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デンドリックの森 ~ローズクオーツの森からピンクの瞳の猫が来た

作者: あべ舞野

 不公平だ、幸運は誰かに偏っている。仲見比和なかみひわはぷりぷりしながら、お手製の塩おにぎりを噛み締めた。

 花は満開を迎えた。広場の芝生の緑を取り囲み、多数の桜が咲き誇る。花びら越しの空は、爽やかな水色だ。

 でもその景色を眺められるのは、木の下にシートを広げているグループばかり。家族連れが多い。年ごろが同じような人達は、学校か会社の同僚か。華やかな色の料理や飲み物を前にして、みんな笑っている。

 比和ひわが来たのはついさっき。もう昼だ。残された場所は、トイレに近い植え込みの前だった。敷いているのは百円均一で買った少し大きめのスカーフだ。

 今日もよれよれのジーンズだから、多少は汚れてもいい。だが何か敷いた方が花見っぽい。

 高校卒業後に上京して二年めになる。比和は一人暮らしだ。仕事は派遣。ピッキングの作業は、伝票と荷物とにらめっこ。スピードと正確性が命だ。立体パズルをしているようで、実はちょっと楽しい。意外と合っている仕事なのだろう。気に入っているものの、業務中には同僚と仲良くなるおしゃべりタイムはあまりない。

 だから花見日和びよりの日曜も、こうやって一人。ランチはおにぎりと昨夜のオカズの残りだけ。レンチンした鳥の胸肉は約に立つ。一人暮らしとはいえ、色々と生活費はかかる。

(高たんぱく低カロリー! 健康的! 花見のお供で何が悪い! いや良い!)

 一人ボケ、一人ツッコミを繰り返す。すぐにご飯は終了した。節約の為に髪も染めず、伸ばしっぱなしのハーフアップだ。

 ふと視界の端に黒い塊が横切った。ネコだ。辺りを見渡しながら比和に近づく。ふんふん、と空気を嗅いでいるようだ。目が合った。闇に浮かぶ桜のように瞳がピンクだ。

「きれいな目ね~。ピンクに見えるけど…」

 言葉が分かっているのやら。ネコは頷いた。比和の背中に頭をこすりつける。彼女の前に来て、首をかしげた。

「え~可愛い。でも何も持ってないよ」

 手を伸ばす。頭を撫でたが逃げない。それどころか首を上げたので、顎の下を掻いてあげた。

 ゴロゴロ。気持ちよさそうだ。

 ネコはくいっと頭を動かした。立ち上がる。二、三歩進んだ。振り返る。また顔を少し上げた。同じ動きを何度か繰り返す。

「ついて来いって?」

 どうせ暇だ。食事も終わった。膝を伸ばし、スカーフを畳んだ。

 グループの間をぬって芝生を踏む。広場を通り抜けると駐車場があるはずだ。だが今日は少し違う。たくさんの人がいて、ざわめきが大きい。こちらの地面にもびっしりとシートとかテーブルが広がる。ご飯ではない。古い服だったりおもちゃだったり。または本。フリーマーケットだ。呼び込みや値段交渉の声があちらこちらで上がる。

「何よ~何か買って欲しいの? あなたの店は?」

ネコは立ち止まった。まるでふふっと笑うような口元で比和を見上げる。美しい薄桃色の目に、黒い瞳孔が映える。昼間なのに大きく丸い。思わずじっと見つめた。

「にゃん」

 一声だけ啼いた。風が吹き抜け、桜の花びらと共に比和の髪を乱す。

 顔を上げた時、ネコはいなかった。比和はとある店の前にいた。小さな黒いテーブルの上に小物が並ぶ。アクセサリーは手作りのようだ。売り子は茶髪の若い女性だった。ユーズドらしいパッチワークのワンピースがいかにも今どきのお嬢さんだ。

「見てってくださ~い」

 まあ見るだけならお金はかからないし…と比和は目を落とす。陳列物の一番端っこに裸石ルースがあった。まるで、いまぽいっと置いたようにテーブルから落ちそうだ。全体的に淡い透明なピンク。水晶のようだ。だが、内部に黒い森のような模様がある。枝葉が石の中にきれいに伸びる。葉っぱはシダのようだ。石の下部の赤みが強く、地面に見える。

(さっきのニャンコの目みたいな色だな)

 そっと指で触れた。日に当たっていたのか。体温でもあるかのように温かい。いらっしゃい、と言いかけた売り子が首を傾げた。

「あれ? そんなのあったかな」

 彼女は石を手に取った。裏返してみる。そのまま奥に座る女性に声をかけた。

「これさ~値札ないんだけど」

 覗き込んだ彼女も首を傾げた。

「う~ん、見覚えないな。分からん」

 売り子は申し訳なさそうに比和に言った。

「ごめんねえ。今、責任者がいなくて幾らだか分かんない。また後で来てくれますか」

「あ、はい」

 見ていただけだ。比和は素直にその場を離れた。石はすぐにテーブルに戻された。

 さっきのネコは見当たらない。そのままぶらぶらとフリーマーケットを見て歩いた。だんだん強くなる風に乗って、桜の花びらが吹き付ける。

 賑やかな呼び込み、笑い声、たわいのない会話。様々な音色が混じり合う。比和はそのどこにも加わっていない。まるで三次元の動画を見ながら、一人で歩いているようだ。

 太陽が西に少し傾いたようだ。空が少しだけ茜色になった。


 

 雲が一つもない。ピンクの空が頭上に広がる。比和は一人で森の前に立つ。

(ああ、夢だな。何て言ったっけ?)

 明晰夢というやつだ。眠っているはずなのに、夢の中にいるのだと意識できる状態だ。

(どうせ夢だもんね。少し先へ行こう)

 一歩を踏み出す。地面は薄い茶色だ。空気と繋がっているように境界がはっきりしない。。でもしっかりと比和の足を受け止める。

 森へ向かう。筆で描いたような形ながらも、木々はすっと枝が伸びてきれいだ。そして幹も枝も、葉の先にいたるまで、少し緑を含んだ黒だ。でも圧迫感はない。むしろ癒されるような闇の色だ。

 木々がまばらになった。もう少し進めば、拓けた場所に出られそうだ。

「にゃ~ん」

 ネコがどこかで鳴いた。

 ふと、頭の中で声がしたようだった。

 ……君は、本当は何がしたいの?……

 それは。

 覚醒しているのか眠っているのか。はっきりしないままに、比和は正直な気持ちを口にする。

「ゆっくり起きて、景色の良い場所に出かけるの。一日中日向ぼっこして、迎えてくれる人がいる家に帰る」

 おかえりなさいって優しい響きがあれば最高。

「にゃ~ん…」

 鳴き声が、まるで『おいで』と誘っているよう。思わず足が動く。

(このまま行ってもいいの?)

 迷いが生まれた。不安が押し寄せる。

 背後を振り返った。地面が消えた。比和の体はどこでもない場所に浮く。そのまま急降下だ。

 どすん! と落ちた。自分の体の中に。手足が震えた。息が荒い。目を開けると自分の部屋だった。

 ベッドとローテーブルだけ。壁にかかった上着がディスプレイ替わりみたい。食べかけのお菓子の袋が枕元。それでもちゃんと洗濯ばさみで口を閉じてある中途半端な律儀さ。いつも通り。

(え~と…どうしたっけ?)

 そうだ、公園を出てスーパーに寄った。そしてアパートに帰った後、着替えもせずに寝てしまったのだ。立ち上がってカーテンを閉めた。スマホで時間を確認する。夜の七時だ。もう一度ベッドに座る。改めてローテーブルに目をやる。キラリとピンクの反射。飲みかけのペットボトルと並ぶのはあの石。

「あ?」

 変な声が出た。

 持って来てしまった? いや、確かに販売員の手にあった。その後はテーブルに置かれたのを見ている。

 比和はしばらく呆然と石を見た。手の平でほんのりと温かい感じがする。幾ら考えても、どうしてこれがあるのか分からない。

 だがとりあえずは、できる事をするまでだ。

「ご飯食べるか」

 冷凍のご飯の上に、もやし、キャベツ、特売のハムを乗せてレンジで加熱。焼肉のたれをかけて本日のディナーが完成だ。

 石を見ながらご飯を食べた。返すべきだろう。だがどこへ? フリーマーケットは今日だけ。出品者の名前さえ知らない。

(どうしよ)

 柔らかいピンクは、見ているだけで心が落ち着いた。木々の模様はどこか懐かしい感じさえする。

 家族はどうしているだろうか。彼らは飛行機の距離に住んでいる。比和は高校卒業後に上京した。就職先は決まっていなかった。ただあの狭い世界を離れたい。その一心だった。ぽいっと箸を放り出す。冷蔵庫から紙パックのジュースを出した。パックのまま飲む。それで戻しても誰にも何も言われない。気楽な一人暮らしに後悔はない。

 それなのに、なぜか時折思い出す。

 比和の家族の在り方。祖父、両親、四歳離れた姉。

 姉は目が大きくて可愛らしい。七五三の写真に始まり、華麗なピアノ発表会のドレス。中学校、高校は私立。雨が降れば車で送迎。成人式には華かやな振袖と豪華なお祝い。奨学金なしの大学。

 妹の比和はどうか。誰に似たのか細い目。か細い体。小学校入学の時に、水彩用の色鉛筆セットを買ってもらった。パッケージはどこか知らない山だ。雪をかぶった美しい姿だった。絵を描くのは大好きだった。好きな色に自分の世界を染めるのは楽しい。

 しかし幼い比和は知らなかった。まともなお祝いは、これが最後だったのだ。

 服はおさがりが当たり前だった。習い事は水泳、しかも一人でバス利用だ。。中高は公立。大学に行きたいのなら自分で奨学金を借りて行けと。借金を負ってまで行くほど勉強は好きじゃないから、それはいい。ただ母の言葉は突き刺さった。

『お姉ちゃんには、近所に恥ずかしくないようにしてあげないと。じゃないと可哀そうでしょう?』

 じゃあ私は? そんな問いかけにはいつもこの答えだ。

『焼きもちやくんじゃないの。僻みっぽいのは恥ずかしい』

 同じような育て方をしたはずなのに、比和だけ素直じゃない子供に育ったそうだ。強欲で困る、と親戚にも言いふらされた。

 住んでいる人みんなが知り合いのような町だ。お互いの冷蔵庫の中身さえ知られているのではないか。

 息が詰まる。

 そんな場所から逃げ出したかったのだ。

 でも、気になる時もある。

(お爺ちゃんは元気かな…)

 祖父からは、姉と比べられる言葉を掛けられた事はな

 現在の様子が少し気になった。ずっと連絡していない。だから、普段は全く見ないのに姉のSNSを見てしまった。

 そして比和の手が止まった。最新の写真。姉は白いベッドの上。祖父母、両親に加えて見知らぬ男性。姉の腕には白い産着に包まれた赤ちゃん。

『サイコーの贈り物!!』

 日本の人口が一人増えていた。

 何の知らせも無かった。比和の知らないうちに姉は結婚。出産までしていたのだ。そこに比和はいなかった。

(家出したわけじゃないのに…)

 喧嘩別れでもなく、絶縁宣言もしていない。普通に上京した、つもりだった。だがもう家族の一員としてカウントされていなかった。

 他にも何枚もの写真がUPされている。どこかの滝の前や、渓谷の写真。旅行に行ったのだろう。祖父母、両親らとピースサインで笑顔だ。目元に加工があっても、雰囲気で分かる。そして披露宴の様子。清楚な白、お色直しのバラみたいなドレス。

(お爺ちゃんまで教えてくれなかった)

 そう、優しいと思っていた祖父も楽しそうに家族の環の中だ。

 ため息が漏れた。

 確かに祖父は何も言わなかった。何も。

 逆に言えば放置でもある。比和の置かれた状況に興味がなかったのかもしれない。だから攻撃もしないが手を差し伸べもしない。足元が砂になって、崩れていくような気分だ。自分から出ていったはずなのに、とっくに家族から切り離された存在だった。捨てたつもりはないのに捨てられていた。

 鼻から大きく息を押し出す。あぐらになった。大きく両腕を伸ばして回した。肩に乗った何かを振り払うように。

「ああ、すっきりした!」

 しがらみが無くなったのだ。空虚感はあるけれど、ここまでされるといっそ清々しい。

 ぽん、とスマホの通知が鳴った。高校の同級生からだ。今でもやり取りがある数少ない友達だ。メッセージが来た。こちらは違う驚きだ。婚約の報告だった。

結婚式は両家の家族だけで、披露宴はやらないそうだ。

『比和、いつこっちに帰る? その時に会いたいね。彼ピ紹介するよ!』

 帰るか? 実家にはまだ比和が寝られる場所があるだろうか。それでも、彼女の幸せ溢れる絵文字たっぷりの文章には笑顔になった。すぐに返信する。

 …心からおめでとう。彼ピの写真を送ってよ…

 ピコン。またメッセージ。

『は~い、こちらで~す! 比和の夢も、早く叶うといいね!』

 叶えたい夢。高校生の時、友達に話したのは何か? それさえ比和は忘れていた。 

 


 容赦なく一週間が始まる。重い灰色の雲の下、比和は出勤だ。満員電車に揺られて一時間。大きな倉庫が仕事場だ。仕事はピッキングの派遣社員である。ネット注文の品を在庫の棚から探しだす。伝票を片手に、体育館より広い倉庫内を行ったり来たり。それから梱包チームに引きつぐ。作業の多さや当日の出勤人数によっては、梱包や仕分け、発送なども行う。

 一見、単純な作業だ。だが比和はこの仕事が好きだ。どのようにして歩く距離を少なくするか、どれだけ早く揃えられるか。一人で目標設定してクリア。楽しい。体は疲れる事もあるけれど、どうせ一人だ。家に帰って寝転んだままでも誰も何も言わない。だから思い切り仕事に打ち込める。また、そうやって手を頭を動かしていれば、余計な事も考えずにすむ。

 制服もなく、エプロンを付けるだけでいいのも手軽だ。比和はだいたい少しゆったりしたジーンズだ。

 前日の良い天気とはうらはらに、今日は曇りだ。それでも、昼休みには比和は倉庫の外に出た。芝生のある中庭がある。自動販売機でお茶を買い、ベンチに腰かけた。持参の塩にぎりは、雨が降らなければいつもここで食べる。ランチはすぐに終わりだ。

(ご馳走様っと。あ、お祝いを買わなくちゃ)

 結婚祝いは何がいいだろう。スマホを出そうとポケットに手を入れた。固く、少し温かい感触。あの石だ。

「え」

 ローテーブルに置きっぱなしだったはず。呆然としていると、同僚が歩いて来た。比和よりも少し年上の女性だ。ショートカットの茶髪が耳の傍で揺れる。

「おつかれ~、仲見ちゃん」

「はあ」

 入れ替わりの激しい職場だ。比和は名前を知らない。確か主婦のバイトだったと誰かから聞いた気もする。彼女はコーヒーを買った。比和の隣に座る。

「お邪魔。今日は雨が降りそうだね」

 彼女は比和が持つ石に目を留めた。

「あら! すごい素敵なデンドリック・クオーツ! 買ったの?」

「まあ…もらったというか」

「へえ~。そんなにきれいに模様が出ている石ってあんまりないよ。見せて?」

 彼女はとろけそうな顔で石を撫でまわした。

「森みたいになってる。貴重品だよ。良かったね」

「レジンじゃなくて?」

 彼女は空に石をかざした。

「違うよ。これ、ローズクオーツだよ。水晶。デンドリックっていうのは、水晶とかオパールの裂けめに入った物質が作った結晶。それで色々な模様ができるんだよ」

 それから一つ息をついた。石を返す。

「実はさ~私、今週でやめるんだ。仲見ちゃんとは長かったから言っておくね」

「え、ああ、そうなんだ…。残念…」

「仲見ちゃんはずっとこの仕事するつもり? 若いから、いくらでも仕事を選べそう」

「考えてないなあ…」

「そうかあ。ごめん、余計な事言って。自分の体がきつくなってきてね。気持ち的には楽な職場なんだけどさ、私でなくちゃって仕事じゃないからね。辞めて動画配信してみようかなって考えてる。そしたら見てね!」

 彼女は立ち上がった。乾杯するように缶コーヒーを掲げて歩み去る。また一人、顔なじみがいなくなる。同僚も派遣が多い。シフトがかなり思い通りになるおかげかもしれない。見慣れた顔がいつの間にかいなくなる。そんなのも慣れっこだ。

 比和は手の中の石を見た。

(デンドリ?)

 スマホで調べてみた。どうやらデンドリティック、或いはデンドリックなる物らしい。

 二酸化マンガン、酸化鉄などが割れ目に沁み込む。そして比和が持つ石のような樹枝の模様となる。自然物だから様々な形だ。他にはシダとか骨、或いは網目状。これらの模様を内包物インクルージョンとも呼ぶ。

 ネットの画像には、幾つものデンドリック・ストーンが並ぶ。それらとは比べ物にならないほど、この石のインクルージョンは緻密で美しい。

 それでも勝手に付きまとってくるとは、やはり呪物か。

(オカルトチックな事は信じてないんだけどな~。勘弁してよ…)

 雲が増えたようだ。風が強まった。比和はそれでもベンチにいる。俯いて考えた。

(…『私でなくちゃって仕事じゃない』ってあるのかな…ここも楽しいけど…)

 もともと自分は何になりたかったのだろう。知り合いもツテもない都会へ来た。未経験ですぐお金になる仕事は、派遣だった。中でも物が相手のピッキングは比和に合ったようだ。その日を過ごせるからずっと続けている。

 雨が落ちて来た。のろのろと立ち上がってベンチを離れた。休憩室へ戻る。シフトの関係で、全員一斉には休憩を取らない。大きなテーブルが四つ。エプロンを付けたまま、今日の派遣たちが各々寛いでいる。流しやレンジもあるため、ここで過ごす者は多い。

(どこに座ろうかな)

 視線を巡らすと、壁の掲示物が目に入った。正社員登用のお知らせだ。業務は役目は派遣のとりまとめ、いわばリーダーである。また有能と認められれば倉庫の事務作業や、さらに上のポジションも狙える。それは替えの効く誰でもできる作業だろうか。

 比和は少し迷った。取り敢えずポスターを写真に撮った。

 業務再開の時間だ。遅番の派遣が昼休みの為にやって来るだろう。

「よし」

 誰にともなく呟いた。自分でも意味は分からない。エプロンの紐を締め直して、再び倉庫に戻った。



 午後の雨は、夕方にかけて強くなった。自宅最寄りの駅に着いた時は、もう土砂降りだ。

(コンビニ寄って帰るか)

 花見の公園の傍だ。雨に打たれる桜の陰から人影が現れた。まるで闇から抜け出したかのような、上下とも黒い服だ。まるで執事のような品の良い細身の上着だ。しかし夜目にも鮮やかなピンクの髪。若い男性には珍しくもない髪色だろう。頭上の桜のおかげか、さほど目立つ感じでもない。

 コンビニ側へ曲がろうとする比和に声をかけた。

「考えてくれた?」

 何かの勧誘かもしれない。無視だ。

「にゃ~ん」

 ネコの声だ。いつ現れたのか、ピンクの瞳の黒ネコだ。青年は少し屈んで抱き上げる。服に体の色が馴染み、二つのピンク色が比和を眺める。

 比和は足を停めた。少し傘をずらして一人と一匹を眺める。彼らは傘が無いのに濡れていない。まるで別の空間にいるようだ。

 また明晰夢か。

「相手をお間違えでは? 私は地道に暮らしているタダの小市民なの」

 青年は目を細めた。丸い顔で年ごろは分からない。まだ十代なのか。まとう雰囲気はどこか老成した感じもある。

「選ばれるはずだね、面白い」

「私は面白くない。石があなた達の仕業だったら返す。付いて来る石なんてコワい。オカルト系の勧誘なら間に合ってます」

 何気なく風を装いながらも、心臓がばくばくする。現実感が今一つない。

「ははは。本当に面白い」

 青年は声を立てて笑った。身をよじったので、抱かれているネコが苦しそうだ。

「立ち話でごめん。君の部屋に行く?」

「お断り!」

 どうしようか。コンビニで警察を呼んでもらおうか。

「ではこうしよう。僕らの方へお招きするよ」

 青年が片手を挙げる。指を鳴らした。

 世界が一変する。比和の周囲はピンク色に変化した。夢で見た場所だ。ただ、地面は茶色に近い黒だ。はるか頭上はピンク。

 だが青年の背後には明るい青空が広がる。緑の林があり、奥には家々。ヨーロッパの童話に出て来るような形と色の可愛らしい造りだ。

「君を迎えに来たんだ。待っている人達がいる」

「はぁ?」

 やはり起きたまま夢を見ているのか、或いはもう家に帰って寝落ちしたか。

 青年がやれやれ、と首を振る。

「ローズクオーツを見ただろう? ここはデンドリックの森だ。僕らが住んでいる場所だよ。今、君も立っている。時々新しい住人をお迎えするんだ。選ばれたのが君」

「…やっぱり呪物か…」

「呪いじゃないよ! こことはちょっと違う…いわば君らの世界と並行する次元とでもいえばいいのかな? 地球よりも少し空間が狭いようでね。時間の流れも違うようだ。だからときどき人手が足りなかったり、消えた者の補充が必要だったりする。それで外部から人を呼んで一緒に暮らしてもらうんだ」

 青年はにっこり笑った。明るい処だと顔の造りがよく分かる。そのままアイドルでもできそうなかわいらしさだ。

「僕はバトー。お迎えの係をしている」

「まさか、私は死ぬの…?」

「逆だよ。新しい土地で生きるんだ。食べ物は美味しいし、人は優しい。天候もいつも穏やかだ。外部から干渉が無いから平和だよ」

「なぜ私?」

 ネコがひらりと青年から降りた。しっぽを立てて比和に歩み寄る。口を開いた。

「ごめんよ、正直に言おう。君が孤独だからだ。君に仲間や友人や家族を作って欲しい。そして一日中、暖かい場所で日向ぼっこができる」

 まさに先日の夢で、比和が思い描いた事だ。

 比和は数歩下がった。ネコが人間の言葉を喋った。

 ネコが続ける。男なのか女なのか分からない柔らかい響きだ。ネコ語をそのまま人間の言葉に乗せたら、きっとこんな調子かもしれない。

「君が消えても、この世界は何も変わらないだろう。だから後顧こうこの憂いなくこちらへおいで。誤解しないで欲しい、君がここで不要な存在だと言っているんじゃない。私たちの世界が、より君を必要としているんだ」

 青年も加勢する。

「そうだよ。一度来てみればいい」

「違うなって思ったら戻れるの?」

 ネコが答えた。

「そう。君はいつでも行きたい処へ行けるんだよ?」

 比和の心がぐらついた。どうせ夢ならば、あちらへ行ってもいいかもしれない。ネコの言う通りだ。彼女が消えても仕事は別の者が滞りなくやれる。実家の家族は探すだろうか? 連絡が無いのは無事、とでも思っていそうだ。友人は? 不審には思うかもしれない。でも彼女には新しい生活がある。そちらへ集中するだろう。一番困るのはアパートの賃貸契約だ。だが荷物はとても少ない。

 だったら、向こう側の世界を体験するくらいは良いのでは?

 それに、これが非現実なら迷う必要などあるのか? 

 青年がまたネコを抱き上げた。

「僕の名前はいざないのバトー、苗字はない。こっちはネコのバトー」

「同じ名前なの?」

「うん。住人は全員が同じ名前、バトーなんだ」

 パン屋のバトー、仕立て屋のバトー。仕事や住んでいる場所で呼ばれる。いわゆる二つ名、屋号のような物だ。

「川べりのバトー、丘の上のバトーもいるよ。あちらは自然も豊かで美しい。携帯電話やネットは無いけれど、生活自体はあまり変わらないかもね」

「私もバトーになるの?」

「そうだよ。どこに住むか、何を手伝うかは君次第。それで呼び名も変わるけれど、やっぱりバトー。みんな同じだ。家族であり、仲間だもの」

 …今、私は孤独。

 比和は心の中で繰り返す。

 目を背けていた言葉。敢えて考えないようにしていた境遇。ご飯は一人、寝るのも一人、休みも一人、一人、いつもいつも一人ぽっち。

 この森を抜けたら…

 夢なら、どうせ目覚めたら消えるのなら。優しい生活が待っているなら。

 仲見比和という個人は消えても。

「あ」

 比和は一歩下がった。体の脇に垂れていた拳を握りしめる。

「…行かない」

 ネコがイカ耳になった。シュウ~と唸ったようだ。誘いのバトーが尋ねる。

「何が心配かな? 聞いてくれたら答えるよ」

「…そうじゃない。私はまだやる事があるから」

 確かに一人で過ごす事が多い。だがそれは自分が望んだから。仲見比和として、自分自身で立つ。孤独じゃない。自由だ。

 ネコのバトーが言った通り、自分の世界で行きたい処に来て、好きなように生きている。

「君がやりたい事は、デンドリックの森でも全てできるよ?」

「違う。私はバトーじゃない」

 目をつぶった。大きく首を振る。目に見えない降りかかる霧を払うように。



 ピッ、ピッと電子音。レジ打ちのPOSだ。目を開くと近所のコンビニだった。いつの間にか公園を通り過ぎて、本来の目的地にきていたのだ。

(起きたままで夢かよ…)

 なんとなく体がふわふわする。肉体と、手足を動かす感覚が一致しない感じだ。魂を一度抜いて、体に押し戻したみたいだ。

 飲み物だけ買ってアパートへ戻った。

 びしょ濡れのズボンを脱ぎ、部屋着に着替える。ベッドに寝転がった。見慣れたベージュ色の天井。決してピンクの空じゃない。迎える声もない。

(行けば…良かった…?)

 と思ってしまう。腕を顔の上に乗せた。

 違う。ここでいい。そう思いたいし、思えるようにしたい。

 故郷の友人に結婚祝いを送らなくてはならない。辞める同僚へ餞別の集金があるかもしれないし、SNSもお願いされたからには一度くらいはイイねを付けないとだろう。確かに暮らすのは一人。でも繋がりはクモの糸並みだがある。

 そして比和がこちらでやりたい事。

 …私の現実の夢って何だっけ? デザイン関係の仕事だっけ? それとも仲の良い家族が欲しいとかだっけ?

 友人に告げた高校時代の希望。ぼんやりとして思い出せない。それほど大事じゃなかったのか。それともあまりに大切すぎて、心の奥底に沈めて隠してしまったか。それなら思い出したい。そしてネコのバトーの言う通り、本当に行きたい処へ向かうのだ。

(結局はネコの発言を信じてんじゃん、自分)

 おかしくて、少し哀しい。

 雨音はさらに激しい。けれども不揃いな音楽のように、ただ横たわるだけの比和を包んで流れた。



 翌日。少し早めに出社した比和は倉庫の責任者に会いに行った。そして正社員募集の為の書類を受け取ったのだった。何をするにしろ、まずは経済基盤と身分をしっかりしよう。比和の決意だった。



 少し緑を含んだ黒い木々。茶色の地面にいざないのバトーがいた。そこへ、ゆったりと歩み寄るのは年老いた男だ。彼は軽く片手を挙げた。

「やあ、誘いのバトー。今回は失敗したって?」

「はい、長老のバトー。一度は来たそうだったのですが」

「大切な条件は満たしたのだがね」

 二人は並んで歩き始めた。すぐに森が途切れる。地面の色が濃くなった。木の板が並ぶ。集落はさらに小さな森を挟んだ向こう側だ。

 ここは墓地だ。長老のバトーは、新しい墓標に向かって、胸に手を当てて礼をした。ここに眠る女性も外来者だ。

「この異界のバトーは、長い間をよく尽くしてくれた。代替わりの女性に来て欲しいものだ」

「そうですね。私たちには必要です」

 デンドリックの森は閉じた空間だ。住人バトー達の外見は殆ど変化しない。そのせいなのか元々の住人同士だと、子供は殆ど生まれない。原因は分からない。だが外界から人を招き入れた時は違う。外界の人間同士だったり、元の住人との間にも生まれる。集落は人が増え、活気が増す。けれど外界の血を継ぐ者は、親の寿命をも受け継ぐ。本来のバトー達ほど長生きはできない。

 だから、不定期ながらも補充が必要となる。ターゲットになったのが比和だった。

 誘いのバトーが確かめるように言う。

「お迎えするのは、若くて健康。その者がいなくなっても、周囲が騒がしくならない事…ですね」

 そしてとても重要な資質。長老のバトーが補足した。

「そう、加えて健全な精神。性根が曲がっていない者。それでなくてはこの森を越えられない」

 比和は茶化すような言い方をしたり、つっけんどんだったり。誘いのバトーへの態度は、あまり宜しくはなかったかもしれない。だが見知らぬ人物に対しては当たり前だろう。彼女は世を拗ねた見方もする。だが芯の部分はまっすぐだった。

 誘いのバトーは腕を組んだ。

「ぴったりだと、ネコのバトーが言ったのです。彼女が曲がっていないのは事実でしたが、頑固でしたね。なかなか曲がりそうもない」

「ふむ、美徳でもあろう。そのネコのバトーはどうした? いないな」

「次のターゲットを探しているのでは? 見つかれば連絡が来るでしょう。急ぎませんしね、僕らには時間がある」

 デンドリック・ローズクオーツは異世界との出入口だ。住民を絶やさぬ為に人を探し、連れて来る。それで目を付けた者の手元に、石が勝手に移動するのだ。住人にとっては、いつもの世界、いつもの日常の一コマだ。

 デンドリックの森から外界へ移住はできる。だが生物として性質が違いすぎる。妖怪だの悪魔だの呼ばれる存在となってしまうのだ。

 誘いのバトーの心に、ふと寒々とした風が吹き抜けた。

 いつでも、どこにでもお迎え係の自分とネコのバトーは赴く。だが結局は森に戻るのだ。そして他の住人と共に悠久の時を生きる。

 美しいこの場所で。とても穏やかな日々を。ひたすら繰り返して。



 比和は正社員の登用試験に合格した。まずはリーダー昇格の為の研修が始まった。WEB受講に加えて集合研修もある。そこでパンツスーツを新調した。ローファーを履いてさっそうと本社へ通っている。アパートの玄関を出入りするたびに目に留まるのは、靴箱の上のピンク。あのデンドリック・ローズクオーツ。

 それは、まだそこにある。

 

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