


映し出されたのは――


アノンノアの賑やかな市場の風景。


活気あふれる人々の声、色鮮やかな果物や装飾品。


そして、画面の奥から響いてくる――

魂を揺さぶるような、カリンバの調べ。


それは、共和国の教義が《混沌》と断じる《音》そのものだった。


リアムは、自身の律霊する霊依の《響き》と――

そのカリンバの調べが、どこかで共鳴しているような錯覚に陥った。


それは――


霊依そのものが持つ、抑圧された生命の叫び。

そして、リアム自身の魂の奥底から湧き上がるような、

しかし長年封じられていた感情の波が――


混じり合う、感覚だった。


「馬鹿な……これは――冒涜だ……」


リアムは、震える声で呟いた。


(これは、間違っている)


(《混沌》だ)


(忌むべき――)


だが――


背徳感に苛まれながらも、彼の心は――

その《冒涜》の響きに、奇妙なほどの解放感を感じていた。


(なぜ、こんなにも――)


(心が、軽くなるのだ……?)


長年、完璧な秩序と信仰の中に身を置いてきたがゆえに――

《混沌》と断じられてきたこの生命力に、抗えない自分がいた。


それは、理屈では説明できない――

魂の根源的な渇望が、静かに目覚め始めているかのようだった。



『天昇の繭』の霊依が発する、奇妙な《響き》。

鯨の霊珠を利用した牽引型の船、『聖鯨艇』の霊依の奥底に感じる、微かな《抵抗》。

そして、自身の手元にある〈見窓志端〉から流れる、奏真の《音楽》。


それら全てが、リアムの心の中で――

これまで信じてきた《静寂》という強固な秩序に、

ゆっくりと、しかし決定的な亀裂を生み出していた。


彼は、律霊掌としての揺るぎない誇りと――

内に芽生えた禁断の疑念の間で、激しく揺れ動いていた。


共和国のインフラを支える『律霊掌』は、特権階級的なエリートであり――

体制への絶対的な忠誠心こそが、求められる。


しかし――


(彼らの《静寂》は、真に正しいのか……?)


リアムの胸に浮かぶ、その問いが――

彼の心を、深く深く蝕んでいた。



数日後、その心の亀裂が深まり始めた頃――


リアムは、ミラルジャン家の白環卿シルヴァンからの――

直接の召集を受けた。


(……まさか)


リアムの心臓が、激しく打つ。


(露見したのか……?)


胸の奥では、見つかってはならない禁忌の霊具を隠し持っているという背徳感。

そして、自身の変化が露見するのではないかという深い不安が――

激しく、脈打っていた。


(いや、そんなはずは――)


(僕は、完璧に隠した)


(だが……)


衛士庁へ向かう足取りが、重い。


彼は、衛士庁に向かう道のりの全てを――

ただ無心で、歩いた。


いや――


無心になろうと、必死に努めていた。



共和国の硬い壁に、新たな波紋が広がり始めていた。


それは、社会基盤の象徴たるエリート中のエリート――

『律霊掌』の心の中に、静かに、そして深く浸透しつつあったのだ。


〈見窓志端〉が届けた《自由》の映像。

奏真のカリンバが奏でる《生命》の調べ。


それらは――


《静寂》という名の牢獄に閉じ込められた魂に、

かすかな、しかし確実な《問い》を、

投げかけていた。


(これが、本当の世界なのか……?)


(それとも――)


そして、その小さな亀裂こそが――


やがて来るべき《静寂》を破る、


最も危険な音となるのかもしれない。

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