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62話

 ――涼が寒に変化しようとしている。

 その見窄らしく小さな建物でも、冬を迎える支度を始めていた。

 ミケイルは許された限りある時間を享受するように、中庭に積み上がった薪を小さな腕に収まる限り抱いた。それから老人の後を追って家の中に入る。

 薪は冬のために蓄えておくのかと思っていたが、老人はすぐにそれをストーブに焚べた。そして火をつけて、


「ああ寒い。死んでしまいそうだ」


 と震えながら床に座り込んで火に当たったのだった。

 ミケイルも老人の真似をして隣にぺたんと腰を下ろし、火に当たる。体の芯まで冷えようとも『暖を取る』という選択肢がなく耐えるのみだったミケイルにとって、『温まる』という行為は幸福にも感じられた。

 言語化しにくいその感情を、ミケイルは隣の老人に伝えようと話し掛けた。


「ラファ、言ってたんですよ。『どのみち死ぬのなら、使い倒されて死ぬよりも、自由の中で死にたい』って」


 老人に話し掛けたと前述したが、ともするとこれはミケイルの独り言だろう。

 ミケイルは悴んだ手に目線を落とし、そしてそれを温めるように薪ストーブの方へと翳した。


「あのとき、その気持ちがまるでわかりませんでした。どこで死のうが変わらないのに、って。でも」


 突き出していた手を胸の前に戻した。氷が溶けるようにじんわりと温かくなった手は、ほんのりと赤くなっていた。


「今ならわかる気がします。いまここで死ぬのなら、悪くないと思うから」


 老人はくつくつと肩を震わせて笑った。


「あんまり幼いうちから死と向き合うもんじゃない。おまえさんたちは早熟すぎるんだ」


 この兄妹は早く大人にならざるを得なかった。そうせねばならぬ環境で耐え抜いてきた結果であろう。

 子供はもっと子供らしくあるべきだというのに、と痛ましく思った。

 老人は立ち上がると、棚を開けてカップを二つ取り出した。それから薪ストーブの上に置いてあったネル付きのドリップ・ポットを手に取ると、中身を注いだ。ふわり、と香ばしい香りが鼻をつく。

 老人は一つをミケイルに渡すと、残り一つをぐい、と勢いよく飲んだ。

 紅茶ばかりを嗜むこの国において、老人はコーヒーを好んだ。苦味の中にある深い香ばしさが好きだった。


「しかしまあ、私も同感だ。いまは幸せだ、この幸せの中で死するのならば悪くない」


「あなたはいま、幸せなんですか」


 ミケイルの言葉に、老人は肯定した。


「幸せだな」


「幸せって、何でしょう。俺、そういうことを考えたことがなくて」


 またしても子供らしからぬことを言うミケイルの頭を、老人はぽんぽんと叩いた。


「幸せっていうのはな。一杯のコーヒーと、それから幸せを語る友人が近くにあることだ」


 ミケイルがいくら大人びているとはいえ、老人の言葉を理解するにはまだ早すぎた。

 ミケイルは初めて口にするコーヒーを啜ると、


「苦い」


 と端正な顔をくしゃりと歪ませた。


 これが、幸せか。

 幸せとは苦いな、と思った。


□□□

 ルシオは室内に駆け込んだ。

 真っ赤な海の真ん中にホープが伏している。ルシオは迷わずそこに飛び込み、この老人を抱えた。

 刃物で斬られたらしく、首の頸動脈が損傷している。


「イヅナ! 医者を呼んでこい!」


 血相を変えるルシオの肩に、イヅナは手を置いて首を振った。


「ルシオ様。――もう手遅れです」


 誰の目から見ても明らかだった。

 絶命こそしておらず辛うじて息はあるものの、弱くひゅうひゅうと音を立てているのみ。

 間もなく彼は、死に至るだろう。


「手遅れなものか! 勝手なことを言うんじゃない!」


 噛み付くように言い、ルシオは身震いした。


「さっさと行け! 行くんだ、早くしろ!」


 ルシオに追い立てられ、イヅナは「……ルシオ様」と呟いた。

 ルシオもわかっているはずだ、彼が助からないであろうことを。普段の、理知的で合理的なルシオからはかけ離れた言動だった。


 だが同時に、ルシオ様らしくもある、とイヅナは思った。

 誰よりも冷たく見えて、本当は誰よりも優しいこの人は、目前で落ちようとする命に酷く心を痛めているのだ。

 現にルシオはホープの首から今もなお流れ続ける血を止めようとしている。

 だからイヅナは、ルシオの言葉に従い、建物を後にした。あとでルシオが『救えたかもしれない』と後悔に苦しむことがないように。


 室内に二人きりとなったとき、ホープはルシオを虚な目で見上げた。


「――なあ、ミケイル」


 ルシオ――ミケイルが肩をびくりと振るわせたのを知ってか知らずか、この老人はゆっくりと続けた。


「悪くない気分だ。幸せの中で死ねるのだからな」


「――そんなこと、言わないで。すぐに医者が来ます」


「ミケイル」


 老人はミケイルへと手を伸ばし、真っ直ぐなその髪をそっと撫でた。


「おまえさんがなぜ別人になりすまし、別人として振る舞っているのか、私にはわからん。だがそれがおまえさんの幸せに繋がるというのなら、私は否定しない」


 ――幸せ。

 いつぞやかこの老人と交わした会話を思い出して、ミケイルはあのときと同じ質問をした。


「あなたはいま、幸せなんですか」


 ミケイルの言葉に老人は答えず、代わりに部屋の向こう側に目をやった。


「そこのテーブルの上にあるカップを取ってくれ」


 ミケイルは言われた通りにカップを手に取る。以前見たことがあるカップの中には、冷め切ったコーヒーが入っていた。

 そのコーヒーを老人の口元に持っていくと、老人は人生の最期の香りを嗅いだ。


「――ああ、これで幸せだ」


 そう言って、老人は笑った。


「ミケイル。幸せとは何か、と言っていたな。

 見つけなさい。おまえさんにとっての――」


 ――幸せを。

 音にならない最期の言葉を紡いだその口は。

 それきり、もう動かなくなった。


□□□

 慌ただしい一日は瞬く間に過ぎていった。

 夜のテラスで、ルシオは一杯のコーヒーを手にしている。


 なぜ、救えなかったのだろう。そればかりが頭を駆け巡っていた。


 ルシオは前世で、この世界における出来事を小説として読んでいる。

 そしてルシオは、この世界で起こる事件の被害者を救うために奮闘してきた。

 事件を目前にしてふと蘇る、物語の記憶を頼りにして。


 だが――それを言い訳にするつもりは更々ないのだが、今回は小説の内容を思い出すことすらなかった。

 ホープの一件は小説に載っていないストーリーだったのかもしれないし、ルシオがこの物語を掻き回したことでストーリーが変わった結果流れが原作とかけ離れてしまい、思い出すきっかけがなかったのかもしれない。


 ルシオはその苦い飲み物を啜った。

 彼はその性格と相反して子供舌だ。偏食で、かつ使用人として生きてきたために、今までコーヒーなどの嗜好品を口にすることがなかったのだ。

 コーヒーを飲むのは、これで人生において二度目である。


 ルシオは慣れぬ苦味に、いつぞやかのように端正な顔を歪ませた。


「苦い」


 その苦さに、じわり、と涙が浮かんできた。

 苦味の中に風味豊かな香りがあって、これがあなたの幸せだったのだなと、ルシオはそう思った。

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