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暗い窓辺の物語

作者: 梅田浩志

 (詩篇)


 羊飼いを失った羊の群れが、青い草を捜してなだらかな丘を下りてくる。

 鋼鉄の太陽がきしみをあげるように、青い空をゆっくりと転がって行く。

 南風に包まれた二階の部屋から見えるのは地平線まで続く小麦畑だ。黄金の麦の穂がこの部屋をかき混ぜているのと同じ風を受けて音もなく揺れている。同じ風を受けている麦たちは、同じ方向に撫で付けられ、一面にざわざわとした微笑みを浮かべて揺れている。真っ青な空の下、それはとても幸せそうな光景に見えた。


 僕はそんな景色を暗い窓辺の青い小さな瓶の中から眺めている。僕の小瓶は二階の書斎の隅にある小さな暗い出窓の窓辺に置かれている。

 暗い窓辺には決して光がささない。きっと太陽は麦を育てるのに手一杯で、暗い窓辺の事など忘れているのだ。それとも神様が、日曜の礼拝に行けない僕に怒って、暗い窓辺から太陽を奪ったのかもしれない。

 雲のない青い空に、鋼鉄の太陽は誇らしく輝いている。

 この土地では太陽は決して沈まない。そのため麦たちは果てしなく成長し続けて、やがて腐ってビールになって行くのだ。

 秋にはそんなビールの匂いが、暗い窓辺の小さな青い瓶の中にも香ってくる。

 でもそんなことは暗い窓辺にとって何の意味もない。


 暗い窓辺に祝福などないのだ。


 この土地には僕以外もう誰も住んではいない。

 人々は列を成して暗い北の空へ歩いて行ってしまった。彼等は黒い雲が垂れ込め、空気が薄く、雪と氷に閉ざされた[北の都]へ歩いて行ってしまった。


 皇帝の北の都。


 そこは一年中太陽が閉ざされ、夜は永遠に明ける事がない。

 彼等は太陽に追われてこの土地を出たのだ。

 出発の時(この土地に朝などないのだ)彼等は無表情に口もきかず一斉に北を目指した。

 農民達は熟れたトウモロコシを放り出して。 女達は汚れた皿を台所に重ねたまま。

 隣家の少年は愛犬の鎖を外しもせずに。

 母は僕にさよならのキスもしないで。


 着のみ着のまま、みんな一斉に出て行ってしまった。隣家の犬は主を失って三日間啼き続けたが、四日目に死んだ。

 そして僕は暗い窓辺の青い瓶の中からこうして外を見ているのだ。


 青い空、地平線の彼方に白い蒸気が上がる。

 奴が来たのだ。

 奴は地を揺るがし唸りを上げながら小麦をなぎ倒して大地を駆け抜ける。

 蒸気動力コンピューターを積んだ鋼鉄の巨大な兜虫。6足駆動の動力体が激しく速度を上げながら無人の畑を走る。

 6本の足節が踊る様に大地を蹴り、小麦を踏み付ける。

 巨大な首節を上下させる度、側体部に並んだ気孔から白い水蒸気が勢いよく噴き出し、大地は熱風にさらされる。

 鋼鉄の兜虫はその頭部にある複眼網膜体により得た外界の視角情報を内部に搭載された高性能蒸気動力コンピューターに伝え、速度を落とす事なく視角情報を分析して進む事ができる。


 しだいに奴の息遣いが聞こえる。

 鋼鉄の兜虫はそのグラスファイバーの触角端子で道を開きながら、僕の視界に入り込んで来た。

 羊達は兜虫に気づいて丘の方へ逃げ始めた。兜虫はその群れの中に突っ込み、自分の進路上にたった羊を容赦なくミンチにしていく。 何十もの羊の悲鳴が響き、兜虫の通った後にポタポタと肉片が重なって行く。

 そうしながら兜虫は西の丘から東の地平線に走り抜けて行った。


 そして、辺りにまた静寂が訪れる。

 太陽はもう南の塔を通り過ぎて、西の風車の近くに達している。

 僕はもう眠る時間だ。

 僕は青い小瓶の中でゆっくりと目を閉じる。 そして、北へ行ってしまった人々の事を考える。

 北の都は僕に深海に沈んだ古代の都市を連想させる。

 北の都には太陽が届かず。街は深い雪と氷に閉ざされているそうだ。

 僕は沈んだ古代都市と北の都とそのどちらにも行った事はないので、人々がそこでどんな生活をしているのか見当もつかない。

 北の皇帝はなぜそんな所に都を築いたのであろうか、人々はいつかこの土地に帰って来るのであろうか。


 鋼鉄の太陽がゆっくりと西の風車を越えて北へ転がる。この土地では太陽は決して沈まない。しかし、そんな事は暗い窓辺には何の関係もない。


 暗い窓辺に祝福などないのだ。



    1 


 僕は小人だ。

 僕は母にとって最初の子供だった。

 最初に産婆の手によって抱え上げられた身長が一フィートもない僕の姿を見て、そまつな農家の一室は、水を打ったように静まり返ったという。

 僕の姿を見た母は強いショックに陥り、父は口にすべき言葉を全て失い、僕は全く泣かなかった。

 村で唯一の産婆である村長の母だけが、なるべく平静を装うように努めながら、僕の体を暖かい産湯に浸した。

 僕の体は小さかったが、明らかに未熟児のそれではなかった。まるで、完成された子供が縮小された状態で生まれて来たようだった。

 東洋の聖人のように杖をついて出てきたとか、彼がしたようにすぐに立ち上がり、聖なる言葉を口にするような大仰な事はしなかったが、僕の姿は立ち会った人々をしばし絶句させるのに十分だった。

 初めて吸う空気、初めて見る光。そして、まるで母の体内にいるような心地のいい産湯に浸り、僕はゆっくりと微笑んだが、その微笑みに応じる事のできる人などいるはずもなかった。

 そして、僕は生まれて三日目にして村はずれの教会で異端審問に掛けられるはめになった。

 僕は悪魔の子かどうか調べるため、十字架を顔の前にかざされたり、奇妙な呪文と共に蝋燭の火であぶられたり、はたまた、聖水なる水を頭に掛けられたりしたが、聖衣のポケットの中にウイスキーの小瓶を忍ばせた飲んだくれの無能牧師にそんな事が分かる訳がなかった。

 珍しい儀式を見るために、暇をもてあました多くの村人がやってきたが、集まった人々に分かったのは、僕が泣くと言う事実だけだった。

 牧師は慣れない儀式に疲れてしまい。馬鹿馬鹿しくなった見物人も日を追うごとに減っていった。

 牧師は父の差し出したワインと僅かな賄賂で手を打つ事にし、僕の誕生は不問に付される事になった。

 両親も最初のうちは僕の姿に強いショックを受けていたが、しかし、次第に僕に暖かく接するようになった。僕は彼等の最初の子供で、何も知らない無垢な幼児だった。

 ちょっと人と姿が違うだけで他には何一つ人と違う所はないではないか、と言う結論に彼等は自分達の気持ちを持って行くように努力したし、村の人達も僕を『天使の子』と呼び、多少偽善的な響きを持ちながらも、僕を暖かく、新たな村民として受け入れようと努めた。

 しかし、当時最も僕の心を開いてくれた村民は、僕の家で飼われていた老猫のロマノフだった。

 なかなか家族になつかず、自分の産んだ子供の世話をせず死なせてしまった事もあるこの気高いヴァン猫は、晴れた午後には僕の服をくわえて村で一番高い木の上に連れていってくれたりした。

 ゴチック教会の塔を見下ろす木の上からは、開拓地のつつましやかな東欧風の村落と、それを取り囲んだ、地平線まで続く小麦畑がさわやかな風に揺れるのが一望できた。

 僕はそよかぜに包まれて無邪気に笑い。ロマノフはそんな僕のそばにちょこんと座り遠くの方を眺めていた。

 そうやって夏が過ぎ、秋が過ぎたが僕の体は一向に成長の兆しを見せなかった。

 両親は僕を悪魔払いをすると言う祈祷師や、細胞を活性化する薬を与えるという医者に見せたりしたが、どれも彼等に一抹の期待を裏切っただけに終わった。

 開拓地の人工太陽は季節を造る為、年に三ヶ月の出力低下をする。そうしないといい麦が作れないのだ。そうして寒い冬がやって来る。

 暖炉の炎は優しい光で冷えた空気をかき回し、人々の凍り付いた冬の心をなごませる。 出力低下のせいで遥か地球が微かに見えるようになるこの季節は、自然と人々を悲しい気分にするのだ。

「この子はね」

 食器のあと片付けをしながら母は誇らしげに言った。「とても頭が良くて、心が優しいのよ。ロマノフがこんな風に子供になつくのを見た事があって?」

 父は暖炉の側にロッキング・チェアを置いて新聞を読んでいた。

 暖炉の前で僕はロマノフの軟らかい毛にもたれてすやすやと眠っている。

 それはとても幸せそうな、家族の一シーンにも見えた。

「昔読んだロシアの作家が言ったよ。才能には何かの代償を払わなくてはいけないってね」

 そう言って彼は僕に目をやり、僕の寝顔を覗き見る。

 ロマノフは大きくあくびをした。

 窓からは微かな太陽の光が差し込み、その薄いベールの様な光の粒子の隙間から、遥か彼方の地球が見えた。

 彼は故郷のドネツクに思いを馳せ、今日までの長い道程を思った。彼は暖炉の炎の下の僕に優しく微笑んで、新聞に目を移した。

「きっと、これでいいのさ」



    2


 物心がついてからの僕は、家にこもり、本を読み続けた。

 本には世界の全てがあり、僕がページをめくるごとに、僕を神秘と哲学の世界に連れ出してくれた。

 本と戯れる事は僕にとって無上の喜びであり、幸福を体現する唯一の道具であった。

    *

 反対に、僕にとって最も大きな悩みは、日曜日の午前に教会へ行かねばならない事であった。

 教会では僕を異端審問に掛けた飲んだくれの牧師がつまらない演説を聞かしたり、神に祈ったり、神を称える歌を歌ったりした。

 僕の宗教観はともかくとして、多くの人間の中に出かけると言う行為が僕をとても憂鬱な気分にしたのだ。

 敬虔なキリスト教徒である父と母は、僕に特別に作ったよそ行きの服を着せ、毎週僕を教会に連れ出した。

 道中、母の腕に抱かれた僕は、何度もいやだと言ったが、決まって父は困った顔をして僕に言った。

 「そんな事を言う物じゃない。おまえだって神に守られているんだ。感謝しなくてはいけない」

 本当に神がいるなら、僕は日常の安全よりもむしろ、人々の僕に対する冷ややかな視線からの庇護を願っていた。

 日常生活の大半に於いて、その願いは適えられた。ただし、日曜の朝を除いて。

 教会での僕は机の上に座らせられ、否応なしに人々の好奇と嘲笑の目に晒されなくてはならなかった。

 大人達は、もちろん、僕を受け入れた事になっていたし、偽善ではあれ、めぐまれない子供を、ましてや教会に於いて、差別するべきではないと考えていた。

 しかし、彼等が時に、僕の出生を母の業病のせいだと噂し、哀れみの冷ややかな視線で僕らを見ている事は明らかだった。

 子供達はもっと露骨に僕をおかしな目で見た。

 僕を怪訝な目で覗き、小さな声で隣の子供に何か囁いているのを見る度、僕はいつも消えてしまいたいと願った。神が僕の庇護の代償としてこの様な罰を求めているなら、それはとても理不尽な事に思えた。

 僕は何度もその事を父に言ったが、父は黙って首を振るだけだった。

     *

 それが、僕の不信仰の罰だったのだろうか? 敬虔な信仰を持ち続けた村人に、神が与えたのはあまりに過酷な試練だった。



   3


 やがて村に、戦争がやって来た。眠りの時間にあった僕は、けたたましい拡声器によって叩き起こされた。

 拡声器の声が、村人は全員、至急広場に集まるように繰り返し告げた。

 窓に飛び乗り外を見ると、制服を着て銃を抱えた男達が二人一組で村の家々のドアを叩いて回っていた。

 それが、革命軍だった。

   *

 演壇には村長と一緒に、制服を着て帽子を深くかぶった、背の高い神経質そうな男が立っていた。

 男は村長から革命軍の司令だと紹介された。

「君達は幸福である」

 村人を前にして、彼は甲高い声で演説を始めた。

「君達は偉大なる皇帝陛下の御命によって、本日より搾取的な旧地球政府からの解放が約束された。革命に賛同せよ。革命に参加せよ。旧態たる非合理を打破し、迷信を否定せよ。皇帝陛下の御恩に報い、革命を支持する者は、革命の発展的推進により、自らに最大の富と幸福を与える事になるだろう……」

 彼は延々と演説を続けた。村民は彼の演説の為でなく、銃を抱えて自分達を取り囲む兵隊に怯え、沈黙を続けた。

 彼等が革命と銘打って最初にした事は、教会を焼き払う事だった。

 彼等は村民を教会の前に集め、牧師に神の否定と自分の特権階級の放棄を宣言する事を要求した。しがない田舎牧師が特権階級かどうか疑問だったが、飲んだくれの彼は突然の事態に震えながら、あっさりと神を否定した。 村民が見守る中、彼等は教会の周りに油を撒き火を放った。

 火はまたたく間に巨大な炎となり、教会を包んだ。黒い煙が立ち登り、崩れ落ちる教会の中の聖母像が、炎によってみるみる黒く焼かれていくのが覗き見えた。

「なんと言う事だ」

 父は目を閉じて呟いた。

   *

 翌日から、学校の授業は午前中だけとなり、午後は子供達にも労働が要求された。

 教育は革命軍から派遣された教育官と言う軍服の男がおこない、それまでいた先生達は学校を追われた。

 先生達は自分達が知識を独占した特権階級で、労働者から無意味な教育で搾取を行なった事を謝罪し、労働を賛美する事を求められた。

 校長先生は労働の賛美には異論はないとしながらも、自分は無意味な教育などしたおぼえはない、と主張し逮捕された。

 教育官は革命の歴史や正当性や、皇帝の慈悲とそれに対する尊敬について高圧的に教えた。質問や反論は許されなかった。

 皮肉な事に、僕が小学校に通うようになったのはその頃の事だった。

 僕は教育官から、労働のできない有害な人民とされ、みんなの前に引き出され、事あるごとに非難された。

 ある日、一人の少年が、勇気を振り絞り、僕が科学や哲学に造詣が深く有害な人間ではないらしいと発言したが、教育官は机を蹴飛ばし彼を殴り付け、そういう思想こそが腐敗を生むと一喝した。

 それからは誰も何も言わなかった。

     *

 彼等は反革命的と言う名目で何人かの村人を逮捕した。そして、ほとんどの人達は村の外れに連れていかれたまま、二度と返っては来なかった。

 村はずれは立ち入り禁止にされたため、真相は誰にも分からなかったが、殺されたのだろう事は誰にも容易に想像できた。

    *

 例外的に、校長先生は釈放された。

 彼の釈放は広場に村人を集めて行われたが、その姿は人々に少なからず衝撃を与えるものだった。

「まず、私は革命軍に感謝をせねばならないでしょう」

 釈放に際して、演壇に立った校長先生は、人々に向けて高らかに演説を始めた。

「彼等は私が長年抱いて来た、誤った認識を打破してくれました。私は知識と言う頽廃の縁から救い出されたのです」

 彼はそこにいたが、彼の精神はまるで遠くに行ってしまったように見えた。

 彼の焦点の合わない目は常に虚空を眺め、意思のないその目とは別に、決意に満ちた口もとからは力強く言葉が溢れた。

「私は人民に対して償えない程の罪を犯しました。私は尊い労働に対して無意味な教育で搾取を行なって来たのです。私の万死に値する重罪を、彼等は偉大なる皇帝陛下の御名に於いて免じてくれました。私は今後たゆまぬ労働により、皇帝陛下の御恩に報いるべきであると考えます」

 校長先生は以前から、正直で清潔な人物として村人達の尊敬を集めていた。

 今回の事件についても、多くの村人は彼の態度に密かな誇りを感じ、自分達のプライドを保っていたのだ。それだけに、自分達の目の前で自己批判を繰り返し、革命軍と皇帝を称える彼をどう受け止めていいか、分からなない様子だった。

 彼が革命軍の手前、自分を偽った発言をしていると考える事もできるのだろうが、それにしては、彼の口調は余りに激しく、決意に満ちていた。彼は変わってしまったと考えるのが一番妥当なように見えた。

 村民は黙って聞いていたが、それぞれに動揺しているのは明らかだった。

 革命軍の司令は上機嫌でその光景を眺めていた。



    4


 二人の憲兵が僕の家の扉を激しく叩いた。

「反革命的人物の引渡しを要求する」

 応対に出た母に向かって、彼等は抑揚のない声で言って、強引に家に押し入ってきた。 母は悲鳴のような声を上げて、彼等を止めようとしたが、彼等は母を突き飛ばして、部屋中をひっくり返し始めた。

 僕は二階にいて、階段から様子を見ていたが、彼等が僕を捜しているのだという事が分かると、僕はとても恐ろしくなった。

 今まで逮捕された村人は、ほとんどこうして連れ去られたのだ。彼等は僕を捕えるつもりなのだ。そして、労働のできない僕は処刑されるのだろうか。

 憲兵の一人が二階へ登って来た。僕は慌てて自分の部屋のクローゼットに入り、床板の隙間から天井裏に隠れた。僕は憲兵が寝室にいるのを確認して、通気孔からキッチンに降りて、裏口から外へ出た。

 外には見張りの憲兵がいて、僕の姿を見つけると大きな声を上げた。僕は慌てて路地を走り、送電溝の入り口の石盤を開けて、そこに潜り込んだ。送電溝には各家庭への送電線が埋め込まれた細いトンネルで、大人が這ってしか入れない大きさしかなく、村中に迷路の様に張り巡らされていた。僕はその中を夢中で走った。送電溝は何度か枝別れした後、村の外れで行き止まりになった。

 僕は石盤の隙間から外を見た。そこは村の南の井戸で、夕食時の為、村の女達が何人か水を汲みに集まり、話をしているようだった。 僕は石盤を少しずらして、様子をうかがい、そこにいる老婆に合図を送った。

 僕は彼女に、僕をどこか安全な場所にかくまい、母に僕の身の安全を知らしてくれる事を期待した。

 内心では村人達は革命軍に反感を持っており、きっと僕に協力してくれるだろうと勝手に考えたのだ。

 しかし、それはあまりにも甘い認識だった。

「ここよ、ここにいるわよ!」

 老婆が叫ぶ。僕は送電溝を飛び出して、驚いた様子の女達に目もくれず、路地を駆け抜けた。

「はやく、はやく。このネズミを掴まえないとどこか行っちまうよう!」

 甲高い老婆の叫び。

 遠くから軍靴の駆け寄る音がする。

 遠くで激しい軍用犬の鳴き声がしていた。 僕は小麦畑に逃げ込み、一夜を過ごした。



    5


 翌朝、僕は村に戻った。

 まだ学校の始まらない時間だったが、僕が学校の校庭に座っていると、見回り警備兵がやってきて、たちまち僕を拘束した。

 知らせを聞いた宿直の教育官がやって来た。 僕は抵抗も逃亡の意思も見せなかったので、彼等は手荒な事はしなかった。

 その代わり、彼等は嫌な薄ら笑いを浮かべて僕を見下ろした。

 僕は殺されるのだろうか。

 僕はもう何も期待しなかった。

   *

 彼等は僕を殺しはしなかった。

 その代わり、僕を青い小さな小瓶の中に閉じ込めてしまったのだ。

 分厚い小瓶の中には全く音が聞こえず、中からは少し歪んだ外の世界が、青く見えるだけだった。

 しかし僕は、自分でも意外な程、その場所を不快とは感じなかった。

 僕はここにいる限り安全で、無理に誰とも仲良くする必要もなかった。外には一切出れなかったが、結局のところ、僕にそんな必要などなかったのだ。

 僕は最初、指令部として徴用されている村長の家の、地下室の冷たいテーブルの上に置かれていたが、3日後、許されて瓶に入ったまま家に帰る事になった。

 父と母がそろって僕を迎えに来た。

 彼等は僕の姿を見て驚いたようだったが、何も言わず、僕の瓶を持ってきた籠の中に入れた。家路についた彼等は一言も言葉を発しなかったようだった。

 彼等は、僕にはもう何も聞こえない事を既に知っていた。僕はその事を、どうやって彼等に伝えるべきか考えていたので、少し安心した。

 家に帰ると、僕の小瓶は僕の部屋の出窓の上に置かれる事になった。

 そして、僕は一日中沈まない太陽に囲まれた開拓地の退屈な風景を眺めながら、一日中夢想を繰り返し、気が向いた時に眠る生活を始めたのだ。

    *

 僕は気が向いた時に、気ままに様々な事を思索した。

 ある時はプラトンのイデア論について考え、イタリアのエチオピア侵攻からヴェルサイユ体制の崩壊までを検証し、プランクの黒体輻射式を思い出した。

 ジャン・クリストフのストーリーを忠実に辿り、免疫遺伝子の再編成やケインズの有効需要政策について考えた。

 インドにおけるヒンドゥとムスリムの関係検証し、旧約聖書とパウロの回心について思索した。ウィルヘルム・ヴントの心理学やピタゴラスの純正調音階について考えた。

 そこは誰にも邪魔されない自由な空間だった。

時々母は悲しそうな顔をして僕と過ごしたが、僕はおそらく彼女が思う程不幸ではなかった。

    *

 小麦などの農作物は、革命軍の指導により合理的耕作が計られているようだった。

 例えば彼等は機械を導入した。それは6本の足を持つ蒸気で動くシステムの機械で、昆虫のような姿をしていた。

 鋼鉄の兜虫は畑の中をくまなく走り回ったが、最初はそれが何をしているのか僕には良く分からなかった。

 僕はある日、兜虫が一人の青年を触角で拘束しながら畑を出てくるのを目撃して、兜虫は労働者の管理をしているのだと知った。何だか馬鹿げた気がしたが、確かに合理的耕作には役立ちそうだった。

 ある日、革命軍は村の中にスピーカーのような物を巡らし始めた。それは畑の中までくまなく置かれ、何かの音楽を流しているようだった。

 2、3日すると村人の様子が変わっていくのが分かった。村人達の目付きは変わって、みんな焦点の合わないような目をして、黙々と仕事を続けた。

 しばらくすると、彼等はとても楽しそうになった。彼等はいつもニコニコして労働をして、終わると小躍りしながら畑を出てきた。 彼等は革命軍の憲兵にすら何ごとか言って笑いかけた。憲兵はまったく反応を見せなかったが、彼等は全くお構いなしに笑っていた。 父もニコニコしながら帰ってきたが、父も母も僕の所には来なくなった。

   *

 ある日、革命軍の兵士達は突然村を去った。 彼等は荷物をまとめ、隊列をなし南の方角へ行軍して行った。

 村人は畑に出ていたが、その様子を見ても何の反応も起こさず、相変わらずうれしそうに仕事をしていた。

 彼等は村人の様子がすっかり変わってしまうのを確認して、出て行ってしまったようだった。

   *

 そして、ある日、村人達も出て行った。

 彼等はある日突然、家からフラフラと出て来て、二列に並び、北の方角を目指して歩き始めた。父も母も一度も僕の方を振り向かず、その列についていった。

 僕はその光景を眺めた。僕の青い歪んだ世界から見える彼等は、背中をゆらゆら揺らしながら、陽炎のように彼方に消えていった。



     6


 そうして、僕は一人、残された。

 そして今日も、僕の思索は白日夢のように、青い瓶の中を限り無く駆け巡っている。

 僕はこの物語を自分に捧げる。

 他に捧げる者など、もう誰もいないのだ。 創造主という者がまだ近くにいて僕を忘れていないなら、別に彼でも構わない。

 でも彼が僕を祝福してくれるとは思わない。

 暗い窓辺に祝福などないのだ。


 鋼鉄の太陽がゆっくりと西の風車を越えて北へ転がる。この土地では太陽は決して沈まない。しかし、そんな事は暗い窓辺には何の関係もない。


 暗い窓辺に祝福などないのだ…。

長編小説の短編化です。読み比べればこれで十分な気もします。

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