第一部『アルマティア協商連邦 ― 偽りの天秤 ―』:第三章「天秤の都-協和のコンチェルト-」:二
リベルタの夜は、眠らない。
迎賓館へ戻った俺たちを、律紀さんが待っていた。
「報告を」
俺と理奈は、古書店での出来事を短く伝える。
ヴェレキウムの存在。
三邦の同盟。
そして――ユリスの監視。
律紀さんは、顔色一つ変えずに頷いた。
「くれぐれも慎重に」
その短い言葉に――
警告と、信頼が、込められていた。
俺と理奈は、再び夜の街へ出た。
監視の目をかいくぐり――
事前の手筈通り、マルコと合流する。
「ユリスから"歓迎"を受けた」
俺がカードの件を伝えると、マルコは短く頷いた。
「想定の範囲内だ」
低く応じた彼に導かれ、俺たちは路地の奥へ。
やがて――エルディアスが姿を現す。
「こちらへ」
彼が案内したのは、研究院地下の小部屋。
厚い石壁に囲まれ――
外界の青光は、届かない。
ランプの炎だけが、わずかに揺れていた。
ここから――
火蓋が、切られる。
「ユリスの監視は執拗です。我々は、光の中で影として動かねばならない」
マルコが地図の上で指を止める。
「改革派は長年、『衡位』の不公正を訴えてきた。だが清算庫の記録は、あまりに膨大で、そして“完璧すぎる”」
その言葉が、まるで隠された毒のように俺の胸に澱んだ。完璧すぎるものは、往々にして不自然だ。
エルディアスが咳を抑え、短く言う。
「彼らの論理は、彼らの数式で裂くほかない。綾織殿、アノンノアの知でこの迷宮を解いていただけるか」
理奈は、分厚い『清算ログ』の写しを受け取った。
重い。
だが――彼女の表情に、迷いはない。
「やってみます」
理奈は、その資料を見つめた。
「どんな美しい機械も――」
一呼吸置いて、続ける。
「分解すれば、設計思想が見えるはずですから」
その言葉は――
揺るぎない確信に、満ちていた。
その冷静さと探求心に、俺は静かに頷き、ガルドへ向き直った。
「理奈が数式を解体するなら――」
俺は、自分の胸に手を当てる。
「俺は、その数式がこぼしたものを拾います」
一呼吸置いて――
「リベルタの光が届かない場所で――
数字から消された人々の声を」
ガルドの目が、俺を見つめる。
「……頼む」
岩のような拳が――
机を、小さく叩いた。
「あの街に……何人も、飲まれた」
作戦は決まった。
理奈は隠れ家で、改革派の支援を受けながら『衡位』の解析に。
俺は、マルコが手配した案内人と共に、リベルタの最下層――『見えざるスラム』へ向かう。
◆
理奈の世界は――
数字と論理の海に、変わった。
連邦清算庫から日々流れ込む『清算ログ』。
膨大な数値。
完璧な記録。
途切れることのない、データの奔流。
一見すると――完璧だった。
欠損も、改竄も、痕跡すらない。
だが。
「……おかしい」
理奈は、画面を睨みつけた。
「あまりに、綺麗すぎる」
欠損がない。
改竄がない。
丸め誤差すら、ない。
現実にだけ起こるはずの"汚れ"が――
どこにも、ない。
「これは……」
数日目、理奈は囁くように言った。
彼女はエラーを探していた。
だが、このシステムはエラーを起こさない。
なぜなら――システムそのものが巨大な“エラー”として設計されているからだ。
彼女は視点を転じ、欠陥ではなく《目的》を逆算した。
『アルマティア協商連邦憲章』の理想――《全ての邦、全ての市民の相互繁栄》。
アノンノアの『原理』――《個人の可能性の最大化》。
そして、目の前の『衡位』の計算式。
――合わない。歯車が、噛み合っていない。
理想と現実を繋ぐはずの数式が、真逆を向いている。
数日間、彼女は寝食を忘れ、その《ズレ》だけを追い続けた。
コーヒーの空カップが、積み重なる。
目の下には、深い隈。
だが――理奈の手は、止まらない。
そして――
夜明け前。
ランプの灯りが揺れる中――
理奈の指が、ある一つの《変数》の上で、止まった。
数秒の沈黙。
彼女の瞳が、見開かれる。
「……これだ」
震える声で――
「見つけた」
奥底に埋め込まれた、変数。
『産業構成比』という名目で――
中央産業(金融・情報)に、極端な重みを与え。
地方の産業(農業・工業)を、不当に軽くする。
見えない重り。
理奈の手が――震えた。
怒りか。
悲しみか。
それとも――
「……これは」
彼女の声が、震える。
「設計だ」
拳が、握りしめられる。
「バグじゃない」
理奈は――歯を食いしばった。
「最初から――こうなるように作られていた」
〈志盤〉に、結論を記す。
震える指で――
『富を中央へ移送する――合法的なポンプ』
理奈は――
その言葉を、見つめた。
自分が書いた、その結論を。
拳が、震える。
これが――
協商連邦の、真実。
これが――
”公正“ と呼ばれていた、天秤の正体。
理奈は――
拳を、握りしめた。
◆
俺の世界は――
一転した。
地上の喧騒も。
煌びやかな光も。
すべてが、消えた。
リベルタの地下――
そこには、上層の輝きを支えるための、
巨大なインフラ網が広がっていた。
配管。
魔導線。
冷却機構。
都市を動かす、見えない心臓。
そして――
その隙間に。
人々が、暮らしていた。
『見えざるスラム』――衡位の数字からこぼれ落ち、通商録の資格を失い、統計上「存在しない」者たちの行き着く先だ。
湿った空気が、肺に絡みつく。
絶えず滴る――水音。
ポタ……ポタ……
そして――
どこからともなく聞こえる、
抑え殺したような、
咳の音。
俺は、配管の継ぎ目に触れた。
指先が――黒い粉で、汚れる。
炭でも、土でもない。
「……漆鋼粉」
上層の光を走らせるための――
摩耗の、屑。
リベルタの輝きは――
ここから、吸い上げられている。
俺は案内人に導かれ、その沈黙の迷宮を歩いた。
足音が、湿った石畳に響く。
人影が――見える。
だが。
俺の姿に気づくと――
彼らは、亡霊でも見るかのように、
静かに影の中へ消えていく。
恐怖なのか。
諦めなのか。
誰も――俺と目を合わせようとはしない。
薄暗い通路の奥――
一人の老人が、座っていた。
壁に背を預け、
虚ろな目で、
虚空を見つめている。
案内人が、小さく頭を下げる。
「この方は……かつて、アルティフィキアで最高の腕を持つと言われた、歯車職人だったそうです」
俺は、老人の前にしゃがみ込んだ。
老人は――
光のない目で、闇を見つめた。
「……わしは、ルール通りにやったさ」
その声が、微かに震える。
「やることは、やった」
一呼吸。
「なのに――"天気"が悪かった」
老人の手が、握りしめられる。
「衡位という名の天気が――」
声が、苦く歪む。
「いつだって、わしらの畑にだけ、雹を降らせるんだ」
そして――
「リベルタの連中は……」
老人は、天井を――いや、その上の世界を見上げた。
「それを、傘の下で眺めていただけさ」
老人は――
深く、溜息をついた。
諦念と。
怒りと。
そして――悲しみが、混じった息。
彼は、法を破ったのではない。
法が――彼を、破ったのだ。
俺は――
その皺だらけの手を、握りしめた。
冷たい。
あまりに、冷たい。
生きているはずなのに――
まるで、命が抜けてしまったかのような。
システムは――
彼の労働を数字に変えた。
そして――
その数字を、ゼロにした。
だが――
奪われたのは、数字じゃない。
この手の温もりだ。
この人の、未来だ。
この冷たさが――
理奈が解体している数式の、
本当の重さなのだと。
痛いほど――
分かった。
俺は――
ただ、彼らの声を聞いた。
一人、また一人。
名前を聞き。
失ったものを聞き。
どうやってここに辿り着いたかを、聞いた。
その魂の叫びを――
カリンバの震えとして、
心に刻んでいった。
それは――
楽譜には書き残せない。
美しくもない。
悲鳴の、フーガだった。
◆
数日後――
再び、隠れ家に集まった。
ランプの灯りの下に――
マルコ。
エルディアス。
ガルド。
カリスト。
そして――俺と理奈。
六人が、一つの卓を囲む。
全員の視線が――交わる。
沈黙。
重い、沈黙。
そして――
理奈が、口を開いた。
「……見つけたわ」
その顔は、疲弊しきっていた。
だが――
瞳には、確かな光が宿っている。
「天秤を傾けていた――」
理奈は、〈志盤〉を卓の上に置く。
「"見えない重り"の正体を」
俺も――鞄から、羊皮紙を取り出した。
「俺も――見つけた」
卓の上に、それを広げる。
そこには――
何十もの名前。
何百もの、失われたもの。
職を。
家を。
家族を。
希望を。
震える文字で――
書き連ねられていた。
エルディアスが――息を呑む。
ガルドが――拳を握りしめる。
カリストが――目を閉じる。
マルコが――深く、頷く。
二つの証拠が――
卓の上で、並んだ。
数式と、名前。
論理と、魂。
天秤を裁くための――
すべてが、ここにある。
理奈は――
数式という名の凶器を、暴き出した。
俺は――
その凶器によって奪われた魂のリストを、持ち帰った。
嘘は、解体された。
悲鳴は、記録された。
あとは――並べるだけだ。
数式と名前を。
論理と魂を。
同じ卓に。
長い沈黙の後――
マルコが、ゆっくりと頷いた。
「明日」
その声は――静かだった。
だが――
確固たる意志が、込められていた。
「連邦議会で――」
一呼吸。
「すべてを、明らかにする」
エルディアスが、羊皮紙を握りしめる。
「これが――」
老学者の声が、震える。
「真実だ」
ガルドが、卓を拳で叩いた。
「ようやく――」
岩のような拳が、震えている。
「天秤を、ひっくり返せる」
カリストが、立ち上がる。
「カナリュシアの――」
外套を翻し――
「独立を、宣言する」
準備は――整った。
証拠。
証言。
仲間。
決意。
すべてが、揃った。
俺は――理奈を見た。
彼女も、俺を見ている。
言葉は、いらない。
頷きだけで――
すべてが、伝わった。
明日――
天秤の都で。
光の城塞で。
偽りの正義が支配する議会で。
俺たちの――
最後の戦いが――
始まる。




