2
勢い良く病院の扉が開く。(その頃は自動ドアという便利なものはなかった)その時、私は冷め切ってしまった珈琲を飲もうとしていた。あまりの親の険相に、一瞬私はたじろいだ。が、すぐに聴診器を耳に付けながら、親の背にいる子の顔色を伺う。自分のこういう所はやはり医者なのだと思った。
「症状と、発症したときの時刻、それとしていた行動を教えてもらえますか」
まだ傷一つ付いていない自分専用の机の引き出しからカルテを一枚。母親のくしゃくしゃな顔は今にも泣き出しそうで面倒臭いと内心思ったし、父親は父親で随分と優柔不断な性格のようで、額に手をやりながら「あー」だの「うー」だの呻いていた。とりあえず患者をベッドの上に横たわらせる。
「……あの、息がしにくそうで。こうなったのは本当についさっきなんです。突然で……。それで、その時は私と一緒にテレビを見ていました」
「そうですか。じゃあ急性の病気かもしれません。脈拍が弱まっていますし」
青色のハンカチーフを顔に押し付けておんおん言っていた母親がふと顔を上げた。
「娘は……助からないのですか!?」
「まだわかりません」
ああやっぱり男じゃないんだ。と私は密かに心の中で呟いた。スポーツ刈りかと聞きたくなるほどの単発に、女としてはあまり褒められたものではない容姿。どちらかといえば男勝りな感じだが、幼児の男女の区別くらいきちんと出来る。
脈拍や患者の情報をカルテに書き込むと、私は先ほど重症患者がいたら呼べと言っていた彼を呼ぶことにした。数分ほどでやってくるのだから中々律儀な男だ。
男は脈拍を見てから顔を顰め、子供の様子を見て更に眉間の皺を深くした。私は小声で「難しい病気なんですか」と男に聞いたのだが、男は首を横に振り、「寧ろ簡単な病気だよ」と苦笑いしながら言った。男は至極柔らかで優しい声で両親に問うた。
「この子が疾患で倒れる前に、何か欲している物などはありませんでしたか」
両親はその質問に首を傾げたが、すぐに何か思い出したようで大きく甲高い声を上げた。
「青いリボンです! コマーシャルの小さな女の子を見てあれが欲しいと!」
「……」
男は私に「青いリボンを至急買って来い」と耳打ちした。私は意味がわからず仕舞いだったのだが、娘が助かると知った両親は安心したようで、何度も何度も安堵の溜息を吐いていた。
私が買ってきた青いリボンを手にした患者はさも満足気に微笑んだ。さっきまで脈拍ぎりぎり、息も絶え絶えだったのが信じられない程に元気そうだ。私はその子の頭に青いリボンを結んであげた。両親もにこにこと微笑みながらそれを見ていた。少し不快だった。
人騒がせな患者とその親が去っていく背を見詰めながら私は男に尋ねた。「あの病は結局なんだったんですか」と。男は頭を掻いてから小さな声で言った。
「望み病。イヴとアダムの時代からの病で、ずっと昔になくなったはずなんだ」
「……はあ。私は聞いた事がないです。そんな病名」
「これは精神病の一つでね。人間の要求する心のブレーキが利かなくなってしまうんだ。だから欲しい物が手に入らないから悲しい、みたいな憂鬱をほんのちょっとでも感じたら体が過剰反応して、心拍低下・呼吸器疾患を起こす。下手をすれば死んでしまうような病気でね。まあその時に本人が欲している物を与えれば治るのだけど。しかし完治する見込みがなくて、欲しい物がある限りそれが繰り返される。それによって積み重なったストレス、無欲になりたいという欲望から外からの通信を一切絶つ。最後には自殺してしまうんだよ」
「何でそんなに詳しいんですか?」
「昔大学で少し勉強したんだ」
長く言葉を発していた事に疲れたのか、男はふぅと一息吐いた。それを見た私は、台所に飛び込んで新しいカップに暖かいコーヒーを淹れた。台所から見える男の背は少し小さくて、力のないものに見える。歳のせいだろう。この前三十代後半だと言っていたが。
「アダムとイヴというのは人間の始まりというか……まあそんな感じのですよね」
文系関係の知識があまりない私は頭を掻きながらそう言った。普段は動物の体の中を見てばかりだから、アダムとイヴがどんな存在だったのか、よりもアダムとイヴはどんな体内構造をしていたのかの方がまだ上手く喋る事が出来る。ある意味良くない響きだが。
「そう。そしてアダムはこの世で一番最初に罪を犯した人間だった」
「エデンから追放されたそうですね。エデンは確か天国とかそういう類の……」
「まあそれはキリスト教とかの話になってしまうんだがね」
窓の外を覗きながら目を細める男とは対照的に、私は時計を見た。窓の外は太陽が沈んだせいで真っ暗だし、時計はそれ相応の時間帯を示していたので別に問題はない。『深夜』というものを確認するために、お互いは自分が思う方法をしたのだ。これが人間の差というやつだろう。
「今日は月が綺麗だね」
「あ……そうですね」
時計を見ていた私は男が見ている窓の外へと視線を外した。雲に混じるわけでもなく、欠ける事もない美しい円形のフォルムを輝かせる月が私を出迎えた。しかし周りで輝くはずの星は一つ二つ程しかなくて、非常に寂しい夜空だった。まあ、都会人である私には常識の事なのだが。
「さあ、もう夜も深けたことだ。そろそろ家に帰るかね」
「え、先生は泊まらないのですか。明日の朝は早いですよ」
「いやいや、家近いから」
そう言って先生は去って行った。私はただ一人取残された気分になったのだが、今自分がすべきことを重々知っていたので、塞ぎ込む事はなかった。