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それから数日後。私が勤めている小さな病院の粗末なベッドの上ではなく、大きな大学病院の柔らかく綺麗なベッドの上で男は目覚めた。車に撥ねられた事での脳損傷、肋骨骨折。腕も複雑骨折していた。私が急いでその病室に駆けつけた時、先生はいつもの白衣ではなく患者用の淡い水色をした服を着ていた。頭に巻かれた包帯に腕を支える白い布。右頬に貼られた大きなガーゼ。
男は私を見ると、自分の手前に置かれていた皿を取って、私にそれを差し出した。
「林檎、食べるかね?」
私は思わず脱力した。
男の隣、包丁で林檎を器用に剥いていた女は私を見ると、手に持っていた剥きかけの林檎と包丁を置いた。男の妻であるあの女だ。「お見舞いに来て下さって、ありがとうございます」と礼儀正しく振舞う姿からは、あの電話の声はとても想像できない。
「いやあ、真っ暗で信号機もずっと黄色点灯していたから、車も私もお互いの存在に気付けなかったんだ」
「……先生、大丈夫ですか」
「それがね、骨折してしまったのが利き腕でね。簡単な診療は出来るけど注射とか手術とかはもう無理だろうね。いやあ、昨日女の子に『車には気をつけてね』って言ったばかりでこれだ」
ははは。と気さくに笑う男を見ながら私は項垂れた。今私が勤めている病院にいる医師はもう私とその男しかいないのだ。とても小さな病院だから二人で足りるのだが、たまに小さな手術もしなければならない。まだ私は未熟者だから、出来るだけもう少しこの人の隣で勉強したかった。
「先生、そういえば私、例の病気について勉強しました」
「何の本を見たんだい?」
「赤くて大きな本で……世界の病大全集とありました」
「そうかいそうかい。それは私が帰宅前に置いて行ったものでね。昔はあれで勉強したものだよ。私の宝さね」
兎の耳を立てた林檎に爪楊枝を刺しながら先生は言った。私は思わず昨日投げてしまった事を謝ろうかと思ったのだが、踏み出せなかった。
「その病の患者は君に任せるよ。私ももう少し現役で頑張るから」
「あなた……!」
「大丈夫大丈夫。私は消毒作業とか、まあ簡単なのしかしないから」
しゃくり、と先生は音を立てながら林檎の一つを齧った。私はその姿から、アダムが知恵の実である林檎を食べてしまった瞬間を密かに思い浮かべた。