第二部『煉鱗皇国 ― 咆哮と調律 ―』:第一章「昏睡の都-瘴霞の兆し-」:終
魔窟孔からの帰還――
それから、数日。
ホヒトの身体には――
いまだ、瘴霞の痕が残っていた。
紅い鱗の隙間から――
醜い斑点が、広がっている。
呼吸器は瘴霞の残滓に侵され――
深い咳が、止まらない。
「ゴホッ……ゴホッ……」
玉座に座したまま――
ホヒトは、咳き込む。
だが。
肉体的な苦痛よりも――
彼の心を深く苛んだのは、
初めて味わう《無力感》だった。
痛みに抗えない、この身体。
それよりも――
武の道が、見えぬこと。
それこそが――
ホヒトにとっての、
真の苦痛だった。
その時――
扉が、静かに開いた。
足音が――控えめに近づいてくる。
「失礼いたします」
施薬院長で宮廷医官のセイラン。
彼女は、深く一礼すると――
手短に、所見を述べた。
「陛下」
その声は、静かだが――確かだった。
「瘴圧の高い場への出入りは――
当面、ご禁足を」
一呼吸。
「呼吸は鼻式を守り――
澄しの茶で喉を潤してください」
セイランは、再び深く頭を下げる。
「――ご自愛あれ」
礼を重ねて――
彼女の足音が、遠のいていく。
やがて――
玉座の間は、再び静寂に沈んだ。
ホヒトは――
手のひらを、広げた。
その掌に――
奇妙な色の斑点が、浮かんでいる。
触れれば――わずかに、痛む。
これが――
自らが冒された、証。
絶対の武力を誇る龍帝が――
触れられぬ《毒》の前には、
赤子同然であった、証。
《ご自愛あれ》
セイランの言葉が――
ひどく虚しく、響く。
(自愛……?)
ホヒトは、拳を握りしめる。
(私一人が無事でも――)
(民が、苦しんでいるのに)
強大な力を持つ、王。
だが――
守るべき民の苦痛を前に、
ただ見ていることしか、
できない。
その時――
遠くから、音が聞こえてきた。
カン――カン――
鉄を打つ音。
耳を澄ませば――
はるか中庭の訓練場から、
斧が空を裂く音が、
微かに届いている。
ガザンだ。
今日も、隊を回しているのだろう。
カン――カン――
強く在れ、と。
鉄を打ち鳴らす音。
その音が――
ホヒトの胸を、
鋭く、
抉った。
(強さ――)
拳が、握りしめられる。
(それだけでは――届かぬものがある)
(だが)
(この無力感を――私は、どうすれば)
その焦燥は――
誇り高き彼の魂を、
深く、
抉り取っていた。
◆
数日後――
玉座の間。
ホヒトは――
深々と、頭を垂れていた。
病の気配は、未だ残っている。
だが――
それよりも重いのは、
心の痛みだった。
「……我が武では」
ホヒトの声が――
低く、響く。
「民一人すら――救えぬのか」
その声は――
絞り出すような、
苦悶に満ちていた。
◆
しばしののち――
扉が開き、
ビャクロク、そしてフシルが、
謁見に訪れた。
「龍帝陛下」
ビャクロクは――
深々と頭を下げた。
「ガザンは――」
一呼吸。
「なおも武力による再突入を、主張しております」
ホヒトの目が――細められる。
「しかし」
ビャクロクの声が――
わずかに、震える。
「この瘴霞は――」
一呼吸。
「もはや武では、如何ともし難いことは」
彼の視線が、ホヒトを見据える。
「陛下ご自身が――
身をもって、ご存知かと存じます」
ホヒトは――沈黙した。
ガザンの言葉。
それは――
これまでの彼自身の、
信念そのものだった。
だが――
あの魔窟孔の奥で。
彼の信念は――
打ち砕かれた。
◆
「陛下」
フシルが――静かに、口を開いた。
「この未曾有の災禍を鎮めるためには――」
一呼吸。
「外部の、武とは異なる《力》が、必要かと存じます」
ホヒトの目が――鋭く光る。
「それは――」
フシルは、続けた。
「この皇国が育んできた武とは異なる」
一呼吸。
「生態系の摂理、
あるいは魔物質の根源を解き明かす――」
「新たな《知》の範疇にある、と」
ホヒトの目が――
怒りに、燃えた。
「誇りを捨てろというのか!」
その声が、玉座の間に響く。
「煉鱗皇国が――」
拳が、玉座の肘掛けを叩く。
「他国に助けを請うなど――
武の道に背く行為ではないか!」
「されど」
ビャクロクの声が――
静かに、しかし確かに響いた。
その声には――
珍しく、強い響きがある。
「民が失われては――」
一呼吸。
「その誇りも、道も――
意味を為しません」
ビャクロクの脳裏には――
すでに、アノンノアの存在があった。
「アノンノア邦――」
その名を、口にする。
「先のアルマティア協商連邦の危機を救ったのは」
一呼吸。
「彼らの《調律》という――
武ではない、新たな力であったと」
ホヒトの顔が――歪む。
「戯言を……」
吐き捨てるような、声。
「剣も持たぬ――」
その声には――
蔑みが、滲んでいた。
「歌うだけの者どもに――
何ができるというのだ」
その言葉には――
蔑みと。
そして――
自分には理解できない、
異質なものへの、
根強い拒絶が、
込められていた。
「陛下」
ビャクロクは――
懐から、〈見窓志盤〉を取り出した。
その手が――わずかに、震えている。
「言葉では――信じられぬでしょう」
ビャクロクの声が、静かに響く。
「ですが」
一呼吸。
「百聞は――一見に如かず」
その〈見窓志盤〉を、ホヒトへと差し出す。
「この映像を――どうか」
ホヒトは――
それを、睨みつけた。
(剣も持たぬ者の――何を見ろというのだ)
屈辱。
怒り。
そして――拒絶。
だが。
ビャクロクの真剣な眼差しが――
その拒絶を、押しとどめる。
ホヒトは――
ためらいがちに、
それを受け取った。
画面が――光を放つ。
映し出されたのは――
光と音に満ちた、円形議場。
そして――
壇上に立つ、一人の若者。
その手には――
小さな、楽器。
カリンバ。
(これが……調律師?)
ホヒトの目が――細められる。
若者が――奏で始めた。
最初――ホヒトの眼差しは、侮蔑に満ちていた。
(剣も魔法も持たぬ者が――)
(この世界で、何ができるというのだ)
だが。
若者が奏でる音色が――
議場に響き渡った瞬間。
ホヒトの表情が――凍りついた。
画面の中で――
議員たちの顔が、苦痛に歪む。
傍聴席から、嗚咽が漏れる。
(なに……これは)
ホヒトの目が――見開かれる。
音が――
人の心を、
直接、
揺さぶっている。
それは――
剣による支配でも。
魔法による制圧でもない。
魂そのものに――
響く、何かだった。
そして――
絶望の底から、
一つの旋律が立ち上がる。
『協和のフーガ』の主題。
画面の中の人々が――
その旋律を、口ずさみ始める。
一人。
また一人。
声が――重なっていく。
ホヒトは――息を呑んだ。
(これが――調律……?)
武力による支配とは、
全く異なる。
人々の魂が――
共鳴し、
共振し、
一つになっていく。
天秤が――砕かれる。
新しい秩序が――生まれる。
その瞬間を――
ホヒトは、
ただ、
見つめていた。
映像が――終わった。
画面が、暗転する。
玉座の間には――
深い、沈黙が訪れた。
ホヒトは〈見窓志盤〉を握りしめ――
目を、閉じた。
(武では――解けぬ)
(武では――届かぬ場所に)
(あの音は――届いた)
戦士としての誇り――
他者に頭を下げることなど、
龍帝の血が、許すはずがない。
だが――
王としての責務――
民を護るためには、
あらゆる手段を尽くすべきだ。
その二つの天秤が――
ホヒトの心の中で、
激しく、
揺れ動いた。
どれほどの時間が、過ぎたか。
やがて――
ホヒトは、ゆっくりと顔を上げた。
その眼差しには――
苦悩の色は、もうない。
代わりに――
冷徹な王としての、
決意が、
宿っていた。
「……ビャクロクよ」
その声は――低く、重い。
「はっ」
ビャクロクが、一歩前に出る。
ホヒトは――
一度、深く息を吸った。
そして――
「アノンノアの『調律師』――」
一呼吸。
「槻沢奏真なる者に――」
拳が、握りしめられる。
「伝令を、送れ」
その声には――
深い苦渋と。
しかし――
揺るぎない覚悟が、
込められていた。
ホヒトは――
立ち上がった。
「煉鱗皇国は――」
その全身から、龍帝たる威厳が迸る。
「そやつに――」
一拍の、沈黙。
そして――
「援助を、要請する」
民を救うという《王の責任》が――
個人の《戦士の誇り》を、
ついに、
上回った瞬間だった。
その胸中には――
未だ抗いがたい屈辱と、
新たな希望へのわずかな光が、
複雑に、
渦巻いていた。




