第一部『アルマティア協商連邦 ― 偽りの天秤 ―』:第三章「天秤の都-協和のコンチェルト-」:一
リベルタ――“天秤の都”は、変わっていなかった。
いや、前に訪れたときより、さらに眩く、むしろ息苦しいほど整っていた。
巨大な環状城壁の内側で――
七基の『衡鏡柱』が、昼夜の境界を溶かす。
白銀の石畳は、昼に陽を返し。
夜は柱光を浴びて、影を赦さない。
噴水は小節を刻むように同じ高さで噴き上がり、外れた水音は一滴すら許されない。
石畳の下では『漆鋼』の魔導線が、靴底に低い痺れを残し、都市全体を一つの演算機のように脈打たせていた。
ここにあるのは、命を温める灯ではない。
すべてを測り、序列に載せ、競わせるための――
冷たい青光だ。
その光は、人々の顔から表情の陰影まで奪い去り、まるで皆が同じ型にはめられたかのように見えた。
俺は再び、理奈は初めて、アノンノア代表団の一員として門をくぐった。
かつては亡命者として身を縮めた街路も、いまは《調停者》の肩書きが歩みを支えてくれる。
「……完璧すぎる」
思わず漏らすと、理奈が眉根を寄せる。
「うん」
理奈が、街の様子を観察しながら呟く。
「でも――拍が狂ってる。全部、半拍だけ急いてる」
彼女は、行き交う人々を見つめた。
「演者が、観客じゃなく"成績表"を見てる拍よ」
理奈の言葉に、俺も無意識に街の音に耳を傾けた。
確かに――
微かに、しかし確実に、
本来の拍子から外れた焦燥の音が、
この都市全体を覆っている。
笑顔は多い。
だが――それは安堵の表情ではない。
次の評価を外すまいと、均一な歩幅で進む群衆。
街全体が、見えない指揮に合わせて、身体を矯正している。
魂の匂いは――
希薄だ。
◆
広場に足を踏み入れると――
その希薄なざわめきの中に、
特定の"音"が混ざり合っているのを感じた。
「……アノンノアは本当に"罰しない"らしい」
噴水の傍で、二人の男が囁き合っている。
「だが、それで治安は保てるのか?」
別の場所では、商人風の男が疑念を口にする。
「〈志候域〉には秩序がある、と聞いた」
そして――若い女性の、希望を含んだ声。
断片の声が――
疑念と期待を等分に、
運んでくる。
理奈が、小さく息を呑む。
「やっぱり……」
彼女は、広場の人々を見渡した。
「"窓"は、もう街の奥まで届いている」
俺は、頷いた。
〈見窓志盤〉が灯した情報の光は――
リベルタの人々に、確かに届いていた。
だが同時に――
それを怖れる目も、増えている。
連衡中枢が送った紋切り型の拒否声明では、この情報の浸透は止められない。
その裏で、"影の卓"はどのような策を講じているのか。
俺たちの警戒は、高まるばかりだった。
◆
俺たち代表団が通されたのは、連衡執行院が用意した、豪奢だが息の詰まる迎賓館だった。
窓の外では数値の光が人の運命を左右し、部屋の外では《連邦保全隊(通称:保全隊)》の警備という名の監視が、俺たちの自由を囲う。
その夜――
給仕が、夕食の皿を下げていた。
何気ない動作。
だが――
その手元が――
俺の視界の端で、わずかに揺れた。
何かが――
テーブルの上に、滑り落ちる。
咄嗟に――
指先が、それを捉えた。
小さな、カード。
心臓が、一拍跳ねる。
群青と灰白で刷られた『半月と一点』の紋――オリエンティア商会の秘密の印だ。裏には一文。
【今宵、三の鐘にて。古書店の灯りを頼りに】
理奈と律紀さんにだけカードを見せる。
律紀さんは紋を一瞥して、短く頷いた。
「……ベザン氏ですね。保全隊はこちらで引き受けます。お二人は話を。護衛は我々アノンノアの者を外に置きます、油断だけは禁物です」
律紀さんの言葉を受け、俺はカードを握りしめた。三の鐘の時刻まで、残り僅か。
この煌びやかな都の奥深く、その冷たい青光の陰に隠された真実が、今夜、ようやくその片鱗を現す。
◆
三の鐘が――鳴った。
俺と理奈は、律紀さんの段取りで監視をかいくぐり、
指定の古書店へ向かう。
扉を開けると――
黴と古紙の匂いが、鼻をつく。
リベルタの無機質な光とは、
まるで違う世界。
ここだけが――
時間の流れが、違う。
「奥へ」
聞き覚えのある声が、暗がりから響いた。
俺たちは、書庫の陰へと進む。
そこに――
マルコが待っていた。
だが――
一人では、ない。
影が、三つ。
「ようこそ、アノンノアの使者殿」
マルコが、俺たちを迎える。
彼の背に――
一人目――
アカデミアの紋章を付けた、初老の学者。
エルディアス・ヴァルニス。
瞳には、知性と深い憂いが宿っている。
二人目――
屈強な体躯の、鉱山労働者。
ガルド・ローウェン。
モンテシア鉱山ギルドの当主。
どんな岩をも砕くと言わんばかりの、太い腕を持つ男だ。
三人目――
薄灰の外套に、燕脂の細い刺繍。
カリスト・エンヴァレン。
カナリュシア邦の外交官。
言葉より観察を選ぶタイプ――その視線が、今も俺たちを値踏みしている。
三邦――
三つの声が、ここに集まった。
「単刀直入に申し上げよう」
エルディアスが静かに口を開く。
「このリベルタは、光の城塞です。その輝きは、我々地方の邦から吸い上げた富と才能、そして希望で出来ている」
ガルドが――苦々しく続ける。
「俺たちは、汗水流して鉱脈を掘る」
その拳が、震える。
「だが――その価値を決めるのは、リベルタの『衡位』だ」
声に、怒りが滲む。
「出鉱量が増えりゃ"供給過剰"で買い叩かれ――
鉱石の品位が落ちりゃ"リスク"で投機の餌にされる」
ガルドは、卓を叩いた。
「俺たちは――天秤の上で踊らされている、ただの駒だ」
「その天秤そのものが――歪んでいるのです」
エルディアスが、羊皮紙を広げた。
FSIの式。
複雑な係数と重みが絡む数式の一部に――
淡い朱が、引かれている。
「この式は意図的に――」
エルディアスの指が、その朱の部分を示す。
「金融や情報といった『形のないもの』に、重みが偏るよう設計されている」
一呼吸置いて――
「つまり――リベルタで数字を転がす者が常に勝ち、地方で『物』を作る者が常に負ける仕組みなのです」
理奈が――
その数式を、見つめる。
数秒の沈黙。
彼女の瞳が、細められる。
「……これ」
理奈の指が、数式の一部を指し示した。
「この変数――恣意的に動かせる」
エルディアスが、息を呑む。
「つまり……」
理奈の声が、冷たく響いた。
「これは、もはや公正な指標じゃない」
一呼吸置いて――
「ただの、富の収奪装置よ」
エルディアスが目を見開いた。
理解の速さに、安堵と驚きが同時に灯る。
カリストが静かに畳みかける。
「カナリュシア邦は、連邦議会に独立を申請する準備を進めています。我々は、もはや連衡中枢の不当な支配の下には置かれません。内乱の回避は、そのための前提にすぎません」
マルコが結ぶ。
「そして全てを操っているのが、『ヴェレキウム』――“影の卓”です。彼らは法を犯さない。法を、自分たちのために創るのです」
マルコの声は、その名を発するだけで震えるかのようだった。
「ヴェレキウムは流通の要たるカナリュシアの離脱を、何としても阻止しようとするでしょう」
エルディアスが深く息をつき、手元の羊皮紙を押し出す。
「だからこそ、論理で彼らを打ち砕く必要がある。綾織殿、あなたに頼みたい。清算庫の数式を解体し、“重り”の正体を暴いていただきたい」
ガルドが拳を握りしめる。
「数字に飲み込まれた俺たちの仲間の声は、奏真殿……お前に託す。光に届かぬ影を、響きとして残してくれ」
カリストが短く補う。
「北部三邦は、その証拠と声を求めています。内乱を避ける唯一の道は、真実を示すことです」
俺と理奈は視線を交わした。言葉はいらなかった。
――役割は、決まった。
◆
俺と理奈は――
静かに、頷いた。
――その時。
ちりん。
店の入り口のベルが――
乾いた音を立てた。
全員の動きが――止まる。
時間が、止まったかのように。
視線が、一斉に入り口へ。
足音。
複数。
そして――
「おや、こんな時刻に珍しい。渉外局の皆様が、何の御用ですかな?」
マルコの声が、半音ほど低くなる。
棚の影から、濃い藍の外套が現れる。
連邦渉外局(交衡) 次長――ユリス・フロイン。
「これはこれは、ベザン殿。……アノンノアの御客人までご一緒とは。夜の散策ですかな? 近頃、この辺りも物騒でしてね。念のため、保全隊の巡回を増やしているのですよ」
その視線が、俺と理奈を品定めするように滑る。
「何か、お困りごとは?」
ユリスの笑顔が――完璧すぎる。
「連邦渉外局は相談窓口でして――出入りも記録しております」
助けではない。
丁寧な――脅し。
マルコが、応じる。
「いえ」
彼もまた――完璧な商人の笑顔で。
「ただ古い地図を探しに」
視線が、交錯する。
「もう見つかりましたので」
二つの笑顔が――
互いの本心を隠しながら、
互いを値踏みしている。
張り詰めた――数秒。
沈黙が、棚の埃のように降り積もる。
誰も、動かない。
誰も、息すら、しない。
やがて――
ユリスが、笑みを深くした。
「良い夜を」
それだけ告げ――
部下を伴って、去っていった。
ユリスの背が――完全に消える。
足音が、遠ざかる。
そして――
マルコが、低く呟いた。
「……時間が、ない」
その声は――震えていた。
「次の鐘までに動き出さねば――」
彼は、全員を見回す。
「我ら全員が、"数式"の中に消される」
その言葉に――
皆の顔が、引き締まった。
◆
古書店を出て迎賓館へ急ぐ道すがら、理奈が震える声で呟いた。
「……見られていた」
「ああ。だがもう決まった。俺たちは、やるべきことをやるだけだ」
部屋へ戻ると――
テーブルの上に、何かがあった。
見慣れない――豪華な果物の籠。
こんなものは、出かける前には無かった。
俺は、それに近づく。
添えられた――カード。
手に取り――読む。
【リベルタの夜へ、ようこそ。――ユリス・フロイン】
たった一行。
だが――
その意味は、明白だった。
理奈が――震える声で、呟く。
「いつでも――どこにでも、入れる」
彼女は、部屋を見回した。
「私たちは――」
俺は、カードを握りしめた。
「ずっと――監視されてる」
一呼吸。
「でも、もう後には引けない」
光の城塞。
その光は、眩しすぎるほどに、闇を孕んでいるのだと、俺たちは思い知らされた。




