第三部『聖アージェンティウム共和国 ― 白環の響解 ―』:第一章「潜流の都-蠢く予感-」:一
アノンノアの天蓋の下――
風は常に、柔らかな音を奏でていた。
魂が自由に形を変え、世界と響き合う――
生命の旋律。
奏真は、自身のカリンバが――
その調律の助力をしていると、日々深く実感していた。
だが、その穏やかさの裏で――
かつて彼を縛った《静寂》の鎖。
聖アージェンティウム共和国の冷たい影が、
薄氷のように、心の底に残っている。
◆
煉鱗皇国での大いなる使命を終え――
アノンノアに戻った奏真は、
カシアンから送られてきた暗号に満ちたメッセージの意味を、
深く考えていた。
〈奏真。君の調律は、新たな世界を拓いた。だが、凍てついた静寂の奥底で、忘れ去られた旋律が息を潜めている。その響きを再びこの地へ届けるため、天蓋の光を映す鏡を求む。凍土に蒔かれた種が芽吹くには、幾千の雫が必要なれば、汝の許しを請う――〉
奏真は、その難解なメッセージを解き明かそうとしていた。
理奈、そして信頼を置く律紀――
三人で、何度も読み返した。
言葉の裏に隠された、カシアンの切迫した願い。
それを読み取ろうと、三人の知恵と経験を結集させた。
◆
「《凍てついた静寂の奥底》……」
理奈が呟く。
指で、画面をなぞる。
「奏真が囚われていた、あの国のこと以外に考えられないわ」
その表情は、謎を解く科学者の鋭さに満ちている。
一呼吸。
「《忘れ去られた旋律》は――
共和国で抑圧されている人々の感情、
そして奏真の音楽そのものを指しているのでしょう」
律紀が深く頷いた。
「《天蓋の光を映す鏡》とは、我々アノンノアの持つ情報――
すなわち《真の調律》の理念と、自由な世界の姿」
その声は、確信に満ちている。
「そして《幾千の雫》とは、その情報を届けるための媒体」
律紀の視線が、二人を見渡す。
「つまり、小型〈見窓志盤〉の大量供給を求めていると見るべきだ」
奏真は、カリンバを優しく撫でた。
彼の瞳には、カシアンの苦悩が映し出される。
そして、共和国の友や人々の無音が。
「カシアンは――
俺の音楽、そしてアノンノアの知を」
拳が、握りしめられる。
「共和国の民に届ける手段を求めているんだ……」
三人の視線が――交わった。
そして、同時に頷く。
答えが、見えた。
カシアンが求めているのは――
奏真の音楽と、共和国の固く閉ざされた情報統制を打ち破るための《鏡》。
すなわち、小型〈見窓志盤〉の大量供給。
「これですね」
律紀が、静かに告げた。
◆
この重大な結論は、直ちに――
アノンノア機構の〈公開掲示板〉へ、議題として上げられた。
アノンノアの未来、そして理念の行く末を左右する――
重大な議論の始まりだった。
〈議題:聖アージェンティウム共和国への介入是非/小型〈見窓志盤〉援助〉
掲示板に、次々と意見が投稿される。
〈[慎重]「国家としての介入は不可。共和国の厳重な監視体制下で、市民の安全確保は困難。情報援助も個人行動扱いに限定すべきである」〉
〈[賛成]「弾圧下の市民に届くのは、光を映す《窓》だけだ。その窓は武器ではない、絶望と希望を繋ぐ《橋》となる!」〉
〈[現場]「受け側の安全確保(受領→隠匿→再配布)を設計し、確実に機能する見込みが立ってからでも遅くはない。まずは実現可能性の検討を」〉
賛成票と慎重票が――拮抗する。
画面上の数字が、刻一刻と変動していく。
志行邦民たちによる議論は、白熱した。
共和国の厳重な監視体制、そして《静寂=善》という絶対的な教義――
それらは、アノンノアの《調律=調和》の思想と真っ向から対立する。
軽率な介入は、全面戦争に発展しかねない。
慎重論が多数を占めた。
掲示板は、激しい意見の応酬で溢れていた。
◆
「しかし――」
理奈が、〈公開掲示板〉に意見を投稿する。
〈カシアンは奏真の命を救った恩人です〉
その言葉には、論理だけでなく――
恩義と人道的な感情が込められている。
〈そして、彼が求めるのは、共和国の人々を真の《調和》へと導く手助けだ〉
〈私たちの思想と技術が、今こそ必要とされています〉
理奈の指が、〈志盤〉を撫でる。
〈無音に閉じ込められた魂を見捨てるわけにはいきません!〉
◆
議論が続く。
賛成、慎重、反対――
様々な意見が交錯する。
そして――
可決ラインを越えた瞬間。
投票バーが、静かに満ちた。
熱烈な議論の末、アノンノアの意志が固まったのだ。
それは、全面的な武力介入ではなく――
あくまで《知と調和の理念》を広めるという、
アノンノアの信念に基づいた、ぎりぎりの選択だった。
だが――
決定には、まだ何かが足りなかった。
邦民の心を動かす、最後の一押しが。
◆
そして、奏真自身もまた――
〈公開掲示板〉を通じて、自らの決意を表明した。
〈俺が旧アルマティア協商連邦や煉鱗皇国で、そしてアノンノアで学んだことは、個の魂の音が世界を変えうるということでした〉
〈それぞれの魂には、自分だけの音がある〉
〈聖アージェンティウム共和国の人々も、きっと自分だけの音を持っている〉
〈それを、取り戻す手助けをしたい〉
〈カシアンは俺を救ってくれた〉
〈今度は俺が、彼と、共和国の人々を救う番だ〉
カシアンへの恩義、そして人々を救うという奏真自身の決意――
その表明が、アノンノアの総意を固める最後の一押しとなった。




