第一部『アルマティア協商連邦 ― 偽りの天秤 ―』:第三章「天秤の都-協和のコンチェルト-」:三
連邦議会の議場は――
冷たい光と、沈黙で満たされていた。
ガラスと漆鋼でできた、円形の巨大な空間。
その中央には――
天を突くほどの『衡鏡柱』が、そびえ立つ。
絶えず――
青白い数字の光を、
明滅させながら。
その根元には七邦と連衡の代表たちが並んでいた。
傍聴席を埋めた市民たちも、議員たちも、その光が映し出す『衡位』だけを固唾をのんで見守っていた。
人の声はなく、ただ数字だけが、この連邦の唯一の言語であるかのように支配していた。
壇上に立ったのは――
渉外局次長、ユリス・フロイン。
彼は、完璧な笑みを浮かべている。
そして――宣言した。
「――よって」
ユリスの声が、議場に響く。
「カナリュシア邦の独立申請は、
連邦の経済的均衡を著しく損なうものであるため――」
一呼吸。
「連邦憲章第6条に基づき、
これを却下、
並びに自治権の一時凍結を提案するものであります!」
指数票で優位に立つ邦の議員たちが、まばらに拍手をする。
その空虚な響きが、議場に冷たくこだまする中、南部三邦、そしてカナリュシア邦の代表者カリストは、悔しさに顔を歪め、唇を噛むだけだった。
天秤は――
もう決着の寸前まで、傾いていた。
その時――
「――議長」
静寂を、破る声。
澄んだ――しかし確固たる、声。
「その採決の前に」
全員の視線が、一斉にそちらへ向く。
「アノンノア代表団より――
1点、報告の許可をいただいてもよろしいでしょうか」
律紀さんだった。
ユリスの眉が、わずかにひそめられる。だが、公式な調停役の要請を無視することはできない。議長が、躊躇いがちに頷いた。
最初に壇上へ向かったのは――
理奈だった。
彼女は――
議員たちを、一瞥もしない。
ただ――
中央の『衡鏡柱』へと、歩み寄る。
その足取りに、迷いはなかった。
そして、自らの〈志盤〉を掲げながらその指が軽やかに宙を舞う。
「中立調停の規程に基づき、提出資料の可視化権を行使します。表示は反射投影、柱系統の書換え権限は取得していません」
と告げた瞬間『衡鏡柱』が一度だけ脈打ち、その全面に連邦の民なら誰もが見慣れた、あの複雑な計算式が展開された。
議場が、ざわめく。
「皆様が絶対の信頼を置く、『衡位』の数式について、アノンノアで解析した結果をご報告します」
理奈の声は、機械のように淡々としていた。
「この数式は、一見すると完璧です。矛盾も、エラーもない」
理奈は、数式の一点を指差した。その部分が、赤い光でハイライトされる。
【産業構成比(γ)】
「――この、γと名付けられた変数は、中央産業に1.8倍、地方産業を0.62倍に。同額の創出でも差はおよそ2.9倍。これは評価ではなく配分の傾斜です」
彼女が〈志盤〉を操作すると、グラフが光の柱を駆け上った。
それは富の流れを視覚化したものだった。
ヴィリディアの畑で生まれた富が、アルティフィキアの工場で形を変え、ポルトゥリアの港から出荷される。
その度に、富は少しずつ削り取られ、最終的にその大部分が、リベルタとアカデミアという二つの点へと吸い上げられていく。
「この変数は、金融や情報といった『形のないもの』に不当な価値を与え、農業や工業といった『形あるもの』から価値を奪うために設計された“見えざる重り”です。皆様が信じていた天秤は、最初から中央へ富を流し続けるよう傾けられていた」
その時――
規格局席から、1人の女が立ち上がった。
「それは――」
彼女の声が、響く。
「仕様です」
議場が――ざわめく。
だが。
理奈は――静かに、首を振った。
「仕様なら――」
彼女の声が、冷たく響く。
「公開されているはずです」
〈志盤〉を操作しながら、続ける。
「官報にも、議事録にも――
根拠条項は、存在しない」
理奈は、議場全体を見渡した。
「秘匿された仕様は――」
一呼吸。
「指標とは、呼べません」
一拍の――静寂。
そして――
理奈の声が、議場に響いた。
「これは――」
彼女の指が、数式を示す。
「経済指標では、ありません」
一呼吸置いて――
「富を中央へ移送するための――」
その瞳に、怒りが燃えていた。
「合法的な、ポンプです」
投映が切り替わる。運河の〈並び順掲示板〉と〈通行符〉のログだ。
書類上だけの貨物が“空枠”を占拠し、実貨を押し退けた痕跡――港の幽霊の列。
「優先航送と連動して、虚貨が実貨を排除している。ログは時刻・担当・承認印まで出ます。誰が、どこで、どうやって、です」
青白い光が、初めて具体的な手を映した。
議場に、まるで誰かが空気の栓を抜いたかのような、異様な静寂が訪れる。
これまで光の数字を信仰していた議員たちの顔に、困惑と、そして深い疑念の色が広がる。
傍聴席からは、微かな動揺の息遣いが聞こえてきた。
ユリスの顔から、完璧な笑みが消えている。
彼の瞳の奥に、一瞬、底知れない怒りと、同時に冷徹な計算の光が宿った。
まるで舞台の演出を見定めるかのように、彼の視線はちらりとマルコを捉えた。
だが、その一瞬すら議場の空気に呑み込まれ、沈黙はさらに重く圧を増していった。
誰もが告発の重みに息を呑む中、俺はゆっくりと立ち上がった。
理奈と入れ替わるように――
俺は、壇上に立った。
手には――カリンバ。
相棒、シラベ。
議場が――静まり返る。
俺は――
演説を、しない。
言葉では、ない。
ただ――
静かに、
奏で始めた。
最初の音色は、リベルタの地下で聞いた「声なき声」だった。
光を奪われ、数字から消された人々の、抑え殺したような咳の音。希望を失った魂の、冷たく、不協和な律動。
次に、アルティフィキアの工場で聞いた、歯車の唸りと金槌の怒りのリズムが重なる。
そして、ポルトゥリアの路地で聞いた乾いた瓶の擦過音、ヴィリディアから逃れてきた人々の長い吐息が、旋律となって流れ出す。
それは、この連邦の輝かしい繁栄の影で、誰にも聞かれることのなかった悲鳴のフーガだった。
議員たちの顔が、苦痛に歪む。傍聴席から、嗚咽が漏れる。
だが、その絶望の底から、やがて、一つの素朴な五つの音が、小さな光のように立ち上った。――『協和のフーガ』の主題。
俺は相棒のシラベと共にカリンバを強く弾いた。その音色は、議場全体に問いかける。『このままで、本当にいいのか?』と。
俺は、南部三邦の代表者たちを見た。彼らの瞳に、諦めではない、闘志の光が宿っている。
俺は、傍聴席の市民たちを見た。彼らはもう、数字の奴隷ではない。自らの心で、この音楽を聴いている。
俺たちは、主題を何度も繰り返した。カリンバの音色は、人々の心に深く刻み込まれていく。
やがて、誰かが、その旋律を口ずさみ始める。それは、一滴の水が波紋を広げるように、静かに、しかし確実に、議場全体へと伝播していった。
1人、また1人と、その声は力強く重なり、迷いを振り払うように共鳴する。
それは、この光の城塞に初めて響き渡る、人々の魂が織りなす協奏曲――『協和のコンチェルト』だった。
議長槌が空しく響く。
「静粛に!」
その音は、うねりのように広がる歌声の前に、かき消された。
監察院席が立ち上がる。
「非常条項第十三条。γの監査請求を。本日付の停止提案は差し戻しを」
邦票の盤が反転した。
『偽りの天秤』は俺たちの手で、今、ひっくり返されようとしていた。
歌声の波が議場を席巻し、熱狂が最高潮に達したその瞬間、中央の『衡鏡柱』は、相変わらず無機質な数字を点滅させていた。
だが、歌の余韻が肺の底へ沈み、しばしの静寂に衣擦れと息の音だけが戻ってきた議場に、人々が見つめていたのは数字ではなく、隣人の顔だった。
やがて、1人の議員がゆっくりと立つ。
カリストだ。
「――議長。私はここに、緊急動議を提出します」
その声は、マイクを通さなくても、議場の隅々まで響き渡った。
「現行の連邦清算指数、通称『衡位』の運用を、ただちに、無期限に停止することを要求する!」
ユリスが――反発する。
「指標を止めれば――混乱する」
カリストが――即答した。
「もう――」
彼の声が、議場に響く。
「混乱している」
一呼吸。
そして――
「止めるのは――」
カリストは、ユリスを真っ直ぐに見据えた。
「ポンプだ」
その言葉が――
引き金だった。
「賛成!」
1人の議員が、立ち上がる。
「我々も――要求する!」
また1人。
「天秤を――止めろ!」
そして、また1人。
これまで沈黙を強いられてきた――
地方の邦の代表者たちが、
次々と、立ち上がる。
その声は――
もはや抑えることのできない、
奔流となっていた。
カナリュシア邦の代表の要求に、議長の顔は蒼白になった。
しかし、もはや個人の意思がどうこうなる状況ではなかった。
議場に満ちる人々の熱気、そして滾るような歌声の余韻が、全ての反論を押し潰す。
その圧力を受け――
監察院席が、毅然と立った。
「非常条項第13条に基づき――」
その声が、議場に響く。
「監査態へ、移行を!」
続いて――
連衡執行院の奥、規格局席から――
1人の男が、立ち上がった。
彼の顔は――引き攣っている。
だが。
指示を出す声は――震えていなかった。
「『衡鏡柱』制御盤への魔力流路――」
一呼吸。
「強制閉鎖後、監査局管理下に置く!」
同時に――
連邦清算庫長から、短く告げられる。
「――清算停止令を、発令する」
その瞬間――
執行院の者たちが、動いた。
顔面を硬直させ――
制御盤に、群がる。
だが――
すでに遅かった。
魔力流路は――封鎖されていた。
「……反応が――」
執行院の1人から、青ざめた声が漏れる。
「ない……!」
制御盤は――
沈黙していた。
だが――
次の瞬間。
警報灯が、一斉に点滅し始めた。
低い警告ブザーが――
議場の壁面に、反響する。
「システムを――維持しろ!」
執行院の1人が、叫ぶ。
「反対する者たちは――保全隊が――」
だが――
その声は、人々の興奮したざわめきと、
警報の奔流に、
掻き消された。
彼らが信じていた「秩序」そのものが――
人々の意思の奔流に飲まれ、
麻痺していたのだ。
その瞬間――
『衡鏡柱』に変化が起きた。
映し出されていた複雑な数式が――
赤い審理コードへと、弾け飛ぶ。
光が――
上から下へ。
まるで砂時計の砂が落ちるように――
急速に、失われていく。
そして――
ゴォン……
地の底から響くような、低い唸り。
それを最後に――
光は、剥がれ落ちるように消えた。
柱は――
灰青の石として、
沈黙した。
議場が――
静まり返る。
誰も、動かない。
誰も、声を出さない。
ただ――
沈黙だけが、
広がっていた。
天秤は――
砕かれたのだ。
ユリス・フロインは――
その光景を、見つめていた。
まるで――
自分の心臓が、止まったかのように。
彼の権力の源泉は――
すべて、あの光の柱から生まれていた。
完璧な笑み。
冷徹な計算。
見えない支配。
すべてが――
あの光と共に、あった。
光が消えた今――
彼は、もう――
ただの、男だった。
「……なぜ」
ユリスが――呟いた。
誰にともなく。
「なぜ、だ……」
保全隊が、音もなく彼の両脇を固める。
彼は、抵抗すらしなかった。
いや、できなかった。システムそのものであった男は、システムが壊れた時、自らも壊れるしかなかったのだ。
その瞳には、かつての冷徹な光はなく、ただ虚ろな光景だけが映っていた。
一方で、議場の外では、律紀とマルコが率いる改革派のチームが迅速に行動していた。
理奈の解析結果、そして奏真が集めた「声」は、隠匿された帳簿や裏取引の証拠と共に、既に司法当局に提出されていたのだ。
『衡鏡柱』の停止は、ヴェレキウム中枢に混乱と動揺を引き起こし、隠蔽工作の時間を奪った。
その日のうちに、『ヴェレキウム』の主要メンバーは次々と拘束された。
長い夜が、明けた。
そして――
アルマティア協商連邦は、
ひとまず、その姿を失った。
偽りの天秤は、砕かれた。
だが――
終わりでは、ない。
その残響の中――
人々の心には、確かに芽吹いていた。
個々の魂が織りなす、
真の調和。
数字ではなく――
心で繋がる、絆。
それが――
真の『協和のコンチェルト』。
今――
その序章が、
始まったのだ。




