第二部『煉鱗皇国 ― 咆哮と調律 ―』:第一章「昏睡の都-瘴霞の兆し-」:三
「『人災』、だと……」
ホヒトの声が――
玉座の間を、重く響いた。
その声には――
怒りよりも。
屈辱よりも。
深い、苦悩が滲んでいた。
民を救えなかった――
己の過ちを、
認めざるを得ない。
その事実の重みが――
ホヒトの胸を、
締め付けていた。
しかし。
だからこそ――
龍帝として、
この災禍を、
打ち破らねばならない。
沈黙。
長い、長い沈黙の後――
ホヒトは、立ち上がった。
「……よかろう」
その声は、低く、だが――確かだった。
「過ちを正すのも――王の務め」
一呼吸。
「ならば――」
ホヒトの全身から、龍人族たる威厳が迸る。
「我らが武をもって、この禍根を断つ!」
◆
「ガザン!」
ホヒトの声が、響く。
「精鋭部隊を――編成せよ!」
ガザンが、一歩前に出る。
その顔には――
ようやく、という安堵の色。
武で解決できる。
それこそが、この国の在り方だ。
「御意ッ!」
ガザンの咆哮が、玉座の間を震わせた。
「我が龍人族の精鋭――」
ホヒトは、続ける。
「そして、上級種族の精鋭部隊を率いて――」
一呼吸。
「魔窟孔へと、出陣する!」
「龍帝陛下に――栄光あれ!」
ガザンの全身に――
再び、戦の熱が宿る。
拳が、握りしめられる。
これで――
この災禍を、断てる。
武で。
◆
出陣の報は――
瞬く間に、炎龍城全土を駆け巡った。
憔悴しきっていた民衆の顔に――
再び、希望の光が灯った。
「龍帝陛下が――自ら出陣されるぞ!」
一人の声が、広場に響く。
「陛下ならば――」
別の声が、続く。
「必ずや、この瘴霞の源を打ち砕いてくださる!」
その声は――
瞬く間に、街全体へと広がった。
城門前には――
皇帝の姿を一目見ようと、
数千の民が、集まっていた。
老人も。
子どもも。
病を抱える者すら――
皆が、ホヒトの姿を待っている。
そして――
城門が、開いた。
歓声が――爆発した。
不安を。
恐怖を。
すべてを打ち消すかのような――
熱狂的な、大音量。
「陛下ァァァァ!」
「栄光あれ!」
「勝利を!」
その声が――
天を揺らすほどに、
響き渡った。
先頭を行くのは――
煌びやかな装甲を纏い、巨大な戦斧を携えた、
獅子人族将軍ガザン。
その後ろには――
屈強な獣人族の兵士たち。
そして――
燃え盛るような紅の鱗と、
威厳に満ちた龍人族の精鋭部隊。
その中央に――
龍帝ホヒトが、堂々と立っていた。
民衆が――息を呑む。
紅の鱗が、朝日を受けて輝く。
その姿は――まさに、龍そのもの。
「陛下……!」
誰かが、呟いた。
その声は――
畏怖と、
希望と、
絶対的な信頼に、
満ちていた。
ホヒトの眼差しは――
遠く、魔窟孔の方向を、
まっすぐに見据えている。
(武こそが――この国の全てだ)
ホヒトの胸には――
民を救うという、確固たる決意。
そして――
この危難を武で乗り越えるという、
誇り高き皇族としての、
揺るぎない信念。
それが――
渦巻いていた。
しかし――
魔窟孔の現実が、
彼らの誇りを、
嘲笑うかのように立ちはだかる。
◆
奥深くへと進むにつれ――
空気が、変わった。
重く。
粘りつくように。
瘴霞の濃度が――
外郭の兵士たちが経験してきたレベルを、
はるかに超えている。
「隊列――乱すな!」
ガザンの声が、響く。
だが――
号令から、半拍遅れて盾が上がる。
掛け声と足音が、噛み合わない。
兵士たちの動きが――
明らかに、鈍っていた。
カン――カン――
瘴圧計の針が、計測限界を叩く。
警鐘が――鳴り続ける。
「怯むな――前へ!」
ガザンの咆哮が、瘴霞を裂く。
「禁域は、もう目と鼻の先だ!」
その斧が――弧を描く。
《裂爪斬》――
獅子族に伝わる、必殺の一撃。
これまで、どんな敵をも両断してきた技。
斧が――魔物を捉える。
だが――
手応えが、ない。
瘴霞に蝕まれた体では――
本来の威力の半分も出せなかった。
「なに……!」
ガザンの目が、見開かれる。
そして――
戻りしな。
その巨躯の肩が――
わずかに、沈んだ。
(呼吸が――)
ホヒトは、それを見逃さなかった。
(ガザンの呼吸も――乱れている)
ホヒトは、それを見逃さなかった。
そして――
「グオオオオオッ!」
瘴霞によって凶暴化した魔物が――
群れで、噴き上がった。
これまでなら一撃で倒せたはずの個体が――
斬っても。
斬っても。
止まらない。
視界の端で――
若い龍人兵の指先が、黒く染まっている。
その手が――震えていた。
「がはっ…ぐっ…!」
最前線の熊人族の精鋭が――
片膝をついた。
周囲の呼吸が、乱れる。
行軍列の間が、伸びる。
「全列――密度を保て!」
ガザンが、吠える。
吠えながら――
その視線が、横へ揺れた。
倒れた兵の肩。
浮いた、斑点。
荒い、息。
その一瞬――
ガザン自身の息も、崩れた。
「陛下――これ以上は!」
龍人族の副将が――
ホヒトの盾となりながら、叫んだ。
ホヒトの胸にも――
鋭い鈎が掛かったような違和が、走る。
重い――四肢。
霞む――視界。
鍛え抜いた――この肉体。
秩序を刻んできた――この意志。
数多の敵を、屠ってきた。
だが――
それすらも、
この瘴霞の前では――
何の、
意味も、
なかった。
(このままでは――兵が、死ぬ)
ホヒトの胸に――
一つの想いが、去来する。
(民を護るためには――)
拳が、握りしめられる。
(兵を、生かさねばならない……!)
その一念が――
古い誇りを、押しのけた。
「――撤退する」
ホヒトの声が――
瘴霞の奥へと、響いた。
苦渋に満ちた――
だが、確かな声。
その言葉は――
敗北の号令ではない。
兵を連れ帰るための、決断だった。
だが――
史書は、たしかに――
この日を、
屈辱の撤退と記すだろう。
退路の守りに――ガザンが立った。
その斧が、瘴の霧に白い軌跡を描く。
「退くぞ――遅れるな!」
ガザンの咆哮は――強い。
だが。
ホヒトには、はっきりと聞こえた。
その奥に沈む――
短く、重い、逡巡が。
(武で――勝てなかった)
ガザンの胸に――
初めて、
確かな疑問が、
芽生え始めていた。
最強を誇る龍帝と精鋭部隊は――
魔窟孔の中心に、
たどり着くことすら、
叶わなかった。
瘴症 第三段 に近い重い症状を抱え、
血と瘴霞に塗れながら――
彼らは、
炎龍城へと、
戻っていった。
◆
城に戻る列は――静かだった。
勝鬨は、ない。
鎧の鎖が――
しゃらり、しゃらりと擦れる音だけが、
石畳に響く。
門楼の上では――
旗が、風を失い、
布の重みで、垂れている。
迎える民は――口を噤んだ。
ある者は――
額に手を当て、俯く。
ある者は――
子の手を、きつく抱きしめる。
ある者は――
ただ、立ち尽くしている。
誰も――声を出さない。
出せない。
「陛下……」
小さな、か細い声。
それは――
期待ではなく。
歓喜でもなく。
ただ――
悲しみと、
絶望に、
満ちていた。
あれほど熱狂的だった歓声は――
もう、どこにもなかった。
代わりに――
重い、沈黙だけが、
この都を、
覆っていた。
ホヒトは――歩みを止めない。
胸中で言葉が燃え、
灰になり、
残るのは――
責の熱だけだった。
(刃は――いまは届かぬ)
(だが)
(私の務めは――届かせることだ)
(たとえ、その手段が――)
(武に非ずとも)
一歩、また一歩。
その足は――決して、止まらない。
夜――
玉座の間に、ひとり残る。
鱗の隙間から漏れる疲労の痛み。
それは――さほど問題ではない。
問題は――
絶対的な《武》が、
初めて、そして完全に、
その有効な手立てを、
見失った――
その、事実だ。
ホヒトは――
玉座の肘掛けを、握りしめた。
(私は――龍帝だ)
(民を、守らねばならない)
だが――
武では、守れなかった。
その現実が――
ホヒトの胸を、
鋭く、
抉っていた。
長い――
長い沈黙の後。
ホヒトは――
重い口を、開いた。
「……知を、借りる」
その声は――
誰に向けたともなく。
だが――
確かな、決意を帯びていた。
「次は――」
拳が、震える。
一呼吸。
そして――
「必ず、勝つ」
その声が――
少しだけ、強くなる。
「そして――」
もう一度、深く息を吸う。
「民を、守り切る」
その呟きは――
石壁に吸い込まれ、
やがて――
静かな、
決意へと、
変わった。




