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第一部『アルマティア協商連邦 ― 偽りの天秤 ―』:第二章「水運の都-協和のカデンツァ-」:一

あれから、3 週――


『黎明天蓋』で奏でられた『協和のフーガ』の余韻は、

静かに、しかし確実に、

協商連邦全土へ広がっていた。


一つの歌が――

波紋のように、

人々の心を揺らし始めていた。


俺と理奈は、『朝暉天蓋』での新しい暮らしにすっかり慣れていた。

俺は、あの演奏によって自身の『志の宣言』が認められ『志行(しぎょう)邦民』となり、いまはその志――魂の音色を聴き、その響きを調律することで世界を和合させるための『作品』の仕上げに没頭している。

理奈は『探志邦民』として、寝る間も惜しんで様々な工房を渡り歩いている。

穏やかな日々――だが、天蓋の外の不協和音は、日ごとに大きくなっていた。


「……まただ」


バルコニーで天蓋を一望していた俺の隣で、

理奈が〈志盤〉を鋭い眼差しで追う。


「ヴィリディアの衡位が、規定値を無視して不自然に下げられてる」


彼女の指が、画面上のグラフをなぞる。


協連各地からの公開情報――

その数値の裏に隠された、意図的な操作。


「ちょうど収穫期なのに、港湾と主要倉庫の搬出が平常時の半分以下に落ち込み、積替拠点の稼働率も落ちてる。まるで、誰かが蛇口を締めてるみたい」


俺たちの『協和のフーガ』は、確かに〈志候域〉に小さな希望の種を蒔いた。そしてその反響は、思っていたよりもずっと大きな波紋になっていた。

南部三邦(ポルトゥリア、ヴィリディア、アルティフィキア)では、アノンノアの『公開原則』に触発され、〈志區〉――アノンノア式の自治共同体(志を基盤とした生活区画)を求める声が日増しに高まっている。


〈見窓志盤〉――


南部三邦に先行配布されたこの端末は、

アノンノアの公開情報、

そして『黎明天蓋』で起こった事件の記録を、

水面の波紋のように静かに拡げていった。


それは、公式な書状よりも強力な武器だった。


〈縁鎖〉の〈公開掲示板〉には、〈見窓志盤〉経由の声が次々届く。


『黎明天蓋の事件について、詳細を知りたい。本当に、あの聖句詠唱器とやらが……?』

『アノンノアの原理、まるで絵空事のようだが、あの邦の主張は筋が通っているように思える』

『収穫港の帳簿が昨日から閲覧不可に――理由は "規定変更" だと』

『市場価格が一夜で三割下がった』

『私の故郷でも、同じような "不当契約" が横行している。もし、本当に助けがあるのなら……』


好奇、懐疑、そして微かな希望。様々な感情が混じり合ったメッセージの波は、アノンノアが送り出した『公式な書状』よりも、はるかに早く、そして深く、協連の民の心に浸透し始めていた。


しかし、この《見えない情報戦》は、連衡中枢を強く刺激した。


〈縁鎖〉には、連衡中枢からの公式な返答も掲載されていた。


アノンノアが送付した『公開対話要請』に対する、返答。


俺は、その文面を読んで――

拳を握りしめた。


『アルマティア協商連邦は当該書状を受理した。貴邦主張の ”構造的問題“ は確認されず。よって対話要請は不受理とする。』


紋切り型。

感情のこもらない。

儀礼的な、拒否。


その背後で、"影の卓" が水面下で動いているのは明らかだった。各地の流通を淀ませる経済的な圧力は、連衡中枢からの返答と軌を一にしていたのだ。


「奏真、理奈」


背後から――静かな声。


俺たちは、振り返った。


律紀さんが、そこに立っていた。


その表情は――

いつもの穏やかさではない。


真剣さと――

覚悟が、滲んでいた。


「二人に――」


律紀さんは、一呼吸置いた。


「お話があります。会議室へ」



会議室――


巨大な窓からは、『朝暉天蓋』の内部が一望できた。


人々が行き交う広場。

工房から立ち上る煙。

市場の賑わい。


平和な、日常の光景。


だが――


室内の空気は、重かった。


モニターに映し出されているのは――

協連の地図。


そして――

危険な赤色のグラフ。


律紀さんは、俺たちを席に着くよう促すと――

静かに、テーブルに 1 枚の書簡を置いた。


公式書簡。


その差出人の名に――

俺は、息を呑んだ。


協連カナリュシア邦中央議会。


「単刀直入に言います」


律紀さんは、その書簡を指し示した。


「現在、南部三邦からの生産品が激減しています」


彼女の指が、モニターの地図上を移動する。


ヴィリディア――赤。

ポルトゥリア――赤。

アルティフィキア――赤。


「これにより――」


指が、別の場所で止まる。


「運河での流通を主軸とするカナリュシア邦は、

深刻な物資枯渇に見舞われています」


律紀さんは、書簡を手に取った。


「そして――」


彼女の声が、一段と重くなる。


「昨日」


一呼吸。


「中立を保っていたカナリュシア邦から――

アノンノアに対し、

公式支援要請が届きました」


俺と理奈は、息を呑んだ。アノンノアが、ついに協連の邦の危機に、公式に関わることになる。


「我々は、この要請を受諾します。支配は、新たな不調和を生むだけです。彼ら自身が、自らの志で未来を紡ぐこと。その過程を、我々は信じ、支えるために」

律紀は、俺たち二人を真っ直ぐに見据えた。

「そのための支援隊を、水運の都カナリュシアへ派遣します。その代表は、私が務めます。そして――」


彼女は、一呼吸置いて続けた。

「――その支援隊に、現地の実相を“語り・示せる”二人――槻沢奏真、綾織理奈、あなた方に同行を要請します」


それは、命令ではなかった。


要請――選択の自由がある。


だが。


俺の脳裏には、故郷に残してきた友の顔が浮かぶ。


理奈の瞳には――

アルティフィキアの工房で共に汗を流した仲間たちの姿が、

映っているはずだ。


そして何より――


俺たちの耳には、

協連から聞こえてくる、

数えきれない人々の悲鳴が、

響いていた。


断る理由など――ない。


「……お受けします」


俺が言うと、理奈も頷いた。


「私も」


彼女の声は――静かだが、力強かった。


「『偽りの天秤』が引き起こす《歪み》の正体を――

この目で、見定める」


一呼吸置いて――


「それが、私の『志』にも繋がるはずだから」


理奈の瞳には――


アルティフィキアの仲間たちを救うという、

確かな決意が、宿っていた。



出発までの数日間は、あっという間だった。


俺は、作りかけだった新しいカリンバを完成させた。

それは、ただ美しい音を奏でるための楽器ではない。

協連の『偽りの天秤』が奏でる不協和音を、その場で分析し、打ち消し、調律し返すための『魂の音叉』だった。


出発の朝――


夜明け前。


完成したばかりのカリンバを、俺は手に取った。


掌に――馴染む。


新たな旅路の重みを、宿しているかのように。


清冽な空気を、胸いっぱいに吸い込む。


そして――


俺と理奈は、『ハルモニア』の前に立った。


〈律霊飛空艇〉――


その機体が、朝日を浴びて輝いている。


これから――


俺たちの、新しい戦いが始まる。


これから向かうのは――


枯れかけた水脈を抱えながらも、

それでも未来を信じようとする、

水運の都カナリュシア。


ここでやるべきことは――


歌うことではない。


流れの譜面を、引き直すことだ。


見えない手に占拠された航路を炙り出し、

その流れをもう一度、

人々の手に取り戻す。


俺は――カリンバを握りしめた。


理奈は――〈志盤〉を見つめている。


音楽と、技術。


声と、数式。


異なる二つの力が――


今、一つの目的に向かう。


水運の都を、救うために。


流れを、人々の手に取り戻すために。


それが――


俺たちがカナリュシアで挑むべき、


最初の一歩だ。

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