第一部『アルマティア協商連邦 ― 偽りの天秤 ―』:第二章「水運の都-協和のカデンツァ-」:終
俺と理奈がカナリュシアに到着したとき――
運河沿いの街は、活気ではなく、
干いたざわめきに包まれていた。
空の穀倉。
列をなす配給待ちの人々。
疲れた表情。
諦めの色。
配布所に積まれる小麦や干魚は――
数を数える前に手が伸び、
瞬く間に消えていく。
南部三邦では、アノンノアへの避難民の流出が相次ぎ、深刻な労働力不足が発生していた。
田畑は手入れが行き届かず、刈り取りの遅れた穀物は立ち枯れ、工房の炉は半ば冷えたまま。
三邦からの生産量は目に見えて落ち込み、協連全体の供給に長い影を落としていた。
その矛先が最も鋭く突き刺さったのが、水運の都――カナリュシア邦である。
ここは各地の産物を束ね、連衡都市リベルタへの運送の要衝。
だが、連衡制の《優先輸送枠》はすべて《中枢の安定》を名目にリベルタとアカデミア邦へ振り分けられ、肝心のカナリュシア邦には荷駄が残らない。
水辺の市場に並ぶはずの穀俵は空籠に置き換わり、塩樽は底を見せていた。
値札は日ごとに書き換えられ、銅貨一枚で買えたパンが三倍、四倍の値に跳ね上がる。
「今日も麦は無いのか」と、干上がった樽を指差す声があった。
「塩は次の便で、と言ってもう何日目だ」と、諦めがちに老婆が呟く。
苛立ちと不安が市民の声に混じり合い、運河沿いの市場はざわめきに満ちていた。
しかし、それは怒号ではなく、困惑と諦念が交じる弱々しい響きだった。
老女は籠を抱えたままうなだれ、子どもを連れた母親は値切るでもなく、ただ店主と目を合わせて苦く笑う。
――水運の都は、豊かさの象徴であるはずの運河を前に、飢えに沈もうとしていた。
理奈が組み立てた〈配分調停アルゴリズム〉によって、限られた物資は公平に分配されていた。
押し合いは減り、列は保たれる。
しかし、人々の顔に笑みが戻ることはなかった。
彼らは《今日》をしのげても、《明日》を見通せないのだ。
「――救えても、救いきれない」
吐き出すように――
言葉が零れた。
俺自身の、声だった。
目の前の人々を、今日は救える。
だが――明日は?
その時――
理奈が、俺の肩に手を置いた。
温かい――手。
「分かってる」
彼女の声が、優しく響く。
「だから――」
一呼吸。
「根本から、変えるしかない」
やがて理奈は――
運河を往来する輸送船の航路図と、
〈志盤〉に集約した輸送ログを、
並べて見せた。
「見て」
彼女の指が、画面上の流れを追う。
南部から来た物資が――
カナリュシアを素通りして、
リベルタとアカデミア邦へ流れていく。
「原因は――明白」
理奈の声が、冷たく響く。
彼女は、俺を見た。
「これは――」
理奈の声が、わずかに震える。
「単純なバグじゃ、ないかもしれない」
その瞳には、強い疑念が燃えていた。
「意図的な……」
一呼吸。
「《仕様》の可能性が、高いわ」
理奈は、画面を見つめたまま続けた。
「システムの傾きが――危機時にここを切り捨てる形に、働いている」
彼女の指が、データの流れをなぞる。
「リベルタとアカデミア邦を優先的に肥大させる流れが――」
そして――
「はじめから、設計に書き込まれていた」
理奈は、俺を見た。
「――そんな仮説が、成り立つ」
まだ、確信ではない。
だが――
その可能性は、極めて高い。
その言葉は、救済の努力が《応急処置》に過ぎないことを告げる烙印だった。
目の前の籠を満たしても、根本の障壁――
流れの設計を改めなければ、飢えの連鎖は繰り返される。
俺は群衆の視線を浴びながら、重く息を吐いた。
彼らの手に渡した一欠片のパンは、確かに命をつないだ。
だが、その背後にある ”見えぬ障壁“ が崩れぬ限り、この都はまた同じ苦しみに沈む。
飢えと絶望の不協和音は、濁流のように俺の心に押し寄せ、魂を締め付ける。
このままでは、人々の心の音色は完全に潰れてしまうだろう。
夜の運河を渡る風は、まるで天秤の冷笑のように頬を撫でていった。
理奈は肩掛け鞄から、〈志盤〉を取り出し〈並び順掲示板〉と〈通行符〉の最終確認をした。
「流れを可視化して、虚ろな枠を炙り出す準備はしておく。次に問われるのは――この都が自らの拍を刻む、その意志だけよ」
◆
静まり返ったカナリュシア中央議会場。
壁には古い航路図が掛けられ、いまや色褪せた墨の線がこの都の誇りを物語っていた。
長卓を挟み、アノンノア代表の律紀と、その隣に座る俺と理奈が、カナリュシアの議員たちと向かい合う。
議題は 1つ――この都の飢えと混乱を、どう収束させるか。
議員たちの視線が、俺たちに注がれる。
期待と――
不安と――
疑念が、混じり合った視線。
理奈が、口を開いた。
「一時的な配給であれば、まだ凌げます」
彼女の指が、卓上の〈志盤〉に触れる。
『衡鏡柱』に――輸送ログが浮かび上がる。
「しかし、根治は……」
数字が、無慈悲な現実を示していた。
ヴィリディアからの小麦、ポルトゥリアからの干魚、アルティフィキアからの器具。
すべてが中央都市と学術邦へ優先的に流れ、カナリュシアにはほとんど回っていない。
律紀さんも静かに状況を見守る中、老議員が唇を噛んだ。
「……つまり、我らはこの秤の下で永久に餓える定めということか」
理奈は静かに首を振った。
「秤そのものを使い続ける限り、そうなります。物資がいかに豊かでも、この構造では必ず歪みが生まれる。救済は“延命”に過ぎません」
彼女の視線は真っ直ぐに邦首へ注がれた。
「唯一の持続解は――自ら奏でること。自給と調和を基礎にした〈アノンノア機構〉を導入することです」
理奈はカナリュシアの水路図を映し出す。
「水路・倉庫・関門の優先を『公開原則』で開き、〈並び順〉と〈通行符〉で透明化する。流れの譜面を、他人ではなく自分たちが書くのです」
議会場の空気が――凍りついた。
沈黙。
そして――
「独立だと……?」
1人の議員が、震える声で呟く。
「協連を――捨てるというのか?」
別の議員が、立ち上がる。
怒号に似た声が上がる。
だが――
それはもはや、恐怖の裏返しに過ぎなかった。
俺は、そのざわめきを見渡し、ゆっくりと言葉を添えた。
「カナリュシアの水路は、ただの物流の道じゃない。人と人を結び、文化を運ぶ大動脈だ。その流れを、他人の秤に預けるのか。それとも、自分たちの手で調えるのか」
理奈は〈並び順掲示板〉と〈通行符〉の具体的な運用方法を映し出しながら、邦首たちを真っ直ぐに見据えて言った。
「これらは道具にすぎない。肝心なのは、あなたたちが自分の意思でそれを運用する覚悟です」
重く長い沈黙ののち――若い議員が立ち上がる。
「我らは、このまま秤に縛られ、飢え死にを待つしかないのか……」
問いは、場にいた全員の胸に落ちた。
長い――沈黙。
議会場を、重苦しい空気が支配する。
やがて――
邦首が、ゆっくりと目を開いた。
「否」
その一言が――静寂を裂く。
邦首は、立ち上がった。
「もはや協連の秤は――我らを救わぬ」
決然とした声で。
「ならば我らは――」
一呼吸。
「自らの水脈に、従うほかない」
ざわめきが広がり、やがて一人、また一人とその言葉を肯定するように頷いた。
そして――
邦首が――
力強く机に手をつき――
前のめりになる。
議会場の全員が――息を呑む。
邦首の口が――開く。
「……独立を」
その声は――震えていた。
だが――
「申請する」
次の言葉は――
はっきりと、力強く、響いた。
邦首は、俺たちを――そして議員たち全員を見渡した。
「カナリュシアは――」
深く、息を吸う。
「アノンノアと友になり――」
「自給と調和を基礎とした――」
そして――
「同じ道を、歩む」
その宣言は――
議会場全体に、
重く、
深く、
響いた。
長年《協連という屋根》の下で守られてきたはずの都が、いま、自らの意思で独り立ちを選んだ瞬間だった。
理奈は――静かに頷いた。
俺は――一歩、卓の前へ出た。
「俺たちは、調停者として――」
カナリュシアの議員たち全員を見渡す。
「この決断を、支える」
一呼吸置いて――
「議会の場で妨害があろうとも――
あなたたちの声が、潰されぬように」
俺は、自分の胸に手を当てた。
「あす未明、〈並び順〉と〈通行符〉の試験運用を始めよう」
そして――
「流れの可視化は、あなたたちの独奏が――
迷いなく奏でられるための、道標となる」
封蝋が押される。
低い音が、夜の運河へ落ちた。
やがて夜明け前。
『ハルモニア』はカナリュシア代表団と我々調停者一行を乗せてリベルタへ向けて出立する。
運河の水面に映る灯火は揺れながら、確かに未来へと進む意志を示していた。
これから向かうのは――
法の皮を被った獣たちが支配する、
光の城塞。
秤を直すためではない。
流れを――人に、返すために。
水運の都が自らの意志で奏でる『協和のカデンツァ』は――
協連という巨大なオーケストラを揺さぶり、
やがて全体へと響き渡る、
静かなる変革の調べとなるだろう。
そして俺たちは――
それぞれの独奏者として――
《舞台》に、上がる。
次の舞台は――
光の城塞。
偽りの正義が支配する、都。
その名は――
《天秤の都、リベルタ》。
【会合記録 抄(機密・配布禁)】(続報)
議題6:カナリュシア邦における『等衡基金』停止、及び――■■■、効果検証。
議題7:アノンノア邦の公式介入への対処。
議題8:要観測個体KZ-03(槻沢奏真)/AO-12(綾織理奈)の――■■■。
付記:目標は内部からの調和崩壊。報告コード〈天秤〉。監視レベル+2。■■■。
指示:如何なる手段でもカナリュシア邦の独立を阻止せよ。
ただし■■■を用いる場合は監視レベル+3に引き上げること。




