第三部『聖アージェンティウム共和国 ― 白環の響解 ―』:第一章「潜流の都-蠢く予感-」:三
カシアンの屋敷――その隠し部屋で。
奏真と理奈は、再びカシアンと顔を合わせた。
部屋の空気は重い。
しかし、確かな緊張感と――
未来への期待感に、満ちていた。
「よく来てくれた、奏真、理奈」
カシアンが、静かに言った。
彼の声は低いが、その言葉には――
とりあえずの安堵と、かすかな、しかし確かな期待が滲んでいた。
「君たちが来てくれたことで、凍てついた共和国に――
ようやく春の兆しが、見えるかもしれない」
奏真は、胸元のカリンバに手を当てた。
共和国の《静寂》は、彼の想像以上に深く――
人々の心に根付いているように感じられた。
(この強固な沈黙を、自分の音楽で打ち破ることができるのか……?)
途方もない重圧、そして不安。
かつてこの国で、彼自身が《静寂》に縛られていた。
声を奪われ、感情を殺され、ただ従うことだけを強いられた。
その記憶が――今も、胸に残っている。
だが、隣には理奈がいる。
そして、カシアンがいる。
彼は――一人では、ない。
◆
「まず、君たちの任務についてだ」
カシアンは、簡素な地図を広げた。
それは聖都の全体図――
そして、主要な霊法施設や聖水の経路が詳細に示されている。
彼は、革命派としての緻密な準備を怠っていなかった。
「理奈、君には――この工匠奉都だ」
指が、地図上の一点を指す。
「レイモンド・ブランシュという者がいる。
彼は工匠奉都の霊具加工職人で、共和国の霊法技術の裏側にも通じている」
カシアンの声が、確信に満ちる。
「彼と接触し、〈見窓志端〉の配布ルートの構築と――
《聖水》の成分解析に着手してほしい」
一呼吸。
「この《聖水》の真実こそが、民衆を覚醒させる最大の鍵となる」
理奈の目は、共和国の真実を明らかにし――
人々を救うことに、燃えていた。
彼女は地図上の工匠奉都に、指を置いた。
「必ず、この国の闇を暴いてみせます」
その声には、学者としての揺るぎない決意が宿っていた。
「奏真、君は私の元で――
下層の国民と接触できる機会を探ってくれ」
カシアンの視線が、彼へ向けられる。
「君の音楽が、彼らの《静寂》を打ち破る――
唯一無二の鍵となるはずだ」
そして――
「ただし、くれぐれも警戒を怠るな」
カシアンの声が、厳しくなる。
「聖都は、衛士庁の監視の目が最も厳しい場所だ」
◆
中央にある聖都の夜は、文字通り《静寂》に包まれていた。
監視烏の規則的な羽音だけが、不気味に響き渡る。
奏真は、カシアンの屋敷の窓から――
星のない、漆黒の空を見上げた。
その暗闇の向こうに、アノンノアの自由な天蓋を幻視する。
影の中――
二つの異なる旋律が、この《静寂》を打ち破るべく――
密かに、しかし力強く、蠢き始めた。
◆
数日後、マルコが運び込んだ大量の〈見窓志端〉は――
分厚い書籍の束や、日用品の隙間、
あるいは腐敗しかけた食料の荷の下に巧妙に紛れ込ませられ、
工匠奉都の地下深く、レイモンド・ブランシュの秘密工房へと――
無事、運び込まれた。
通商奉都の交易監査官、ロラン・ド・ヴァラルジャンの関与は――
表面上は薄いものの、彼が管轄する交易ルートの一部が不自然に《手薄》になることで、
輸送は滞りなく進行した。
◆
「この量が届けば、共和国の隅々にまで波紋を広げられる」
レイモンドは、工房の隅に積み上げられた〈見窓志端〉の木箱を見上げ――
その無骨な顔に、静かな決意を滲ませた。
彼の工房は、今や革命の最前線基地と化していた。
そして、理奈も秘密工房に移っていた。
レイモンドは寡黙な男だったが――
理奈の霊具加工技術への深い知識に感銘を受け、協力を惜しまなかった。
工房には、これまで共和国では見られなかった――
アノンノア製の解析装置が、所狭しと並べられている。
「こちらが、聖渠から採取した《聖水》のサンプルです」
レイモンドは、試験管に入った透明な液体を理奈に差し出した。
「これまでは神聖なものとして、誰も成分を分析しようとはしませんでした」
理奈は、自身の解析装置を取り出し――
即座に、作業に取り掛かった。
レイモンドは、その解析の様子を――
腕を組みながら、固唾を飲んで見守っていた。
ランプの灯りが揺れる。
装置が、微かな駆動音を立てる。
理奈の集中は、研ぎ澄まされていた。
彼女の緻密な分析能力は、共和国の技術者が驚くほどの速度で――
聖水の構成要素を、解き明かしていく。
アノンノア製の精巧な解析装置の表示が、次々と変化する。
理奈の瞳が――鋭く、光った。
数値が――確定する。
(これは――)
理奈の手が、わずかに震えた。
「検出された……!」
理奈の声に、工房全体に張り詰めていた緊張が――
一瞬で、弾けた。
彼女の指先が、解析結果を映した表示パネルを指し示す。
「特定の植物から抽出された《眠味成分》――
ごく微量だけど、長期的に摂取すれば」
理奈の目が、データを見つめる。
「人の感情の高ぶりを抑え、思考を鈍らせる効果がある」
一拍。
「完全に意識を奪うわけじゃない。
これは、民衆から自由な思考を奪い――
《静寂》という名の牢獄に繋ぎ止めるための」
理奈の声が、怒りに震える。
「巧妙かつ悪辣な、精神操作よ!」
一呼吸。
「まさしく――『偽りの聖水』だわ」
レイモンドは、驚きと憤怒に目を見開いた。
その顔は怒りで歪み、唇が震える。
「やはり……あの《聖水》が、本当に民を毒していたとは……」
拳が、強く握られる。
レイモンドの脳裏に――
聖水を飲む民衆の姿が、浮かぶ。
彼らは、信じていた。
疑うことなく、飲み続けていた。
その全てが――欺瞞だった。
「浄化と衛生を司るスレーヌ家が《神聖なる水》と宣い――
ミラルジャン家と結託して、こんなことを……卑劣極まりない!」
彼の声は、怒りに震えながらも深い悲しみを帯びていた。
長年信じてきた信仰が、欺瞞であったと知る――
その衝撃が、彼を襲った。
◆
その真実は――
共和国の《静寂こそ善》という教義の裏に隠された、
最も卑劣な支配の実態だった。
人々が自らの意思で《静寂》を選んでいると信じ込まされていたが――
その実、精神的に操られ、感情が抑圧されていたのだ。
理奈は、この欺瞞を暴くことが――
彼女自身の使命であることを、改めて確信した。
「この真実を、どう国民に伝えるか……」
レイモンドは唸り、固く拳を握りしめた。
「迂闊に動けば、我々は――
そして真実を知る機会を与えられるはずの民衆も、一網打尽にされるだろう」
理奈は、〈見窓志端〉をレイモンドに手渡した。
「この端末は、共和国の監視網を掻い潜るための特殊な機能が組み込まれている。
情報伝達と、奏真の音楽を届けるための重要なツールになるわ」
理奈の目が、レイモンドを見つめる。
「まずは、この端末の配布ルートを確立しましょう。
それができれば、《聖水》の真実を民衆に伝えられる」
理奈は、解析結果を記した詳細な文書を――
幾重にも霊法・魔法的に保護された〈見窓志端〉で作成し、奏真に送った。
これは、共和国の権威を根底から覆す――
決定的な証拠となるだろう。
そして――
静寂に閉ざされた民衆を、
解き放つための、
第一歩と、
なる。
理奈とレイモンドは――
暗い工房の中で、
静かに頷き合った。
革命の、
火種が、
今、
灯された。




