第二部『煉鱗皇国 ― 咆哮と調律 ―』:第一章「昏睡の都-瘴霞の兆し-」:二
宣導省が『隣国の卑劣な毒物攻撃』説を流布し、厳戒態勢を敷いたところで、事態は悪化の一途を辿った。
その情報統制は、民衆の不安を一時的に抑えるどころか、疑心暗鬼を増幅させる結果に終わった。
ガンド村を起点に、瘴症は周囲の村落へと津波のように広がっていった。
最初は――誰もが、ただの霞風邪だと思っていた。
だが。
第一段 で治まるはずの症状が、悪化し続ける。
皮膚に斑点が浮かぶ 第二段 へ。
そして――肉や骨まで侵される 第三段 へ。
動けないまま床に伏す者が、日ごとに増えていった。
◆
魔窟孔から最も近い都市、『炎嶺』。
その『施薬院』は――
もはや、地獄だった。
「もうベッドが足りません!」
施薬院長で宮廷医官のセイランが、切迫状況の報を上げる。
搬送台の間に筵が敷かれ――
その上にも、人が横たわる。
廊下にまで、呻き声が溢れている。
「自然回復以外に有効な処置は見出せず――」
セイランの声が、震える。
「医療者も、次々と倒れています」
彼は、拳を握りしめた。
「井戸毒、呪詛、共和国の呪い――
デマが拡散し、近隣では社会的パニックが発生中です!」
◆
炎龍城でも、その報せは連日『皇龍府』を駆け巡っていた。
「報告! 炎嶺での発症者、昨日比で二割増し!」
伝令の声が、響く。
「新たに三つの村で、瘴症 第二段 を確認!」
また別の伝令が、駆け込んでくる。
「井戸毒、呪詛、あるいは共和国の呪い――
デマが止まりません!」
報告は、途切れることがない。
「宣導省による統制も――限界に近づいております!」
皇龍府の担当官たちは蒼白な顔で報告を上げる。
だが――
ホヒトからの《武による秩序の回復》という指示は、
この見えない敵には全く通用しなかった。
強権的な統治は、情報混乱を収拾するどころか――
人々の不安をより深く社会に根付かせ、
疲弊させていった。
玉座に座す龍帝ホヒトの顔には、苛立ちと、僅かながら戸惑いの色が浮かび始めていた。
絶対的な武力で全てを統治してきた彼にとって、
この目に見えぬ《病》は――
理解の及ばぬ敵だった。
剣で斬れない。
拳で殴れない。
威圧で屈服させることも、できない。
ホヒトの手が――
玉座の肘掛けを、強く握りしめる。
鍛え上げられた、この腕。
数多の敵を屠ってきた、この力。
それが――
今、何の役にも立たない。
ホヒトは――
生まれて初めて、
《武》の限界を、
その身に、
痛いほど、
感じていた。
長い沈黙の後――
ホヒトは、重い口を開いた。
「…無為に時を過ごすわけにはいかぬ」
その声には――
かすかな、苦渋が滲んでいた。
深い思案の末、ホヒトは重臣たち、特に狐人族の参謀、ビャクロクに目を向けた。
「ビャクロクよ」
一呼吸。
「かの梟人族の賢者に――今一度、伝令を送れ」
ビャクロクが――息を呑んだ。
梟人族――
ビャクロクは一歩進み出ると、恭しく頭を垂れた。
「御意。しかし、帝よ……」
言葉を選ぶように、一呼吸。
「彼らは永らく皇国の政に関わらず、中立を保ってきました」
彼の声が、わずかに震える。
「彼らを動かすのは――容易では」
「承知しておる」
ホヒトの声が――静かに、しかし確かに響いた。
その声には――
かすかな、苦渋が滲んでいる。
「武で解けぬ難題――」
拳が、玉座の肘掛けを握る。
「知恵を借りる他に、手はない」
一呼吸。
「我らが驕りを――捨てねばならぬ」
その言葉は、重かった。
「たとえ、深き山奥の賢者に――」
ホヒトの目が、遠くを見る。
「この頭を下げることになろうとも」
一拍の、沈黙。
「民の苦痛を――座して見ているわけには、いかぬ」
誇り高き龍帝が――
自らの治世において初めて、
武力以外の《知》に、
頼ろうとする瞬間だった。
それは――
煉鱗皇国の歴史において、
極めて異例の、
決断だった。
◆
数日後――
玉座の間に、異質な空気が流れ込んだ。
深い森の香り。
湿った苔の匂い。
そして――静寂。
扉が開き――
一人の梟人族が、姿を現した。
フシル。
深い森に住まう、賢者の長。
年老いた外見とは裏腹に、その歩みは確かで――
炎龍城の喧騒にも、玉座の威圧にも、動じる様子はない。
長い沈黙を守ってきた森の民が、
ついに、この武の都に足を踏み入れたのだ。
ホヒトは、深く息を吸い――彼を迎え入れた。
玉座の間には――
ガザンを始めとする武闘派の将軍たち。
そして、狐人族の参謀ビャクロクも列席していた。
皆、緊張した面持ちで――
この稀有な来訪者を、見つめている。
沈黙が――玉座の間を満たす。
誰もが、フシルの言葉を待っていた。
外敵の正体。
毒の出処。
そして――反撃の方法を。
やがて――
フシルが、口を開いた。
「帝よ」
その声は、静かだった。
だが――
その静けさが、かえって重みを帯びている。
「魔窟孔中央部に――」
一呼吸。
「特異な変化が、認められました」
ガザンが、身を乗り出す。
「やはり――外敵の仕業か!」
だが。
フシルは――静かに、首を振った。
「いえ」
その一言が――
玉座の間の空気を、凍らせた。
「魔窟孔の中心、通常は立ち入り禁止区域に指定されている『禁域』で、『魔喰杉』の異常な成長が確認されました」
フシルは――
懐から、慎重に小さな瓶を取り出した。
厚い硝子の中で――
銀光沢を帯びた漆黒の粉が、
まるで生きているかのように、揺らめいている。
「これが――」
フシルの声が、低く響く。
「魔喰杉が放出する『瘴霞』です」
瓶を、わずかに傾ける。
粉が――水のように、流れる。
だが。
空気に触れた瞬間――
その色が、変わった。
銀漆黒から――銀灰色へ。
重い液体が、軽い霧へと姿を変え、
ゆらゆらと、空間を漂い始める。
美しい――
だが、その美しさは、
死を纏った、不吉な輝きだった。
「触れれば、皮膚がざらつく。吸えば、喉が焼ける」
フシルの声が、低く響く。
「そして――体内に蓄積されていく」
一呼吸。
「これが今、魔窟孔から――
風に乗って、村々へと流れ込んでいるのです」
沈黙。
誰もが――
その銀灰色の霧を、見つめている。
「魔喰杉だと……?」
ガザンが――低く、唸るような声で言った。
「あの魔力を喰らう異形の樹が――なぜ、今」
不快げに、顔を歪める。
フシルは――
ガザンの言葉に動じることなく、続けた。
「貴国は――」
その声が、静かに響く。
「魔窟孔の外郭に厳重な管理リングを築き、
魔物や瘴の漏洩を防ぐことに腐心してきました」
一呼吸。
「しかし――」
フシルの瞳が、鋭く光る。
「内側の生態系、特に中央の『禁域』への介入を、
避けてきましたね?」
ホヒトは――沈黙した。
その沈黙が――
肯定を、意味していた。
確かに――
禁域は、不可侵の地とされてきた。
「そのつけです」
フシルの声が、重く響く。
「魔喰杉は、本来なら――」
彼は、瓶の中の瘴霞を見つめる。
「他の魔物の活動によって、適度に抑制されるはずでした」
一呼吸。
「しかし」
フシルの視線が、将軍たちを見渡す。
「外郭の過剰な管理によって――
そのバランスが、崩れた」
ガザンの顔が――強張る。
「そして――」
フシルは、続けた。
「今年が、魔喰杉の『開花期の山』にあたります」
その言葉に――
ビャクロクが、息を呑んだ。
「三年周期の――開花期……!」
「そうです」
フシルは、頷いた。
「通常よりも、はるかに大量の瘴霞を――
今、放出しているのです」
彼の言葉は――
彼らの誇る《武》による管理が、
内側の生態系に予期せぬ歪みを生み出したことを、
静かに、しかし確実に、
指摘していた。
それは――
《外敵》によるものではない。
皇国自身の――管理怠慢だと。
フシルの瞳が――ホヒトを真っ直ぐに見据えた。
「瘴圧指数の異常が――その明白な証拠です」
彼の声が――
ひときわ、重みを増す。
「そして――」
フシルは、懐から別の書類を取り出す。
「個人の体への瘴霞の蓄積を示す『魔曝量』も――」
その書類を、卓に置く。
「かつてない、異常値を示しています」
一呼吸。
「今回の病は――」
フシルの言葉が、玉座の間に響く。
「もはや、単なる自然現象ではありません」
ガザンが、息を呑む。
「魔喰杉の異常な活動と――」
フシルの瞳が、より鋭く光る。
「皇国自身の管理の歪みが引き起こした――」
その言葉に、全員の呼吸が止まる。
「『人災』です」
沈黙。
その一言が――
玉座の間の空気を、完全に凍らせた。
外敵ではない。
他国の陰謀でもない。
自分たちが――招いた、災い。
フシルは、さらに続ける。
「病の発生している地域からは――」
その声は、容赦がない。
「即刻、全ての住人を避難させるべきです」
沈黙が――玉座の間を支配した。
誰も、動かない。
誰も、言葉を発しない。
ガザンの拳が――震えている。
獅子族の誇り高き将軍が――
その巨大な拳を、
抑えきれずに、
震わせている。
怒りか。
屈辱か。
それとも――恐怖か。
ビャクロクは、目を伏せている。
武闘派の将軍たちは――
ただ、呆然と立ち尽くしている。
そして――
ホヒトは。
玉座に深く座ったまま――
その顔に、深い苦悩の影を落としていた。
誇り高き煉鱗皇国が――
武による統治を絶対としてきた、この国が――
その《武》によって――
民を、傷つけていた。
外敵ではない。
他国の陰謀でもない。
自らの――過ちだった。
その事実の重みが――
まるで見えない鉄鎖のように、
この場にいる全ての者を、
縛りつけていた。




