第三部『聖アージェンティウム共和国 ― 白環の響解 ―』:第一章「潜流の都-蠢く予感-」:四
カシアンの屋敷の隠し部屋は――
共和国の厳重な監視網から隔絶された、唯一の安息の地だった。
しかし、その部屋の空気さえも――
まるで音を吸い込むかのように重く、
奏真の肌に《静寂》の圧迫感が微かにまとわりつく。
奏真は、お茶を口にしながら――
カシアンの疲弊した横顔を見つつ、カリンバを膝の上に置いた。
共和国の霊法技術、特に音を捉える監視烏は――
彼の音楽にとって、最大の障害だ。
軽率に音を立てれば、即座に居場所が露見するだろう。
「この《静寂》の中で、どうやって俺の音を届ければいいんだ?」
奏真は、素直な疑問を口にした。
焦りではない――純粋な、問いだった。
カシアンは、ゆっくりと首を横に振った。
「すぐにではない。まずは準備が必要だ」
一呼吸。
「共和国の民は、あまりにも長く《静寂こそ善》という教義に縛られ――
自らの感情を抑圧してきた」
カシアンの目が、遠くを見つめる。
「彼らの心は深く凍りつき、いきなり《音》を押し付けても――
その響きは混沌としか受け取られず、排斥されるのが関の山だろう」
◆
その夜、カシアンは奏真を連れて――
屋敷の地下にある秘密の通路を通った。
通路の先には、わずかな灯りの中に――
数人の人影があった。
カシアンに忠誠を誓う、革命派の面々だ。
その中心には、月白色の髪を持つ聡明な女性が立っていた。
セレスティエ家の若き学士、そして革命派のリーダー――
シエル・ド・セレスティエである。
彼女の瞳には、知的な探求心と――
凍えるような冷静さが宿っていた。
「奏真、貴方が――アノンノアの《調律》の担い手」
シエルは、氷のような静けさを湛えた目で奏真を見据えた。
「貴方の音楽は、我々の見出した《真の天律》を具現化する――
光となるだろう」
シエルは、共和国の閉鎖的な教義が――
いかに『天律教』の本来の姿から逸脱しているかを熱弁した。
彼女の語る《真の天律》とは――
個々の感情や個性、《魂の音》が互いに共鳴し、
調和することで世界全体に豊かな生命の響きをもたらすという、
アノンノア原理と通じる理念だった。
そんな彼女の言葉は、理性に基づいた真理への探究心に溢れており――
奏真が共和国の見方を変える、二人目の白天族だった。
「《魂と器の神聖性》という教義は――
過去の霊法的な失敗を隠蔽し、
特定の白天族の利権を守るために歪められたもの」
シエルの声が、厳しくなる。
「そして《静寂こそ善》は――
民衆の感情を操り、思考を停止させるための、
巧妙な支配手段として利用されている」
シエルの言葉は、共和国の根深い闇を抉り出した。
その知性は、冷徹なまでに真実を暴く。
「『偽りの聖水』の解析結果次第では――
その何よりの証拠となるだろう」
カシアンが、補足する。
その瞬間、奏真の〈見窓志端〉が光った。
理奈からの、メッセージ。
送られてきた文書を確認し終えると――
三人の顔に、それぞれ異なる、しかし共通の衝撃が走った。
奏真は、民の魂を踏みにじる行いに――
静かで、しかし燃え上がるような怒りに震え、カリンバをそっと抱きしめた。
カシアンは、苦渋に満ちた表情で――
共和国の闇の深さに絶望と、しかし揺るぎない覚悟を滲ませていた。
シエルは、静かに、しかし深い憤りを湛え――
その瞳には真実を追求する、揺るぎない光が宿っていた。
「これこそが、現在の共和国が《真の『天律教』》から逸脱している――
動かぬ証拠です」
シエルは、静かに、しかし断固とした口調で言った。
「感情を否定し、《静寂》を賛美する教義は――
民の魂を枯らすための道具に成り下がった」
シエルの拳が、握られる。
「この真実を国民に知らしめることができれば、必ず民は目覚めるでしょう」
一拍。
「もはや――猶予は、ありません」
「真実を伝えるには、相応の準備と覚悟が必要だ」
カシアンは、奏真とシエルたちに告げた。
彼の声は低いが、その重みは部屋の空気を震わせた。
「この情報が公になれば、共和国全土が計り知れない混乱に陥るだろう」
一呼吸。
「しかし、それが民を救い――
《真の『天律教』》へと導く、唯一の道だ」
拳が、握りしめられる。
「我々は――もはや、引き返せない」
カシアンの言葉に、皆が覚悟を決めると――
早速〈見窓志端〉の運用計画を練り始めた。
最初はごく限定された層、特に不満を抱く労働者階級や――
抑圧された獣人たちに優先的に配布される。
そして、そこからゆっくりと水面に広がる波紋のように――
情報が伝播していく戦略だ。
「直接的な《音》は、まだ危険です」
シエルは、慎重に言った。
「凍りついた民の心に、いきなり貴方の旋律を届けても――
それは戸惑いと拒絶を生むだけでしょう」
一呼吸。
「まずは視覚から、この国には存在しないはずの《自由》を見せるのです」
シエルの目が、柔らかくなる。
「アノンノアの青空の下、満面の笑みで語り合う家族の姿――
色とりどりの花が咲き乱れる草原で、子どもたちが無邪気に駆け回る光景」
一拍。
「そうした映像が、彼らの渇いた心に小さな亀裂を生じさせる」
シエルの声が、確信に満ちる。
「そして、その後に――
貴方の音楽を、人々の心の奥底に、そっと染み込ませるのです」
そうして運用計画は、練りこまれていった。
◆
夜は深まり、奏真は地下から自室に戻ると――
カリンバをそっと撫でていた。
この地の《静寂》は、あまりにも深く――
彼の音楽が届くのか、まだ不安はある。
聖都の空には、監視烏の無機質な律動が響き渡る。
その律動の狭間で――
奏真は、カリンバからごく微かな、
しかし確かな《隠された音》を紡ぎ出した。
〈見窓志端〉の運用計画は、革命派の同士にすでに届けられている。
それらは――
共和国の深く凍てついた《静寂》の奥底で、
解放の鼓動として響き始める――
新たな旋律の、予感だった。
◆
運用計画を受け取ったレイモンドなど革命派の同士は――
次の日から、精力的に動き出していた。
〈見窓志端〉は、厳重な監視を掻い潜り――
聖都の下層や衛星都市の労働区画で働く人々の手に、水面下で渡っていった。
最初は皆、見慣れない奇妙な霊具に警戒心を抱いた。
だが、重労働の合間、あるいは家族団欒の食卓で――
ある者が好奇心と、かすかな希望に駆られて起動させた。
すると――
掌の小さな画面に、
共和国では決して見ることのできない《光景》が、
映し出されたのだ。
煌めく色彩に満ちた街並み。
肩を寄せ合い、屈託のない笑顔で語り合う人々。
そして、何よりも彼らを驚かせたのは――
自由に楽器を奏で、歌い踊る人々の、生命力溢れる姿だった。
それらは、彼らが《混沌》と教えられてきた――
感情と個性に満ちた、あまりにも鮮やかな世界だった。
「これ……なんだ?」
下層の労働者の一人が、震える手で〈見窓志端〉を見つめた。
その隣の少女は、画面に映る青空を見上げ――
吸い込まれるように、瞳を輝かせた。
彼女の小さな心に、新たな世界への憧れが芽生える。
「こんな世界……あるの? 本当に……?」
少女が、呟く。
労働者は、無言で画面を見つめている。
その目には、涙が浮かんでいた。
(俺たちが間違っていたのか……それとも……)
戸惑い、押し殺してきたはずの恐怖。
そして、心の奥底で忘れかけていたはずの《羨望》が――
鈍っていた人々の感情に、微かな熱を灯し始める。
そして、その映像の奥から――
かすかに、しかし確実に、奏真のカリンバの音が響いてきた。
それは、共和国の無機質な律動とは異なる――
温かく、懐かしく、そして魂の奥底を揺さぶる調べだった。
映像と音が織りなす《自由》の感覚が――
まるで氷の壁に亀裂を入れるように、人々の心に浸透していく。
◆
シルヴァンの執務室は、日に日に張り詰めた緊張感を増していた。
〈見窓志端〉によって広がる《混沌》の情報は――
彼の情報統制の網を巧みに潜り抜け、
下層の国民の間で囁かれ、小さな波紋を広げ始めている。
壁にかけられた共和国の地図には、不穏な動きを示す地点がいくつもマークされていた。
日に日に、その数は増えている。
(制御が――効かなくなってきている)
シルヴァンの拳が、握られる。
「衛士庁は一体、何をしているのだ!」
シルヴァンは、ダミアン・ド・ジヴレクール衛士総監に苛立ちをぶつけた。
その声には、冷徹な威圧感が滲んでいる。
「『律霊掌』からの報告も、最近はどこか歯切れが悪い。
特に――お前の甥であるカシアン・ド・ジヴレクール、彼の動向がどうにも怪しい」
シルヴァンの声が、低くなる。
「彼の部下たちが、最近不審な動きを見せているという報告も上がっているぞ。
一体、何を企んでいる?」
ダミアンは、厳しい表情で答えた。
内心では甥への疑念と、衛士総監としての責務との間で激しく揺れ動いていたが――
それを微塵も表に出さない。
「カシアンには忠実な衛士をつけ、常時監視させています。
しかし、今のところ明確な怪しい行動は確認できていない」
ダミアンの目が、厳しくなる。
「だが、この共和国に潜む《異物》が――
我々の霊法探知を掻い潜っているのは事実です。
奴らが何を仕掛けてくるか、予断を許しません」
シルヴァンは、鋭い視線をダミアンに突き刺した。
「お前の甥を、もっと厳重に監視しろ」
一呼吸。
「もし、奴が共和国の秩序を乱すような真似をしていれば――
ジヴレクール家とて、容赦はしない」
拳が、強く握られる。
「衛士総監としての責任――忘れるなよ」
◆
カシアンは、身内であるダミアンからの監視の目が強まっていることを――
肌で感じていた。
屋敷の周囲を巡回する衛士の数が増え――
彼の部下たちも、より慎重な行動を余儀なくされていた。
革命派の活動は、一刻の猶予も許されない――
まさに瀬戸際に陥っていたのだ。
だが――
カシアンの目には、揺るぎない光があった。
〈見窓志端〉は、すでに民衆の手に渡っている。
もう、止められない。
共和国の《静寂》に――
亀裂が、
入り始めた。




