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第三部『聖アージェンティウム共和国 ― 白環の響解 ―』:第一章「潜流の都-蠢く予感-」:四

カシアンの屋敷の隠し部屋は――

共和国の厳重な監視網から隔絶された、唯一の安息の地だった。


しかし、その部屋の空気さえも――

まるで音を吸い込むかのように重く、

奏真の肌に《静寂》の圧迫感が微かにまとわりつく。


奏真は、お茶を口にしながら――

カシアンの疲弊した横顔を見つつ、カリンバを膝の上に置いた。


共和国の霊法技術、特に音を捉える監視烏は――

彼の音楽にとって、最大の障害だ。

軽率に音を立てれば、即座に居場所が露見するだろう。


「この《静寂》の中で、どうやって俺の音を届ければいいんだ?」


奏真は、素直な疑問を口にした。

焦りではない――純粋な、問いだった。


カシアンは、ゆっくりと首を横に振った。


「すぐにではない。まずは準備が必要だ」


一呼吸。


「共和国の民は、あまりにも長く《静寂こそ善》という教義に縛られ――

自らの感情を抑圧してきた」


カシアンの目が、遠くを見つめる。


「彼らの心は深く凍りつき、いきなり《音》を押し付けても――

その響きは混沌としか受け取られず、排斥されるのが関の山だろう」



その夜、カシアンは奏真を連れて――

屋敷の地下にある秘密の通路を通った。


通路の先には、わずかな灯りの中に――

数人の人影があった。


カシアンに忠誠を誓う、革命派の面々だ。


その中心には、月白色の髪を持つ聡明な女性が立っていた。


セレスティエ家の若き学士、そして革命派のリーダー――

シエル・ド・セレスティエである。


彼女の瞳には、知的な探求心と――

凍えるような冷静さが宿っていた。


「奏真、貴方が――アノンノアの《調律》の担い手」


シエルは、氷のような静けさを湛えた目で奏真を見据えた。


「貴方の音楽は、我々の見出した《真の天律》を具現化する――

光となるだろう」


シエルは、共和国の閉鎖的な教義が――

いかに『天律教』の本来の姿から逸脱しているかを熱弁した。


彼女の語る《真の天律》とは――

個々の感情や個性、《魂の音》が互いに共鳴し、

調和することで世界全体に豊かな生命の響きをもたらすという、

アノンノア原理と通じる理念だった。


そんな彼女の言葉は、理性に基づいた真理への探究心に溢れており――

奏真が共和国の見方を変える、二人目の白天族だった。


「《魂と器の神聖性》という教義は――

過去の霊法的な失敗を隠蔽し、

特定の白天族の利権を守るために歪められたもの」


シエルの声が、厳しくなる。


「そして《静寂こそ善》は――

民衆の感情を操り、思考を停止させるための、

巧妙な支配手段として利用されている」


シエルの言葉は、共和国の根深い闇を抉り出した。

その知性は、冷徹なまでに真実を暴く。


「『偽りの聖水』の解析結果次第では――

その何よりの証拠となるだろう」


カシアンが、補足する。


その瞬間、奏真の〈見窓志端〉が光った。


理奈からの、メッセージ。


送られてきた文書を確認し終えると――

三人の顔に、それぞれ異なる、しかし共通の衝撃が走った。


奏真は、民の魂を踏みにじる行いに――

静かで、しかし燃え上がるような怒りに震え、カリンバをそっと抱きしめた。


カシアンは、苦渋に満ちた表情で――

共和国の闇の深さに絶望と、しかし揺るぎない覚悟を滲ませていた。


シエルは、静かに、しかし深い憤りを湛え――

その瞳には真実を追求する、揺るぎない光が宿っていた。


「これこそが、現在の共和国が《真の『天律教』》から逸脱している――

動かぬ証拠です」


シエルは、静かに、しかし断固とした口調で言った。


「感情を否定し、《静寂》を賛美する教義は――

民の魂を枯らすための道具に成り下がった」


シエルの拳が、握られる。


「この真実を国民に知らしめることができれば、必ず民は目覚めるでしょう」


一拍。


「もはや――猶予は、ありません」


「真実を伝えるには、相応の準備と覚悟が必要だ」


カシアンは、奏真とシエルたちに告げた。


彼の声は低いが、その重みは部屋の空気を震わせた。


「この情報が公になれば、共和国全土が計り知れない混乱に陥るだろう」


一呼吸。


「しかし、それが民を救い――

《真の『天律教』》へと導く、唯一の道だ」


拳が、握りしめられる。


「我々は――もはや、引き返せない」


カシアンの言葉に、皆が覚悟を決めると――

早速〈見窓志端〉の運用計画を練り始めた。


最初はごく限定された層、特に不満を抱く労働者階級や――

抑圧された獣人たちに優先的に配布される。


そして、そこからゆっくりと水面に広がる波紋のように――

情報が伝播していく戦略だ。


「直接的な《音》は、まだ危険です」


シエルは、慎重に言った。


「凍りついた民の心に、いきなり貴方の旋律を届けても――

それは戸惑いと拒絶を生むだけでしょう」


一呼吸。


「まずは視覚から、この国には存在しないはずの《自由》を見せるのです」


シエルの目が、柔らかくなる。


「アノンノアの青空の下、満面の笑みで語り合う家族の姿――

色とりどりの花が咲き乱れる草原で、子どもたちが無邪気に駆け回る光景」


一拍。


「そうした映像が、彼らの渇いた心に小さな亀裂を生じさせる」


シエルの声が、確信に満ちる。


「そして、その後に――

貴方の音楽を、人々の心の奥底に、そっと染み込ませるのです」


そうして運用計画は、練りこまれていった。



夜は深まり、奏真は地下から自室に戻ると――

カリンバをそっと撫でていた。


この地の《静寂》は、あまりにも深く――

彼の音楽が届くのか、まだ不安はある。


聖都の空には、監視烏の無機質な律動が響き渡る。


その律動の狭間で――


奏真は、カリンバからごく微かな、

しかし確かな《隠された音》を紡ぎ出した。


〈見窓志端〉の運用計画は、革命派の同士にすでに届けられている。


それらは――


共和国の深く凍てついた《静寂》の奥底で、

解放の鼓動として響き始める――


新たな旋律の、予感だった。



運用計画を受け取ったレイモンドなど革命派の同士は――

次の日から、精力的に動き出していた。


〈見窓志端〉は、厳重な監視を掻い潜り――

聖都の下層や衛星都市の労働区画で働く人々の手に、水面下で渡っていった。


最初は皆、見慣れない奇妙な霊具に警戒心を抱いた。


だが、重労働の合間、あるいは家族団欒の食卓で――

ある者が好奇心と、かすかな希望に駆られて起動させた。


すると――


掌の小さな画面に、

共和国では決して見ることのできない《光景》が、

映し出されたのだ。


煌めく色彩に満ちた街並み。

肩を寄せ合い、屈託のない笑顔で語り合う人々。


そして、何よりも彼らを驚かせたのは――

自由に楽器を奏で、歌い踊る人々の、生命力溢れる姿だった。


それらは、彼らが《混沌》と教えられてきた――

感情と個性に満ちた、あまりにも鮮やかな世界だった。


「これ……なんだ?」


下層の労働者の一人が、震える手で〈見窓志端〉を見つめた。


その隣の少女は、画面に映る青空を見上げ――

吸い込まれるように、瞳を輝かせた。


彼女の小さな心に、新たな世界への憧れが芽生える。


「こんな世界……あるの? 本当に……?」


少女が、呟く。


労働者は、無言で画面を見つめている。

その目には、涙が浮かんでいた。


(俺たちが間違っていたのか……それとも……)


戸惑い、押し殺してきたはずの恐怖。

そして、心の奥底で忘れかけていたはずの《羨望》が――

鈍っていた人々の感情に、微かな熱を灯し始める。


そして、その映像の奥から――

かすかに、しかし確実に、奏真のカリンバの音が響いてきた。


それは、共和国の無機質な律動とは異なる――

温かく、懐かしく、そして魂の奥底を揺さぶる調べだった。


映像と音が織りなす《自由》の感覚が――

まるで氷の壁に亀裂を入れるように、人々の心に浸透していく。



シルヴァンの執務室は、日に日に張り詰めた緊張感を増していた。


〈見窓志端〉によって広がる《混沌》の情報は――

彼の情報統制の網を巧みに潜り抜け、

下層の国民の間で囁かれ、小さな波紋を広げ始めている。


壁にかけられた共和国の地図には、不穏な動きを示す地点がいくつもマークされていた。


日に日に、その数は増えている。


(制御が――効かなくなってきている)


シルヴァンの拳が、握られる。


「衛士庁は一体、何をしているのだ!」


シルヴァンは、ダミアン・ド・ジヴレクール衛士総監に苛立ちをぶつけた。

その声には、冷徹な威圧感が滲んでいる。


「『律霊掌』からの報告も、最近はどこか歯切れが悪い。

特に――お前の甥であるカシアン・ド・ジヴレクール、彼の動向がどうにも怪しい」


シルヴァンの声が、低くなる。


「彼の部下たちが、最近不審な動きを見せているという報告も上がっているぞ。

一体、何を企んでいる?」


ダミアンは、厳しい表情で答えた。


内心では甥への疑念と、衛士総監としての責務との間で激しく揺れ動いていたが――

それを微塵も表に出さない。


「カシアンには忠実な衛士をつけ、常時監視させています。

しかし、今のところ明確な怪しい行動は確認できていない」


ダミアンの目が、厳しくなる。


「だが、この共和国に潜む《異物》が――

我々の霊法探知を掻い潜っているのは事実です。

奴らが何を仕掛けてくるか、予断を許しません」


シルヴァンは、鋭い視線をダミアンに突き刺した。


「お前の甥を、もっと厳重に監視しろ」


一呼吸。


「もし、奴が共和国の秩序を乱すような真似をしていれば――

ジヴレクール家とて、容赦はしない」


拳が、強く握られる。


「衛士総監としての責任――忘れるなよ」



カシアンは、身内であるダミアンからの監視の目が強まっていることを――

肌で感じていた。


屋敷の周囲を巡回する衛士の数が増え――

彼の部下たちも、より慎重な行動を余儀なくされていた。


革命派の活動は、一刻の猶予も許されない――

まさに瀬戸際に陥っていたのだ。


だが――


カシアンの目には、揺るぎない光があった。


〈見窓志端〉は、すでに民衆の手に渡っている。


もう、止められない。


共和国の《静寂》に――


亀裂が、


入り始めた。

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