第三部『聖アージェンティウム共和国 ― 白環の響解 ―』:第一章「潜流の都-蠢く予感-」:終
リアム・ド・アルバートルは――
聖都の秩序を支える『律霊掌』として、仕事をいつものように全うしていた。
『律霊掌』――それは、共和国のインフラを支える、
選ばれし者たちの称号。
幼い頃から厳しい訓練を受け、
霊魂を自在に操る技術を習得した、
エリート中のエリート。
彼らへの信頼は、絶対だった。
早朝、彼は『天昇の繭』の運用を始めるため――
中層の専用区画へと、足を踏み入れた。
霊法によって巨大烏賊が吊り上げる、繭型の昇降機。
その複雑な霊法を完璧に制御することが、彼の使命だった。
聖静菌の死骸の塊を霊依として形作られた巨大烏賊は――
その冷たい触手を中層区画の壁に這わせ、
まるで生きた機械のように、静かに脈動していた。
リアムは、その厚く、しかしどこか弾力のある触手に触れ――
自身の霊魂を憑依させる。
巨大烏賊を、律霊する。
それは彼の意思に呼応し、ゆっくりと触手を伸ばし――
繭を上層へと、吊り上げていく。
その作業は、彼にとって――
まさに神聖な儀式だった。
幼い頃から受けた専門教育、そしてアルバートル家としての伝統。
それらが、彼の魂の奥底に深く刻み込まれていた。
◆
しかし最近、リアムの心には――
微かな、しかし無視できない違和感が生まれていた。
それは、律霊する際に――
霊依の奥底から伝わってくる、奇妙な《響き》だった。
本来であれば、霊依はただの霊魂の器であり――
彼の霊魂にただ従うだけの、無機質な存在のはず。
しかし、時にそれは――
まるで抑圧された生命の叫びのような、
かすかな震えとして、彼の霊魂に届くのだ。
彼自身、その感覚に戸惑い――
何事もないかのように、平静を装っていた。
◆
その違和感は、ある日――
彼の手元に偶然舞い込んだ一基の〈見窓志端〉によって、
決定的なものとなった。
それは、中層区画の巡回中――
見慣れない落とし物として、わずかに損傷した状態で発見されたものだ。
『律霊掌』として、見慣れない霊具は即座にミラルジャン家に報告すべきだった。
(これは――)
リアムの手が、端末に触れる。
(報告しなければ……)
だが――
彼の指は、端末を握りしめていた。
(……少しだけ)
魅入られたように、その小さな端末の画面を凝視する。
起動……。
映し出されたのは――
アノンノアの賑やかな市場の風景。
活気あふれる人々の声、色鮮やかな果物や装飾品。
そして、画面の奥から響いてくる――
魂を揺さぶるような、カリンバの調べ。
それは、共和国の教義が《混沌》と断じる《音》そのものだった。
リアムは、自身の律霊する霊依の《響き》と――
そのカリンバの調べが、どこかで共鳴しているような錯覚に陥った。
それは――
霊依そのものが持つ、抑圧された生命の叫び。
そして、リアム自身の魂の奥底から湧き上がるような、
しかし長年封じられていた感情の波が――
混じり合う、感覚だった。
「馬鹿な……これは――冒涜だ……」
リアムは、震える声で呟いた。
(これは、間違っている)
(《混沌》だ)
(忌むべき――)
だが――
背徳感に苛まれながらも、彼の心は――
その《冒涜》の響きに、奇妙なほどの解放感を感じていた。
(なぜ、こんなにも――)
(心が、軽くなるのだ……?)
長年、完璧な秩序と信仰の中に身を置いてきたがゆえに――
《混沌》と断じられてきたこの生命力に、抗えない自分がいた。
それは、理屈では説明できない――
魂の根源的な渇望が、静かに目覚め始めているかのようだった。
◆
『天昇の繭』の霊依が発する、奇妙な《響き》。
鯨の霊珠を利用した牽引型の船、『聖鯨艇』の霊依の奥底に感じる、微かな《抵抗》。
そして、自身の手元にある〈見窓志端〉から流れる、奏真の《音楽》。
それら全てが、リアムの心の中で――
これまで信じてきた《静寂》という強固な秩序に、
ゆっくりと、しかし決定的な亀裂を生み出していた。
彼は、律霊掌としての揺るぎない誇りと――
内に芽生えた禁断の疑念の間で、激しく揺れ動いていた。
共和国のインフラを支える『律霊掌』は、特権階級的なエリートであり――
体制への絶対的な忠誠心こそが、求められる。
しかし――
(彼らの《静寂》は、真に正しいのか……?)
リアムの胸に浮かぶ、その問いが――
彼の心を、深く深く蝕んでいた。
◆
数日後、その心の亀裂が深まり始めた頃――
リアムは、ミラルジャン家の白環卿シルヴァンからの――
直接の召集を受けた。
(……まさか)
リアムの心臓が、激しく打つ。
(露見したのか……?)
胸の奥では、見つかってはならない禁忌の霊具を隠し持っているという背徳感。
そして、自身の変化が露見するのではないかという深い不安が――
激しく、脈打っていた。
(いや、そんなはずは――)
(僕は、完璧に隠した)
(だが……)
衛士庁へ向かう足取りが、重い。
彼は、衛士庁に向かう道のりの全てを――
ただ無心で、歩いた。
いや――
無心になろうと、必死に努めていた。
◆
共和国の硬い壁に、新たな波紋が広がり始めていた。
それは、社会基盤の象徴たるエリート中のエリート――
『律霊掌』の心の中に、静かに、そして深く浸透しつつあったのだ。
〈見窓志端〉が届けた《自由》の映像。
奏真のカリンバが奏でる《生命》の調べ。
それらは――
《静寂》という名の牢獄に閉じ込められた魂に、
かすかな、しかし確実な《問い》を、
投げかけていた。
(これが、本当の世界なのか……?)
(それとも――)
そして、その小さな亀裂こそが――
やがて来るべき《静寂》を破る、
最も危険な音となるのかもしれない。




