第零部『亡命者』:第二章「万華鏡の都-歪んだ光彩-」
道は、乾いていた。
昼の熱が石の皿に残るように、靴底にぬるい温度がまとわりつく。
砂埃が、風に舞う。
ここは、もう共和国ではない。
数時間、無言で歩いた頃――
背後で、馬車のブレーキが砂を噛む音がした。
「……おや」
声が、背後からかかった。
「共和国の特使様が徒歩だなんて。何かアクシデントでも?」
振り返ると、そこには一人の男がいた。
肥えすぎても痩せすぎてもいない、中庸を商売にしたような中年。
上等な布だが、目立たない色の上衣。
笑うと、頬より先に目尻が折れる。
商人――ひと目でそれと分かる雰囲気だった。
「特使では――」
否定しかけた俺に、男は片手を上げて、先に頭を下げた。
「これは失礼。名乗りが先でしたね」
その動作は、計算されているようで、しかし自然だった。
「マルコ・ベザン。協連はオリエンティア邦の、オリエンティア商会に籍を置く一介の商人でして、共和国とは長らくお取引を――
それにしてもお召し物、『白天族』の近侍の式服に似て……ただ、袖口の縁取りと針目が違う。珍しい仕立てで、つい」
(着せられた服は、やはり目立つのか)
俺は覚悟を決めた。
「少々、所用で。この国の距離を、我が足で測ってみたくて――どうやら失敗でしたけど」
マルコは声を立てて笑い、馬車の扉を開けた。
「面白い! ささ、どうぞお乗りください。オリエンティアの拠点へ向かうところです。いやはや、これは良い取引の匂いがしますな」
◆
馬車が動き出すと、マルコは窓越しに景色を指さした。
「協連では――」
彼は、何かを選ぶように言葉を探した。
「『イリム』が空気で、『衡位』が天気、とでも言いますかね」
一呼吸置いて、彼は笑った。
「息をするにも、相場が要るんです」
「イリム?」
俺は、聞き慣れない言葉を繰り返した。
「こちらの法貨ですよ」
マルコは懐から、銀貨を取り出して見せた。
「財布の中身の重さで、人の口数まで変わる」
その言葉の意味を測りかねていると――
俺は、カシアンとの問答を思い出した。
あの時、俺は何を語った?
『製品』ではなく『作品』を作りたい。
人の心を震わせる、たった一つのものを。
「……共和国では、すべてが『製品』なんです」
俺は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「厳格に管理された社会で、決められた物を、決められた通りに作る。
誰かの心が動く瞬間を見ることは、ない」
マルコが、じっと聞いている。
「でも、ここは違う。多様な人々が、知識を交換している。
なら――誰かが心から欲しがる『作品』を、生み出せる場所があるんじゃないか」
俺は、マルコの目を見た。
「そういう場所を、探してるんです」
マルコは、満足げに頷いた。
「なるほど。あなたは『規格品』より『逸品』に値をつける人だ」
彼の目が、商人の光を帯びた。
「なら――アカデミアへ行かれるのでは?」
「どことは決めていませんでしたが、そんな場所が?」
「ええ、学術都市がある。ただし入学には資格が要る。共和国民となると、まずは連衡都市リベルタで特別許可を」
「……私でも、取れますか」
「行ってみないとなんとも。ですが、ちょうど私もリベルタへ行くついでがある。『連邦渉外局』に顔が利きます。役人を一人、紹介しましょう」
オリエンティアの関所前で、マルコが小声で囁く。
「『通行手形』は?」
「ありません」
「なら、口利きと小銭で早く出す方法がある。正規より安い。どうします?」
金額を聞いて頷くと、マルコは俺を窓口へ連れて行った。職員は慣れた様子でうなずき、俺の書面に朱を落とす。
『月写インク』――乾く前の赤い液体の中で、微かな銀の粒子が揺らめいていた。
「青紐の協商通行手形です。短期渡航者用の滞在許可証でして、60 日間有効です」
職員は札の見本をみせた。
「この『月写インク』は、月光に晒すことで固着し有効化します。関所の通過は明朝以降に」
マルコが笑う。
「今日は近くで休みましょう。今夜の月に手形を当てればいい」
その夜、宿の窓辺で手形を月明かりにかざす。
朱が内側から淡く発光し、数字が浮彫のように固まった。
共和国では霊法を制御するために浴びた光が、この国では金で買った仮初の自由を保証する光になる。
場所が変われば、光の意味も変わるのだと、俺は知った。
翌朝、関所はあっさり通れた。数時間後、オリエンティア商会のある街に着く。
「用事を済ませたら、リベルタへ向かいます。少々、お待ちを」
◆
連衡都市リベルタは――光で、できていた。
いや、正確には違う。
皇国由来の魔法金属――『漆鋼』。
それを極薄に延ばした魔力の導線が、石畳の下で静かに脈打っている。
その鼓動が、広場の『衡鏡柱』を点灯させる。
導線に噛ませた共鳴板で数式を光へ変える、表示柱。
街の皮膚に、数値という光が走っていた。
広場の一基が、息をするように瞬いた。
白字が浮かぶ。
〈衡位速報:アカデミア +0.03/ヴィリディア -0.02〉
その瞬間――
露店の粉屋が、黒板の値札を一段、上へ滑らせた。
客が、舌打ちする。
粉屋は、柱を顎で示した。
「天気が変わったのさ。文句は空――いや、『連衡』へどうぞ」
俺は、その光景に目を奪われていた。
(数字が、街を動かしている)
マルコに案内され、俺たちは街の中枢――『連衡執行院』へと向かった。
『連衡執行院』の玄関は、無駄がない。
受付の職員が俺の手形を裏返し、薄青い光で検める。
「『連邦渉外局』 次長のユリス・フロイン様がお待ちです」
応接室。
窓辺に立つ男は、丁寧な笑みを口に乗せて――
目には、何も乗せない。
「遠方より、ようこそ」
その声は、滑らかだった。
「ユリス・フロインです」
「槻沢奏真と申します」
ユリスは、俺を一瞥した。
値踏みするような、しかし表面上は礼儀正しい視線。
「聖アージェンティウム共和国」
彼は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「見事な箱庭ですな」
言葉は褒めているのに――
机上の天秤が、わずかに鳴ったような気がした。
「『霊窟孔』という唯一無二の資産で、自給が完結する。
不足がないのは、幸福だ」
一呼吸置いて、彼は続けた。
「こちらは毎日、泥にまみれて『イリム』を稼ぐ。
……自由は、少々コストがかかる」
その言葉の裏に、何かがある。
俺は、それを感じとった。
「国籍の付与は現実的ではない。外交収支が乱れる。ですが―― ”特別履修“ なら、話は別です」
ユリスは二本の指を立てる。
「提案を二つ。
一、貴国の『霊墨』の安全性試験を我々と共同で行う。対価はアカデミア特別履修・半年。
二、共和国の工房作業工程の公開版を入手し、『規格局』に提出。対価は居住許可と就学紹介状。
いずれも合法です。――線引きはこちらでしますがね」
(――どちらにせよ、俺にできるはずもない条件だった)
「考える時間を、ください」
「ええ。『衡位』は急ぎますが、返答は急ぎません」
部屋の壁の向こうで、また微光が走った。
街のどこかで、価格が新しい位置に落ち着く音。
執行院を出ると、マルコが肩をすくめた。
「瓶をどれにするかは急がなくていい。ただ、呼吸は止めないことだ」
「協連を見てから決めたい。仕組みの全体を」
「なら、ひとつ回り道だ。ここから南西にある『アノンノア』。元は南縁協商圏の特区で、『情報に値札をつけない』って噂の風変わりな連中だ。評判は割れているが、活気は本物。見る価値はある」
新天地は、自分の足で探すしかない。俺は頷いた。
「……行ってみようと思います」
マルコは地図を指ですべらせる。
「内陸を直進するのは素人の道筋だ。西のポルトゥリアに抜けて、海沿いを南下するのがいちばん速くて安全――閘門と保全隊の目が届く。
ちょうど俺もポルトゥリアに商談がある。そこまで乗せていこう」
俺はその提案を受け入れた。
◆
カナリュシア邦の運河沿いの街で、マルコが俺の服を値踏みする。
「その縫取りは金に見える。港で金は匂いだ。狙われる。これにしな」
渡されたのは、連衡式の地味な旅装。腰の内側に手形用の隠し袋が縫い付けられている。俺は素直に着替えた。
旅装の内側で、手形が冷たく触れた。
(盗人避けの縫い代は、ここでは常識らしい)
『魔動船』は、術者が後部の舵輪に手を置くと微かに震え、スクリューが水を噛んだ。
運河の岸壁には『漆鋼』の網が編み込まれ、閘門が滑らかに上下する。
(魔法がインフラに縫い込まれている。共和国では見られない光景だ)
ポルトゥリアに着いた瞬間は――
潮の匂いが、悪くなかった。
海が近い。
港の活気。
遠くで鳴る船の汽笛。
路地を覗くまでは――
壁にもたれる、中毒者。
虚ろな目。震える手。
少し先では、無表情で立つ少女。
視線だけが、値札のようだ。
俺は、思わず足を止めた。
肩が、不意にぶつかる。
腰に伸びる指――
だが、隠し袋の縫い目は、沈黙を守った。
思わず顔をしかめると、マルコが苦笑した。
「最近、ヴィリディアの農民が避難してきているらしくね」
彼の声は、低かった。
「薬に逃げる者も、流れ者も増えた」
俺は、黙って聞いていた。
「もし女を買うなら、組合に金を払ってる公認の店にしな。質も安全も、保証付き」
マルコは、肩をすくめた。
「……これも、この街の立派な経済活動だ」
(経済活動)
俺の胸に、疑問が渦巻いた。
(どこまでが数字で、どこからが悲鳴だ?)
ちょうどその時、造船所の『衡鏡柱』が一度瞬いた。
運賃表の札が職員の手で一段、上に掛け替えられる。
「はい、今から南行きは +1 イリムだよ」
並んでいた労働者が短く舌打ちした。パン屋は量り皿から一切れ外す。
(数字が、腹に届く)
マルコは宿を手配し、地図の上で指を走らせる。
「次はアルティフィキア。『魔動車』が早い。ここから先は工場の匂いだ。気をつけろ」
言いかけて、彼は懐から小袋を取り出した。
「『イリム』を少し。貸しってことで。受け取ったら、袋の紐を一結びしてくれ。俺が二結び、もし再会できたら、あんたが三結びしてから解く――連衡商人の縁結びだ。悪くないだろ?」
「ありがとう、マルコ」
「礼はいらん。だが、いつかあんたが創る『作品』で一儲けさせてくれ。それが最高の礼だ」
彼と別れ、俺は宿の机にカリンバを置いた。
道中で歪んだ鍵板の一部を外し、慎重に調律する。
指先で軽く弾くと、澄んだ音が部屋に響きシラベが微かに羽音を立てた。
久しぶりに聴く相棒の歌声が、期待と不安のざわめきを柔らかな羽根でそっと撫でていった。
◆
翌朝、労働者向けの乗合『魔動車』でアルティフィキア邦へ向かった。
車内では、ヴィリディア邦から逃れてきたらしい人々が、貴族の買い叩きと前借清算の罠を、力なく語っていた。
アルティフィキア。
街に入った瞬間、音の密度が変わる。
共和国の工匠奉都が《静かな圧政》なら、ここは《騒がしい圧政》だ。
警笛、歯車列の唸り、金槌の乾いた打撃音。
空気が金属を飲み込み吐き出すたび、肺の内側がざらついた。
宿を取り、その裏庭でカリンバに最終調整を施す。
歪んだ鍵板を、慎重にはめ直す。
最後のひと締めを終えた――
その時だった。
「それ……」
不意の声。
俺は、手を止めた。
「初めて見る構造ね。楽器?」
振り向くと、そこには若い女性がいた。
煤で頬に三日月を描いたような、職人の顔。
両手は細いのに、何かを握る癖が染みついている。
彼女は、俺の掌の上のカリンバを覗き込んでいた。
その瞳には――好奇心が、輝いていた。
「綾織 理奈」
彼女は、名乗った。
「機巧工房の、徒弟よ」
その瞳は、俺の小さな楽器に――
まるで星を見たみたいに、輝いていた。
俺は、答えの代わりに――
そっと、カリンバを構えた。
呼吸を整える。
そして、奏でた――
工場の騒音の隙間を縫うように、
澄んだ音色が紡がれていく。
それは――
故郷の森の、息詰まるほどの静寂。
旅で知った街の、心をかき乱す喧騒。
その二つの両極を、一本の細い旋律が渡っていく。
友と交わした約束の温もりだけを、道しるべにして――
理奈は、ただ黙って聴き入っていた。
その表情から、諦めの色が――
少しずつ、洗い流されていくのが分かった。
工場の騒音が、遠くなる。
今、ここには、音楽だけがある。
演奏を終えると――
しばらく、沈黙が続いた。
理奈の目が、潤んでいた。
「……なんで」
彼女は、自分の頬に触れた。
指先が、濡れている。
「なんで、泣いてるんだろう。私」
戸惑ったような、でも少し笑っているような表情。
「悲しくないのに。むしろ――」
言葉を探すように、空を見上げた。
「初めて、何かが完成した時の歯車が、ぴったり噛み合った時みたい」
理奈が、もう一度カリンバを見た。
今度は、別の光が瞳に宿っている。
「ねえ、さっき見えた宝石みたいな球――
あれが、この『音楽』を作ってるの?」
感動から、好奇心へ。
それが、彼女の本質なのだろう。
俺は、微笑んだ。
「『霊珠』。霊法の媒体だよ。触ると危ないから、見るだけ」
掌の上で転がして見せると、理奈は目を丸くした。
「霊法の部品なんて資料でしか知らない……」
彼女は、カリンバに宿る不思議な力と、その音色に心を奪われたように、ぽつりぽつりと身の上を話し始める。
「契約更新印を押さないと、寮の寝具も出ないの。前借清算で賃金がゼロに戻るの、もう三度目」
理奈は、諦めの色を押しのけるように笑った。
俺は、彼女の瞳を見つめ返した。
「俺は『作品』を作りたい。誰かの心を震わせる、たった一つの」
理奈の目が、工場灯より少し明るくなる。
「……自分の時間を、自分のものにしたい」
言葉は短いのに、その決意の音に、二人の道が同じ場所へ続いていることが分かった。
俺は、『アノンノア』の噂を口にする。
「そこでは、才能が正しく評価されて、誰もが作れるらしい」
工場の警笛が、遠くで二度、長く鳴った。
理奈は――
荷袋から、契約札を取り出した。
その縁を、指で一周なぞる。
ひと呼吸――
札を、ぱきりと折った。
乾いた音が、夕暮れの空気に響く。
荷紐を、結ぶ――
小さく息を吸って、顔を上げた。
「私も――行く」
逡巡は、三拍で終わった。
新たな一歩の、音がした。
懐の小袋は、底の布が指に触れるほど軽い。
けれど――重さは、別にあった。
選んだ道の、重さだ。
◆
夜。
運転手の詰所で、『魔動車』の南行きの相場を聞く。
二人分。
出立は、明朝。
詰所の小さな『衡鏡柱』が、ひとつ瞬いた。
壁の賃金板の数字が、一桁だけ動く。
その度に、運賃表の札も、わずかに揺れた。
カリンバを抱える俺の隣で、理奈は小さな荷袋の紐を結び直し、背負う。
遠くで、工場の警笛がまた、一度鳴った。
背中を、ひと押しされたような気がした。
◆
万華鏡の都は、光の配分で人を酔わせる。
なら、俺は――
音で目を覚まさせる『作品』を作る。
『イリム』が空気で、『衡位』が天気なら――
魂の『調律』は、自分でやる。




