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男が退院するまでの約半年。大した病人は現れなかったが、頻繁に訪れる少女の姿があった。
少女は私の元へ現れる度に酷い息切れと、弱すぎる心拍を見せ、何度も何度も私を困らせた。まあまだ小さな子供のようだから、「宇宙に行きたい!」なんて難しい注文は子供が信じそうな嘘で誤魔化してしまったことも多々ある。最初はかなりの重症患者と見せておいて、欲しい物を差し出すとすぐにけろりとした顔で去っていく。ちょっと恨めしい存在とも思っていた。
「おはよう。大丈夫だったかね」
男が退院した。いつもの白衣の姿を見たら何だか心が軽くなったような気がした。私は男に希望病の女の子の事を全て話した。すると男はにっこりと微笑んで言った。「もうそろそろ来なくなるよ」と。
「何故ですか?」
「希望病はね、半年ほど発病したら五年間ほど休憩を取るんだ。そしてまた発病する。でもあれは本当は大人が発病する病気でね。あの子はまだ子供だから自分の病の事なんでこれっぽっちもわからないし、無欲になりたいなんて気持ちにもならないんだよ」
「面白い病気ですね、本当に」
「まあとても苦しいんだけどね」
先生が言った通り、あと数回ほどやって来たっきりあの女の子はやって来なくなった。あの子は今確か今年で十歳だと聞いたから、今度会うのは十五歳になってからだ。少しだけ私は心の中で大人になった彼女に会うことを楽しみにしていた。
人間、歳を取ると年月が経つのが遅くなるという話がある。まあどちらかといえば『速くなる』の方が正しいようだが。……医者としてまだまだ未熟な私にとって、とても短い時間だった。男が車に撥ねられてから何年経った? 四年……いや五年だ。
私は、屈強のない笑みを浮べる男をちらりと見た。男はずっとその顔をしているばかりで、皺一つ動かさない。少し咳を吐いてから私はまた握り慣れたシャープペンシルを取った。
私は三十になった。三十路と蔑まれるそれになった訳だが不思議と不快感はない。医者である私にとって、時が経ち自分の見た目が老いていくのは寧ろ都合の良い事だった。若い医者よりも、威厳ある年老いた医者を患者は選ぶのだ。そうそう、私がここに来た時はあの男が一人ぽつんと椅子に座っているだけで他に誰もいなかった。だから、手術の手伝いをしようと思ったのに、男は私にメスも鉗子も握らせなかった。そしてあの穏やかな声で、
「君が手術をすると聞いたら、患者はきっと嫌がるだろう」
私はその言葉を恨めしいと思ったし、憎いとも思っていた。
鏡に映る私の顔は少し皺が増えていた。威厳というものが出てきたようだ。……今思えば、あの時の自分は若かった。患者だって自分の身を切り裂かれてしまうのだから、相手を選びたいだろう。医者の卵という事をむき出しな私に手術を頼むわけがない。今だって、「私が手術を担当します」と言うと眉間を寄せる患者がいる。まだ私は未熟なのだ。
男がまだ私に微笑みかけている。それが辛かったので、私は男をぱたんと倒した。男の机の中にはもう何も入っていない。男のロッカーにも何も入っていない。男の物はもう何もない。
小さな黒い縁の中で男は笑っていた。
男は私が三十を迎えるのと引き換えに、お空へと還ってしまったのだ。そしてその時、私は『五年』の意味を履き違えていた。本当は『男が生きていた五年間』という意味ではないのに。本当は、『病が鎮まる五年間』だったのに。