9話
ロンデール、労働者階級向けの住宅街、イヅナの家。
イヅナは母に、最も言いにくいことを伝えねばならなかった。
「母上。……父上が、逮捕されました」
イヅナの母は一瞬瞠目したが、やがて「そうですか」と目を伏せた。
「いずれこうなると覚悟していたわ。いつもお貴族様たちと揉めていたもの」
しかし母もまた、なぜセキエイがブーリーに反対していたかについては知らなかった。やはり調べるしかないらしい。
さて、セキエイの部屋には書類が積み上げられていた。ルシオはその中から新聞のスクラップを掘り出すと捲った。
「身分を問わず仲良くしましょうとかいうブーリーの意向は、具体的には職業選択の自由、ということか」
地域によって多少の差はあれど、基本的に職業は階級によって決まる。例えば労働者階級は役人や判事といった中流、上流階級向けの職種に就くことができない。
ブーリーの法案は、その規定を撤廃して身分にとらわれず自由な職業選択ができるようにする、というものだ。
「平民にとっては夢のある話だろう」
一見、別に悪い法案ではない。セキエイが反対する理由も特にないはずだ。
ではその逆――『貴族が平民の仕事をする場合』はどうだろう?
「上流階級の人間が、中級、労働者階級の仕事をすることはない。ましてや、貴族は仕事をすることさえ稀だ。別にしてはならぬと定める法はないが。あくまで考え方の話だ。
だがこの法案が通れば、『身分により職業を決めるのは浅慮だ』という考えが生まれ、平民の職に就く貴族や上流階級が現れるかもしれん」
ルシオはイヅナに目を向けた。
「イヅナ。セキエイ家の家業はなんだ?」
ルシオの問いに、イヅナは藪から棒だと言いたげな表情で返答した。
「刃物店です。父が鍛冶職人でして、父の故郷の鍛造技術を活かした包丁やナイフを扱っています」
確かに室内には多くの鉄製品があった。刀。斧。壁には剣の装飾品。――以前タウンハウスで暴漢を撃退した時に使った装飾用の剣を思い出して、ルシオは目線を逸らした。
「刃物の製造販売は、長らく平民が独占していた事業だな。ではもし、刃物店の市場に裕福な貴族が参入したらどうする」
イヅナの表情がやや強張った。歓迎してはいないらしい。ルシオはイヅナを指差した。
「困るだろう。新参者に客を取られれば、業界内で職を失う者も出よう」
「それだけではありません。競合が増え、より安い物が売れるようになる。そうなれば、我が家で売る商品の値段も下げなければ売れなくなってしまいます」
「そうだな。それにそもそも多額の元手を用意できる。新聞に広告を出したり、看板を出したりと、宣伝に回す金もある。その分売れて利益も出る」
つまり、裕福な貴族や上流階級は事業を軌道に乗せやすく、利益を上げることが容易いのだ。
「金の無い者は、新規参入した貴族に追いやられ、破綻するのがオチだ」
セキエイは自身の技術で商品価値を高めてきたのだろう。
だからこそ、値段という形でその価値が下がる危険性を潜めているブーリーの政策の穴に気が付き、反対の声を上げたのだ。
「このままの形でブーリーの法案が通れば、急激な市場競争が起こる。別に競争社会そのものが悪いとは言わん。むしろメリットも多い」
良い品物が売れるようになるため、商品の開発や改良が進む。高品質な物を、多くの人間が手にできるようになる。そして市場が活発化し、経済が大きく回るようになる。
国そのものを考えると、利点も大いにあるのだ。
「だが何の対策もせねばデメリットも多い……という話だ。それを緩和するよう、奴は併せて対策を練るべきだった」
例えば、際限なく価格を下げられないよう、ボーダーラインを定めるとか。
あるいは、税金の徴収を売上に合わせて増減させてもいい。
しばらくは貴族や上流階級の参入を制限するという手もある。
イヅナは眉を寄せた。
「もしや、ブーリー議員はそこまで考えが及んでいなかったのでしょうか」
「それはない。最低でも貴様の父には再三進言されていただろうからな」
「他に声を上げる平民はいなかったのでしょうか」
「子供の俺達でさえ気付いたくらいだ。反対する者は他にもいたかもしれん。だが、そういう奴がどうなったかは――貴様の父が良い例だ」
そもそも、気付いても声を上げない者もいたことだろう。
民衆のブーリーに対する人気は相当なもので、労働者階級向けの大衆紙までブーリーを褒め称えている始末だ。声を上げにくい状況だった。
「議会はこの問題を見逃したのでしょうか? 貴族院の他に、選挙で選ばれた平民で成り立つ庶民院もありますが」
「問題を把握してはいたかもな。だが庶民院の奴らは、平民とはいえ富裕層だ。選挙権を持つのが富裕層に限られるからな。だからこの案が可決されても奴らに影響は無い」
つまり、とルシオは纏めた。
「ブーリーと議会は犠牲を承知で、この問題を放置したのだ」
この結論を聞いて、イヅナは「そんな」と呟いた。セキエイが反対していた対象はブーリー個人にあらず。議会、そして国である。
あまりにもスケールの大きな話に、イヅナは絶望したように首を振った。
「なぜ放置したのでしょう」
「貧しい者を犠牲にしてでも経済を回したかったのだろう」
「その根拠は」
「ブーリーが裏で言っていた、『国を大きく発展させようとしている』という発言だ」
人々が耳を傾ける演説中ならばともかくだが、ブーリーのこの発言は見栄では出てこないだろう。『国を動かしたい』というのが、この政策の目的だと思われた。
「まあ、これはあくまで俺の考えだ。暴論だし、根拠とするには弱い」
イヅナはなるほど、と頷いた。
「いずれにせよ、この法案に問題があるということはわかりました。父が反対したのも納得です。ブーリー議員はそんな父を邪魔に思い逮捕したということですね。
ですが――どうしましょう。父を助けようとした場合、ブーリー議員だけでなく、議会をも敵に回すということになりますよね」
「いや、心配いらん。俺たちの敵はブーリーだけだ」
どうにも要領を得ず、イヅナは当惑した。そんなイヅナにルシオは結論を告げた。
「貴様の父は『貴族不敬罪』で捕まった。ならばその対象が貴族でなくなったら?」
「――まさか」
「ああ。――あの悪徳議員を、貴族の座から引き摺り下ろせばいい」
イヅナは眉を寄せた。
「どうやって」
「ブーリーに収賄疑惑を被せる」
「ッ!」
イヅナは目を見開いた。
それはつまり、ブーリーに濡れ衣を着せるという意味だ。
口を閉じたイヅナに構わず、ルシオは続けた。
「この法案が、裕福な貴族が金稼ぎをしやすくする構造だということ忘れてはいないな?
だから、ブーリー自身が他の貴族と共謀し、懐に金が入るよう画策していたことにする」
ブーリーが法案を作る。そして他の貴族に金儲けをしてもらう。こうして稼いだ貴族が、ブーリーに賄賂を渡す。こうすることで、ブーリーも貴族たちも、互いに得をするというわけだ。
――という設定にする。
「……ですが、ブーリー議員は貴族ですよ。裕福なのでは? 金儲けを企んでいたとするには、説得力が欠けるのでは」
これには補足が必要らしい。
「問題ない。貴族というのは何かと物入りなのだ。使用人の賃金や社交界で大金が消えていく。裕福な貴族が多い一方で、貧乏な貴族だって珍しくない」
「政治家として稼いでいるのでは?」
「貴族院にいる連中は、給与が発生しない。『ノブレス・オブリージュ』と言って、地位ある者は非支配者を護る義務を果たすべきという考えに基づき、政治は義務であるとして賃金は発生しないのだ」
つまり、ブーリーには支出はあっても収入は無いのだ。
「ですが、証拠はないでしょう」
「ないならば作ればいい」
――ルシオがイヅナに自身のやり方を見せるという選択をした理由は二つ。
一つ目は、この件をイヅナに気付かれずに一人で対応することが困難であると判断したため。
そして二つ目は、このイヅナという男を手駒にできるのではと思ったためだ。
ルシオは考えていた。
このイヅナという男は、ルシオの説明を理解できるだけ並の子供より頭脳は良いとは思われるが、その分突発的な行動が目につく。
しかしイヅナは、天才ではないが明瞭ではあるらしかった。彼により都度挟まれる疑問や意見が、ルシオの思考をスムーズにした。
そして彼の誠実さは大いに利用できる。それに異国の武術を身に付けている。利用価値は充分だ。
別に、イヅナを信用したとか、そういうわけではない。
ただルシオとて、小説としてこの世界のことを知ってはいるが、神ならぬ身。万能でない以上は、手足となる駒が欲しい。そう思ったのだ。
もし自身のやり方についてこれるのであれば、ルシオが『この世界の被害者を救う』という目的を達成するにあたり、イヅナは忠臣となり得るかもしれない。
そしてこの状況で、イヅナが断ることは絶対にない。ルシオがセキエイを救う手立てを翳している以上、セキエイを人質に取っているようなものだからだ。
だから、この件においてルシオがイヅナに弱みを握られようと問題ない。イヅナがそれを暴露するような真似はするはずがないのだ。
「協力してくれるな? イヅナ」
案の定、ルシオの言葉に。
イヅナは拳を握り締めて、頷いたのだった。
「――もちろんです。ルシオ様」




