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第三部『聖アージェンティウム共和国 ― 白環の響解 ―』:第一章「潜流の都-蠢く予感-」:二

〈公開掲示板〉での議論の決着から――

数日が、経過した。


共和国への潜入準備が具体化し始めた頃。

奏真と理奈は、マルコを呼び出した。


具体的な潜入計画と――

小型〈見窓志盤〉、すなわち〈見窓志端〉の輸送方法について、

相談するために。



マルコは、いつになく深刻な面持ちで、

二人の前に座った。


彼の表情には――

二人に迫る危険への懸念が、

色濃く浮かんでいた。


「共和国は今、内側から崩壊の危機に瀕している」


マルコが、口を開く。


「噂レベルではあるが――

霊窟孔の資源の枯渇、環境悪化の兆候」


一拍。


「そして、『偽りの聖水』という――

国民の感情を鈍らせるものが存在するという情報も入ってきている」


マルコの声が、一段と低くなる。


「飲めば、疑問を持たなくなる。

怒りも、悲しみも、希望すらも――

すべてが、静寂に沈むとの噂」


拳が、握られる。


「これらが本当であれば、個の可能性を搾取する――

許されざる行為だ」


マルコは重々しく、続けた。


「だが、介入は容易ではない」


一呼吸。


「アノンノアにとっても、共和国にとっても――

全面戦争の火種となりかねない、大きなリスクを伴う」


「分かっています」


奏真は澄んだ声で言った。

彼の表情には、迷いはない。


「しかし、俺たちに助けを求める声が届いた」


奏真の目が、まっすぐに前を向く。


「カシアンが俺の音楽に何かを感じた――

その音楽が、彼らの心を解き放つと信じて」


拳が、握りしめられる。


「向かいます」


理奈も力強く頷いた。

彼女の表情にも、共和国の人々を救いたいという強い意思が宿っていた。


「共和国の霊法は、まだ解析しきれていない部分が多い」


理奈が、告げる。


「それに、『偽りの聖水』の成分解析には――

私の知識が、きっと役立つはずです」


一呼吸。


「この目で真実を確かめ、救いたい」


マルコは、二人の揺るぎない覚悟を受け止めた。

大きく、息を吐く。


「わかった。ならば、最善の準備をしよう」


マルコの視線が、理奈へ向けられる。


「理奈、君には〈見窓志端〉の生産指揮と必要な機材の準備――

そして、共和国の霊法探知対策を頼む」


そして、奏真を見る。


「奏真、君は……

君の音楽こそが、彼らの《静寂》を打ち破る希望の鐘になるはずだ」


拳が、握られる。


「その調べで、凍てついた心を溶かしてくれ」



共和国への帰還という名の潜入。


それは奏真にとって、過去との対峙であり――

自身の音楽の真価を問われる、過酷な旅路となるだろう。


しかし、彼のカリンバの鍵盤は――

すでに《静寂》の向こう側に響く、新たな旋律を求めていた。


凍土に蒔かれた希望の種が芽吹き、

やがて豊かな音を奏でるその日を信じて。



アノンノアでの準備は、着々と進んだ。


理奈は徹夜で〈見窓志端〉の設計に没頭した。

共和国の霊法探知を欺くための《調律》機能を、魔法技術で組み込んでいく。


それは、〈志端〉を改造した――

共和国の厳重な監視網を巧みに掻い潜るための、

アノンノアの知の結晶だった。


マルコは、通商奉都の裏ルートに顔の利く商人たちを介し、

安全な輸送経路を確保していく。


特に、中立派のヴァラルジャン家の一員、

ロラン・ド・ヴァラルジャンとの非公式な接触も視野に入れ、

綿密な計画を練り上げた。


一週間後――


すべての準備が、整った。



奏真は、カシアンからの指示に従い、

潜入のための偽装工作に協力した。


共和国の公式記録上、奏真は未だ――

《カシアン・ド・ジヴレクールの専属保護国民》。


その身分は、今回の潜入において、

最も強力な盾となる。


そして理奈もまた、カシアンの特別な裁量により――

《彼の新たな専属保護国民》として、偽装されることになった。


もちろん、これには――

共和国の厳重な監査を潜り抜けるための精巧な偽造品と、

カシアンが自身の権限を最大限に利用した《偽装の所有印》の準備が、

必要不可欠だった。


「このピアスが、私の命綱ってわけね」


理奈は、カシアンから送られてきた『氷月の標』を模した銀のピアスを、

耳に装着しながら苦笑した。


その表情には、自らの立場を冷静に受け止める――

科学者としての覚悟が滲んでいた。


「まさか、私まで共和国に《所有》されるとはね」


「大丈夫だ、理奈」


奏真の声には、彼女を気遣う優しさが含まれていた。


「俺たちは、もう本当の自由を知っている」


カリンバを、握りしめる。


「それを、奏でに行くだけだよ」



出発の日――


マルコは二人に深く頷いた。

彼の目は、心配と信頼が混じり合っていた。


「健闘を祈る」


マルコが、二人専用の〈見窓志端〉を手渡す。


「何かあれば、これで連絡を」


一拍。


「ただし、細心の注意を払うんだぞ」


一呼吸。


「共和国の監視網は、外部の商人の耳にも――

《狂気の厳しさ》と届いている」


マルコの目が鋭く、二人を見つめる。


「決して、油断するな」



こうして――


奏真と理奈を乗せた〈小型律霊飛空艇〉『ハルモニア・ウィスプ』は、

アノンノアを出発し、遥か東方の聖アージェンティウム共和国へと向かった。


機内は――静かだった。


奏真は窓の外を見つめている。

理奈は、〈見窓志端〉の最終チェックをしている。


二人とも、言葉少なだった。


これから向かうのは――

かつて奏真を縛った、《静寂》の国。


そこで待ち受けるものが何か――

まだ、誰にも分からない。


風のようにしばらく飛行して――


『ハルモニア・ウィスプ』が着陸したのは、

共和国に一番近い廃港の、人目につかない場所。


その着陸音は風の唸りに紛れ、

機体は影に溶け込んだ。


そこには、事前にカシアンが手配した――

衛士庁のごく少数の秘密部隊が、闇に紛れて待機していた。


彼らは、カシアンに忠実な革命派のメンバーだ。


「合図通りかと。こちらへ」


衛士の一人が囁くように言い、二人に手招きした。


その声には一切の感情が感じられなかったが――

それがかえって、彼らが訓練されたプロフェッショナルであることを物語っていた。


警戒の視線が、闇の中で静かに交錯する。



しかし、久しぶりの共和国の空気は――

アノンノアとは、まるで違っていた。


廃港から通商奉都へと向かう馬車の中で――

奏真たちは、窓の外に広がる光景を眺めていた。


うず高い石の城壁。

聖都の中央にそびえ立つ、大聖堂。


アノンノアの有機的な天蓋とは対照的に――

それらの堂々とした建築物は、国の硬直した思想と、

人々の心を閉じ込める《静寂》の重さを、そのまま体現しているかのようだった。



通商奉都の『白環門』に到着すると――

カシアン・ド・ジヴレクールが、立っていた。


奏真と――目が合う。


一瞬の、沈黙。


そして――


カシアンが、わずかに頷いた。


その顔には、潜入作戦の緊張と――

未来への決意が混じり合った疲労の色が、濃く浮かんでいた。


だが、その眼差しは鋭く、

底知れぬ決意を宿している。


(カシアン――)


奏真は、胸の内で呟く。


通商奉都区監補であるカシアンは――

自らの権限を最大限に利用し、衛士庁の厳重なチェックを巧みにクリアした。


偽装された理奈の身分も、彼の巧妙な手回しによって難なく通過する。


門をくぐる際、衛士の視線が理奈のピアスを一瞬捉えた。


だが――


カシアンが、その視線を静かに制した。


その瞬間、理奈は悟った。


この男がどれほどの危険を冒し、

どれほどの重圧を背負っているかを――


改めて、深く理解した。


そして――


自分たちもまた、

その重圧を共に担う覚悟を、


静かに、


固めた。

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