3
私は出来る限り古ぼけていて厚みのある本を棚から下ろした。血のように赤い表紙には金の文字で『世界の病大全集』と記されていた。よくある名前だと嘲笑しながらそれの後ろのページを開く。そこで私は何度も何度も瞬きをした。索引ページにどっさりと綺麗な縦を描きながら並ぶ文字、文字。字のサイズなんてこれこそ広辞苑の辞書よりも小さい。私が抱きかかえないと持てない程の重さと大きさに、この繊細過ぎる小さな文字。引き出しから胡散臭い探偵が持つような大きな虫眼鏡を取り出しつつ、こんなもの見てしまっては将来自分は老眼になるだろうと心の中で泣いた。
索引には誰かが読んだ後がいくつも残されていた。赤鉛筆で×やら○やらかかれた病名達はどれもこれも私が知る由もない病気ばかりだった。
「青枯れ病赤星病……なんだこれ植物の病気じゃないか」
どうやら×がかかれているのは、植物や動物……哺乳類以外の生き物がかかる病らしい。さすが世界の病大全集。とりあえず私は『N』の欄にある病を隅々まで見た。脳炎、膿病……しかし望み病はどこにもない。ガセだったか。と思いたいのだが、朝来た患者を思い出してしまう。あれは十分過ぎる程の証拠だ。
私は目頭を揉み解しながら、さてどうするかと思案した。とりあえず索引を適当に見直している所ですぐに手が止まった。赤鉛筆で色々と書かれている病名の項目の中に一つだけ、青鉛筆で囲まれた病気があったのだ。
「……希望病?」
病気の横には『精・重』と、青鉛筆で書かれており、見るからに神経質そうなその文字は先ほど病院を出て行った彼を彷彿とさせた。近くに転がっていたあの男が書いたカルテにも、ほぼ同じ筆跡の文字が残されている。……まあ、特徴的な文字だからわかったというか何というか。
これほど古い本だし、今は望み病と言われていても昔は希望病だったのかもしれない。私は希望病が書かれているページを開いた。その瞬間、粉のような白い煙が吹き上がる。私はごほごほと咳をしながらその本を投げた。結構丈夫に出来ているのか、本は一回弾むとその場に項垂れた。
手術用のマスクとゴム製の手袋を装着してから私はまた本を開いた。ページの文字は埃によってほぼ埋まってしまっている。私は手袋をしたその手で丁寧に埃をどけた。
『希望病 : 別名 望み病』
その文字を見た途端に、ついに見つけた! と私は歓喜した。 埃のせいで充血し始めた瞳で文字を追う。男が言っていた事と同じような文が並び、病気の由来が明らかになった。
アダムの罪に憤怒した神が創成したという病
深い欲を疎むかのような病状から希望病と名づけられた
治療法は不明 病人の欲望を受け入れる事で一時の対処は可能
この病の存在を疑問視する医者も少なくはない
「……発病した患者にはいずれにせよ十年の間に死が訪れる……」
ごくり、と息を呑む音。私が発したとは思えないそれの後に、電話が鳴った。私はこの現状と電話の音を関連付けているのかわからないが、電話を取る際に指先に恐怖が走った。
「はい、市民病院センターですが……」
『病院の方ですか?』
ゴム手袋をしたまま取ってしまった受話器から聞こえる女の声には、落ち着きというものがなかった。息を荒くし、ヒステリックに上げられるその声だからこそ、最初は誰かはわからなかった。
『佐藤宗佑の妻です! 佐藤郁恵です!』
「あ……お久しぶりです」
『夫が……!』
私は暫く息を吸うのを忘れた。声も出なかった。ただ、埃で乾いてしまった唇を薄く開いたり閉じたりするので精一杯だったのだ。
そしてその時初めて、この病院の薬品の臭いというものに気付いた。子供が嫌うあの臭い。私がずっと働いていた薬の臭い。ここは病院なのだ。生と死の狭間なのだ。
「……宗佑先生が……車に……?」