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第三部『聖アージェンティウム共和国 ― 白環の響解 ―』:第一章「潜流の都-蠢く予感-」:三

カシアンの屋敷――その隠し部屋で。

奏真と理奈は、再びカシアンと顔を合わせた。


部屋の空気は重い。


しかし、確かな緊張感と――

未来への期待感に、満ちていた。


「よく来てくれた、奏真、理奈」


カシアンが、静かに言った。


彼の声は低いが、その言葉には――

とりあえずの安堵と、かすかな、しかし確かな期待が滲んでいた。


「君たちが来てくれたことで、凍てついた共和国に――

ようやく春の兆しが、見えるかもしれない」


奏真は、胸元のカリンバに手を当てた。


共和国の《静寂》は、彼の想像以上に深く――

人々の心に根付いているように感じられた。


(この強固な沈黙を、自分の音楽で打ち破ることができるのか……?)


途方もない重圧、そして不安。


かつてこの国で、彼自身が《静寂》に縛られていた。

声を奪われ、感情を殺され、ただ従うことだけを強いられた。


その記憶が――今も、胸に残っている。


だが、隣には理奈がいる。

そして、カシアンがいる。


彼は――一人では、ない。



「まず、君たちの任務についてだ」


カシアンは、簡素な地図を広げた。


それは聖都の全体図――

そして、主要な霊法施設や聖水の経路が詳細に示されている。


彼は、革命派としての緻密な準備を怠っていなかった。


「理奈、君には――この工匠奉都だ」


指が、地図上の一点を指す。


「レイモンド・ブランシュという者がいる。

彼は工匠奉都の霊具加工職人で、共和国の霊法技術の裏側にも通じている」


カシアンの声が、確信に満ちる。


「彼と接触し、〈見窓志端〉の配布ルートの構築と――

《聖水》の成分解析に着手してほしい」


一呼吸。


「この《聖水》の真実こそが、民衆を覚醒させる最大の鍵となる」


理奈の目は、共和国の真実を明らかにし――

人々を救うことに、燃えていた。


彼女は地図上の工匠奉都に、指を置いた。


「必ず、この国の闇を暴いてみせます」


その声には、学者としての揺るぎない決意が宿っていた。


「奏真、君は私の元で――

下層の国民と接触できる機会を探ってくれ」


カシアンの視線が、彼へ向けられる。


「君の音楽が、彼らの《静寂》を打ち破る――

唯一無二の鍵となるはずだ」


そして――


「ただし、くれぐれも警戒を怠るな」


カシアンの声が、厳しくなる。


「聖都は、衛士庁の監視の目が最も厳しい場所だ」



中央にある聖都の夜は、文字通り《静寂》に包まれていた。


監視烏の規則的な羽音だけが、不気味に響き渡る。


奏真は、カシアンの屋敷の窓から――

星のない、漆黒の空を見上げた。


その暗闇の向こうに、アノンノアの自由な天蓋を幻視する。


影の中――


二つの異なる旋律が、この《静寂》を打ち破るべく――

密かに、しかし力強く、蠢き始めた。



数日後、マルコが運び込んだ大量の〈見窓志端〉は――

分厚い書籍の束や、日用品の隙間、

あるいは腐敗しかけた食料の荷の下に巧妙に紛れ込ませられ、


工匠奉都の地下深く、レイモンド・ブランシュの秘密工房へと――

無事、運び込まれた。


通商奉都の交易監査官、ロラン・ド・ヴァラルジャンの関与は――

表面上は薄いものの、彼が管轄する交易ルートの一部が不自然に《手薄》になることで、

輸送は滞りなく進行した。



「この量が届けば、共和国の隅々にまで波紋を広げられる」


レイモンドは、工房の隅に積み上げられた〈見窓志端〉の木箱を見上げ――

その無骨な顔に、静かな決意を滲ませた。


彼の工房は、今や革命の最前線基地と化していた。


そして、理奈も秘密工房に移っていた。


レイモンドは寡黙な男だったが――

理奈の霊具加工技術への深い知識に感銘を受け、協力を惜しまなかった。


工房には、これまで共和国では見られなかった――

アノンノア製の解析装置が、所狭しと並べられている。


「こちらが、聖渠から採取した《聖水》のサンプルです」


レイモンドは、試験管に入った透明な液体を理奈に差し出した。


「これまでは神聖なものとして、誰も成分を分析しようとはしませんでした」


理奈は、自身の解析装置を取り出し――

即座に、作業に取り掛かった。


レイモンドは、その解析の様子を――

腕を組みながら、固唾を飲んで見守っていた。


ランプの灯りが揺れる。

装置が、微かな駆動音を立てる。


理奈の集中は、研ぎ澄まされていた。


彼女の緻密な分析能力は、共和国の技術者が驚くほどの速度で――

聖水の構成要素を、解き明かしていく。


アノンノア製の精巧な解析装置の表示が、次々と変化する。


理奈の瞳が――鋭く、光った。


数値が――確定する。


(これは――)


理奈の手が、わずかに震えた。


「検出された……!」


理奈の声に、工房全体に張り詰めていた緊張が――

一瞬で、弾けた。


彼女の指先が、解析結果を映した表示パネルを指し示す。


「特定の植物から抽出された《眠味成分》――

ごく微量だけど、長期的に摂取すれば」


理奈の目が、データを見つめる。


「人の感情の高ぶりを抑え、思考を鈍らせる効果がある」


一拍。


「完全に意識を奪うわけじゃない。

これは、民衆から自由な思考を奪い――

《静寂》という名の牢獄に繋ぎ止めるための」


理奈の声が、怒りに震える。


「巧妙かつ悪辣な、精神操作よ!」


一呼吸。


「まさしく――『偽りの聖水』だわ」


レイモンドは、驚きと憤怒に目を見開いた。

その顔は怒りで歪み、唇が震える。


「やはり……あの《聖水》が、本当に民を毒していたとは……」


拳が、強く握られる。


レイモンドの脳裏に――

聖水を飲む民衆の姿が、浮かぶ。


彼らは、信じていた。

疑うことなく、飲み続けていた。


その全てが――欺瞞だった。


「浄化と衛生を司るスレーヌ家が《神聖なる水》と宣い――

ミラルジャン家と結託して、こんなことを……卑劣極まりない!」


彼の声は、怒りに震えながらも深い悲しみを帯びていた。


長年信じてきた信仰が、欺瞞であったと知る――

その衝撃が、彼を襲った。



その真実は――


共和国の《静寂こそ善》という教義の裏に隠された、

最も卑劣な支配の実態だった。


人々が自らの意思で《静寂》を選んでいると信じ込まされていたが――

その実、精神的に操られ、感情が抑圧されていたのだ。


理奈は、この欺瞞を暴くことが――

彼女自身の使命であることを、改めて確信した。


「この真実を、どう国民に伝えるか……」


レイモンドは唸り、固く拳を握りしめた。


「迂闊に動けば、我々は――

そして真実を知る機会を与えられるはずの民衆も、一網打尽にされるだろう」


理奈は、〈見窓志端〉をレイモンドに手渡した。


「この端末は、共和国の監視網を掻い潜るための特殊な機能が組み込まれている。

情報伝達と、奏真の音楽を届けるための重要なツールになるわ」


理奈の目が、レイモンドを見つめる。


「まずは、この端末の配布ルートを確立しましょう。

それができれば、《聖水》の真実を民衆に伝えられる」


理奈は、解析結果を記した詳細な文書を――

幾重にも霊法・魔法的に保護された〈見窓志端〉で作成し、奏真に送った。


これは、共和国の権威を根底から覆す――

決定的な証拠となるだろう。


そして――


静寂に閉ざされた民衆を、


解き放つための、


第一歩と、


なる。


理奈とレイモンドは――

暗い工房の中で、

静かに頷き合った。


革命の、


火種が、


今、


灯された。

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