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第一部『アルマティア協商連邦 ― 偽りの天秤 ―』:第一章「残響の都-協和のフーガ-」:終

『万民のフーガ』の合唱会が開かれたのは、それから三日後の夜だった。

場所は、〈志候域〉の中央広場。集まった人々の顔には、期待よりも緊張と、隣人への不信の色がまだ濃く残っている。


集まった人々の顔には、期待よりも緊張と、隣人への不信の色がまだ濃く残っている。


ヴィリディアの民は東側に。

ポルトゥリアの民は西側に。

アルティフィキアの民は南側に。


それぞれが固まり、互いに距離を置いていた。


誰も、隣の集団に背を向けようとはしない。

警戒の視線が、見えない壁を作っている。


天蓋の下に満ちているのは調和ではない。張り詰めた弦が、弾かれれば切れるのを待っている。


俺は、広場の中央に設えられた簡素な壇上に立った。

隣には、テオとティナ、そして理奈。

静かに、カリンバを胸の高さに上げる。


俺は、深く息を吸った。


〈三・六・九〉の呼吸で集中。


そして――奏でた。


トゥリン――リン――トゥン――リン――トゥ――


五つの音。


それは、どの邦の歌にも共通して眠っていた、

魂の故郷のような旋律。


シンプルで――

素朴で――

だからこそ、誰の心にも響く。


フーガの「主題」が、静寂を裂いた。


最初に声を重ねたのは、ティナだった。


故郷ヴィリディアの、素朴な労働歌の節回しで。


静寂に――一つの声が、生まれる。


それに、テオの力強い声が、対旋律を編むように寄り添う。


二つの声が――重なる。


次に、アルティフィキア出身の職人たちが、

金槌の拍子を刻むような無骨なリズムで加わった。


三つ、四つ、五つ――


そして、ポルトゥリア出身の漁師たちが、

潮のうねりのようなハーモニーを重ねる。


一人、また一人と――


異なる音色が、互いを打ち消すのではなく、

互いを引き立て合い、

より豊かな響きを生み出していく。


俺は指揮をするように、カリンバで新たな声部を導き、促し、繋いでいく。

やがて、その歌声は、『天蓋』を震わせるほどの、壮大な協和音へと育っていった。


その調和が――


『天蓋』全体を満たそうとした、その瞬間だった。



ブツンッ!



世界が、途切れた。


和声が――暴力的に断ち切られる。


風の通り道だけが残り、

百の鼓動が、

同じ闇に散った。


広場を照らしていた全ての照明が一斉に落ち、『天蓋』は完全な闇に包まれた。人々の歌声が、驚きと恐怖の悲鳴に変わる。

「何が起きたんだ!」

「また機構の故障か!」

「誰かの仕業だ!」

暗闇が、ようやく繋がりかけた人々の心に、再び不信の種を蒔いていく。

けれど、さっきまで合わせた呼吸だけが、まだ胸に残っている。

それが、足を踏み出す順を、恐れに飲まれない順を、かろうじて保っていた。


暗闇の中――


一つの声が、響いた。


「――慌てないで!」


理奈だ。


彼女の澄んだ声が、混乱を切り裂く。


「これは、彼らの最後の不協和音よ! 〈見張り番〉を開いて!」


ざわめきの中で、懐からいくつもの〈志端〉がいっせいにともる。

俺の掌にも、青白い光が闇にはっきりと浮かんだ。

簡易マップに、赤い三点――それだけが、はっきりと燃えていた。

三点は正三角に近い。合唱の反響が最も集まる位置取りだ。


〈介入記録:高位律動(外因)三点検出/出力継続中〉


「――そこ!手に持っている球体を止めて!」

理奈の声が闇を切る。


広場が、どよめいた。人々は、自分の最も近くにある赤い光点へと視線を向ける。


そこに立っていたのは――


ポルトゥリア出身を名乗る「港湾互助会」の男。

アルティフィキア出身を名乗る「元現場監督」の男。

そして、いつも人々の不満を煽っていた、顔色の悪い男。


三人だ。


あの『盲衡の天秤』の紋章を持つ、三人。


彼らの手には、大ぶりの林檎ほどもある『月寄樹(つきよりじゅ)』の木組み球がひそやかに脈打つ。

木目の環が半目盛りずれ、耳に届かぬ鳴りが空気の皮膜を震わせていた。

群衆の視線が一斉に自分たちに集まったことに気づき、その顔に浮かんだのは純粋な狼狽だった。

だが、その時だった。三人の頬から一度に血の気が引き、視線が泳ぎ、指先が震え始める。

――急激に霊氣を根こそぎ吸われた者の、無慈悲な兆候だ。


叫びも、拳も、要らなかった。


ただ――


そこに立つ全員の

「この調和は渡さない」

という意志だけが見えない壁になった。


最前列が――半歩。


同じ呼吸で――半歩。


円が、静かに縮む。


沈黙だけが――

彼らの罪を、問うていた。


ヴィリディアの民も。

ポルトゥリアの民も。

アルティフィキアの民も。


出身邦の垣根を越えて――


ただ静かに、膝を折りかけた三人と、

その手から転がり落ちた球体を、

取り囲んでいく。


俺は、その光景を見つめていた。


分断されていた人々が――

今、一つになっている。


俺は、再びカリンバを構えた。


〈三・六・九〉。


『霊珠』に意識を集中し――

主題を解く。


そして――


今度は、フーガの主題を、

《相棒》と共に――

力強く、

高らかに、

奏でた。



トゥリン――リン――トゥン――リン――トゥ――



それを合図に。


誰かが――再び歌い出す。


暗闇の中で――


一人、


また一人と、


声が重なっていく。


それはもう、故郷の旋律ではなかった。

いま、この場が編んだ合唱だった。

――『協和のフーガ』が、産声を上げた瞬間だった。


やがて妨害が途切れ、天蓋の機構が再同期を始める。

〈律霊照明機〉が一灯、また一灯と拍を打つように広場に光が戻った。

その光の中で、俺たちが見たのは、出身も過去も違う人々が、肩を組み、涙を流しながら、一つの歌を歌い上げる姿だった。


理奈が、回収された木組み球の一つを手に取り、眉をひそめた。

「月寄樹の継ぎ目を押して微回転……内蔵の霊珠が律動を乱す仕組みね。使い捨ての、魂を喰らうだけの卑劣な玩具よ」

そして、彼女は俺を見て、静かに呟いた。


「……見た? 奏真」


彼女は微笑む。


「これが――仕組みの本当の力」


一呼吸置いて、続けた。


「そして、奏真の音楽の力よ」


俺は頷き、最後の和音を奏でた。

それは、勝利のファンファーレではなかった。

ただ、生まれたばかりの調和を祝福し、この都に満ちていた「残響」を洗い流していくための、優しい子守唄のような音色だった。



合唱の余韻は、なおも〈志候域〉の広場を満たしていた。

数千の声が織り上げた調和は、ただ一夜の音楽ではなく、人々の心に「自分たちも変われる」という確かな火種を残していた。


捕らえられた工作員たちは、広場の一角に集められていた。

彼らの顔からは血の気が失せ、ただ虚ろに床を見つめている。

だが、アノンノアの人々が彼らに投げかけたのは、罵声ではなかった。


「なぜ、こんなことを?」

「誰に、命じられたんだ?」

問いかけは静かで、真剣だった。憎しみではなく、純粋な疑問。


やがて、律紀が広場に立ち、告げた。

「彼らの行動は記録しました。けれど、罰するためだけに開くのではありません。なぜそうせざるを得なかったのか――手口と背景を、〈縁鎖〉上で誰でも閲覧できる形で公開します」

その声は、広場全体に響き渡る。


工作員たちは、牢獄ではなく、〈対話室〉と呼ばれる静かな部屋へ移された。

アノンノアは、罰する前にまず問う――罰則ではなく、魂の解剖。

それが、この邦のやり方だった。


その日の深夜。

俺と理奈は、静けさを取り戻した広場を見下ろす天蓋の小さなバルコニーにいた。


「……〈見張り番〉、役に立ったかな」

理奈が、少し誇らしげに、どこか不安を滲ませて呟く。

「ああ。最高の仕組みだった。そして――」

俺は続けた。

「最後に彼らを止めたのは、仕組みだけじゃない。人々が、自分の意志で立ち上がったからだ。理奈の仕組みが信頼を生み、俺の歌がそれを結んだ。……少しは良い『作品』を創れたのかもしれないな」


理奈は黙って頷いた。

俺は、静かに脈打つ天蓋の光を見つめる。

協連の『衡鏡柱』と同じ素材でできていても、その意味は全く違う。

あっちは価値を定め、人を競わせる光。こっちは命を育み、人を繋ぐための光。


俺の敵は協連そのものではない。

人から魂の音色を奪う“仕組み”だ。

その仕組みへ向けた最初の音色は、今、確かに奏でられた。


翌日。

アノンノア機構は、〈対話室〉での記録と、今回の事件に関する公式見解を、〈縁鎖〉で公開した。

俺と理奈も、〈志盤〉で息を詰めてその公示を追った。


〈公示:事案番号774に関する包括的報告と、アルマティア協商連邦への公開対話要請〉

一.事実認定:

〈黎明天蓋〉において、意図的なインフラ妨害工作および扇動行為を確認。

実行犯は拘束、人的被害はなし。


二.実行犯との対話録(要約):

実行犯は、協連の複数邦出身者。

いずれも『赤紐』の付与、あるいは『影写インク』による不当契約によって、家族を人質に取られ、今回の任務を強制されていた。

任務失敗時の報復を恐れており、帰郷を拒否。


三.証拠物件の解析結果:

使用された妨害装置『聖句詠唱器』は、その構造の特徴から、聖アージェティウム共和国系の霊具加工技術と高い近似を示している。


四.アノンノアの声明と提案:

我々は、今回の事件を個人の犯罪ではなく、アルマティア協商連邦が内包する構造的な問題の表出と捉える。

我々は、実行犯を罰するのではなく、彼らを生み出した土壌そのものを、皆さんと共に癒したい。

そのため、アノンノアは対等な相互支援を提案する。


そして、この公示は、本日付でアルマティア協商連邦の七邦および連衡都市リベルタの中枢へ、公式な書状として送付される。


〈志候域〉の広場では、公示を読み終えた人々から、怒りよりも先に、静かな理解のため息が漏れた。

「俺たちは、騙されていたのか……」

「そうか。だから彼らも、あんな顔を……」


敵対者をただ糾弾するのではなく、仕組みそのものを暴き、共有する。

それがアノンノアの選んだ「戦い方」だった。


公示の最後に、リベルタへ送付された書状の文面が追記されていた。


俺は、その最後の一文を読んで――


息を呑んだ。



『――次は、あなた方の《天秤》そのものについて、対話しましょう。』



たった一行。


だが――


その意味は、重い。


アノンノアは、宣戦を布告したのだ。


暴力ではなく――対話で。

破壊ではなく――創造で。


協連の根幹にある『不公正な天秤』そのものに、挑むと。


公示を閉じた後、俺は胸の奥で一つの旋律を思い描いていた。

合唱の夜に生まれた『協和のフーガ』は、ここで終わりではない。

むしろ、これから始まる長い対話の序章――最初の返歌に過ぎないのだと。

【会合記録 抄(機密・配布禁)】(続報)

議題4:第一次天蓋における『■■■』散布、効果限定的と判断。物理的介入は高リスク。

議題5:対抗策を経済的介入へ移行。『等衡基金』の配分を停止し、関連する■■■を下方修正。

付記:報告コード〈天秤〉。監視レベル+1。要観測個体:■■■(槻沢奏真)/■■■(綾織理奈)。

注:同時刻に『盲衡の天秤』の所持者数名に当方で■■■。追跡監視対象へ移行。

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