第二部『煉鱗皇国 ― 咆哮と調律 ―』:第一章「昏睡の都-瘴霞の兆し-」:一
『協和のコンチェルト』が遠い協連の空に響き渡る――
その数週間前から。
ここでは、静かに、しかし確実に――
異変が、進行していた。
ここは――
『煉鱗皇国』の首都――炎龍城。
文字通り、《炎龍》の名にふさわしい威容を誇る都。
厚い紅の城壁が、都市を囲む。
その中心には――
天を貫くかのような高さで、
黒曜の光を纏った、
龍鱗意匠の主塔がそびえ立つ。
それが――
現龍帝ホヒトの、居城だった。
街路は整備され、石畳は踏みしめる足音を力強く返した。
ここ炎龍城では――
誰もが、武を尊んだ。
早朝の広場では――
若者たちが剣を交え、
巨躯の獣人たちが模擬戦に汗を流す。
鍛え上げられた肉体。
荒々しいまでの気迫。
それは――
この国を支える絶対的な《武》の象徴だった。
市民もまた、規律と秩序を重んじ、日々を力強く生きていた。
ここでは――
強きが、正義だった。
弱きを護る、という概念は――
この皇国の文化には、育たなかった。
それが――この国の、在り方だった。
朝の喧騒の中――
街の一角にある『鱗衛省』の詰所では、
伝令兵が、慌ただしく行き交っていた。
「『環域省』より――通達!」
1人の伝令兵が、駆け込んでくる。
「『魔窟孔』警備隊の交代要請――5名」
息を整えて、続ける。
「全員、『瘴症』を発症しております!」
詰所長が、眉をひそめる。
「段階は?」
「第一段――軽度です」
瘴症には、三つの段階がある。
第一段――発熱と倦怠感。数日で回復する。
第二段――皮膚に斑点が浮かぶ『瘴灼け』。回復に数週を要する。
第三段――肉や骨にまで瘴が浸透。回復は――困難。
詰所長は、報告書を受け取りながら、小さく頷いた。
「第一段なら、問題ない。例年通りの交代でいい」
詰所長を務める獅子人族の男――
厳つい顔に、さらに険しい表情を浮かべている。
彼は、続けて届いた『計衡省』の速報を睨みつけた。
そして――
机を、小さく叩く。
「『瘴圧』――」
その声が、低く響く。
「週間平均42、日中ピークで53だと?」
報告書を握りしめる。
「例年、この時期は20前後で推移するはずだ」
一呼吸置いて――
「今年は――明らかに高すぎる」
『魔窟孔』――
それは、炎龍城から北東へ伸びる、
山脈の奥深くに位置する、
謎多き場所。
遠くから見ると――
魔法物質の濃度が、空間そのものを歪ませ、
暗闇が光を食い破るかのように、
ぽっかりと黒い《孔》が浮かび上がって見える。
不吉な――
闇の入り口。
内部は高濃度の魔法物質に満たされ、皇国が誇る精鋭兵士ですら、一定期間の駐屯で体調を崩すことが知られていた。
兵士たちが罹る病――公式には『瘴霞暴露症』、現場では『瘴症』。
俗に『霞風邪』。
軽い発熱と倦怠感。
数日で治まる、ありふれた症状。
それは長年、《『魔窟孔』を警備する者たちの宿命》として――
むしろ《定期的な休暇》とすら、認識されていた。
だが、ここ数週間、その日常を侵す不穏な報告が増えていた。
『魔窟孔』から最も近い村、ガンド村。
そこで働く坑夫たちが、次々と霞風邪を発症し始めたのだ。
別の伝令が、駆け込んでくる。
「報告! ガンド村の坑夫、新たに3名が瘴症 第一段 を発症!」
詰所長が、顔を上げる。
「村での発症者は?」
「合計――8名となりました」
鱗衛省の若い狐人族の士官が、額の汗を拭いながら続ける。
「坑夫たちの症状は、瘴症 第一段 の範囲内です。しかし……」
言葉を選ぶように、一呼吸。
「本来、魔窟孔外での住民発症は、極めて稀です」
詰所長の眉間が、深く刻まれる。
「加えて――井戸水の味に、金気と甘苦が混じるとの報告も」
士官の声が、わずかに震える。
「風下で、銀灰の帯を見た、との証言も上がっております」
◆
同じ日。
その報せは、『鱗衛省』の会議室にも届いた。
重厚な椅子に腰掛けた一人の男――
獅子族将軍ガザンが、
報告書に目を通していた。
眉間には――深い皺が刻まれている。
「ほう……」
低い、唸るような声。
「瘴が――村にまで流れ出したか」
ガザンは、報告書を再度見つめる。
魔窟孔から離れた村での発症。
井戸水の異変。
風下で目撃された、銀灰の帯。
一呼吸。
「――いや、待て」
ガザンの目が、鋭く細められる。
「魔窟孔の瘴は、風向きが悪ければ流れることもある」
拳が、握りしめられる。
「だが――井戸水の変化は、説明がつかぬ」
そして――
「これは、自然現象では、ない」
低く、唸るような声。
「隣国の――卑劣な毒か」
ガザンの低い声が響く。
「『宣導省』には」
その声は――命令だった。
「『隣国の卑劣な毒物攻撃』として、
情報を統制するよう指示を出す」
報告書を、卓に叩きつける。
「『環域省』と連携し、
井戸毒の有無を徹底的に探せ」
そして――
「我が皇国の秩序を乱す者は」
ガザンの目が、鋭く光る。
「容赦なく――断罪する!」
しかし――
それは、始まりに過ぎなかった。
三日後――
ガンド村から二里ほど離れた農村でも、
『霞風邪』の発症が報告され始めた。
そして、その翌日には、さらに別の村からも。
病は――
風に乗るかのように、
確実に、広がっていた。
そして――
その症状が、兵士たちの通常のそれとは異なる――
より重い、様相を呈し始めているという。
噂が――
人々の間に、
静かに、しかし確実に、
広がり始めていた。
炎龍城を覆う力強い秩序の壁に――
見えない亀裂が、入り始めた瞬間だった。




