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6話

 ニュージェイド学校、廊下。

 ルシオはバケツに洗剤を流し入れた。


「廊下の汚れはアルカリ性で落としたいところだが、樹脂が傷付いては面倒だ。中性洗剤でいいだろう」


 バケツにモップを突っ込み水気を切ると、廊下を擦っていく。みるみる綺麗になっていった。

 と、廊下を駆ける足音が聞こえてルシオは振り返った。イヅナだった。

 彼の表情にはもう、ルシオへの苦手意識的なものは感じられなかった。昨日の一件で、イヅナの中でルシオの評価が変わったのかもしれない。


「ルシオ様。お手伝いを……」


 言いかけて、イヅナは周囲を見渡した。


「……しに来たのですが、必要なさそうですね」


 既に廊下は眩いばかりの光を放っていた。

 さもありなん、とルシオは鼻を鳴らした。なにせルシオ(ミケイル)の本職は使用人なのだから。掃除の知識と手際にかけては、この学校内の誰にも負けないだろう。


「ああ、不要だ。俺は頭が良いからな」


「あの。頭の良さと掃除に、何か関係が?」


「大いにある。掃除とは科学なのだ」


「……?」


 ルシオは水道に移動してバケツを空にすると、また水を張った。それから寮の調理室から貰ってきた酢をぱしゃり、と入れた。そこに雑巾を突っ込み絞る。


「窓の水垢はアルカリ性。だから酸性の酢でよく落ちる」


 窓を拭くと、きゅっ、と小気味良い音を立てて汚れが綺麗に落ちた。


「意味がわかったか」


 ルシオの満足気な顔に半ば気圧されながら、イヅナは素直に頷いた。


「はい。科学の力ってすごいですね」


「それで何か用か」


 イヅナは頭を下げた。……彼が頭を下げるのはこれで何度目だろうか。


「私を庇ったばかりに、本当に申し訳ございません」


「だから貴様を庇ったわけではない。そもそもはあの悪ガキと、話を聞かん女教師のせいだ。あの先生は一体誰なんだ」


「リアトリス先生だよ」


 第三者の声がして、ルシオとイヅナは声の主に顔を向けた。


「……アズリエル・スフェン」


 癖が強く、外見もさほど優れているとは言い難いが、名状し難い魅力がある男。

 それもそのはず、この男はルシオが前世で読んだ小説、そしてこの世界の主人公なのだ。

 そして先日からルシオとは悪縁がある。


「なぜ貴様がここにいる」


 アズリエルは上機嫌らしい。長く赤い前髪を弄りつつ、楽しそうににやにやと笑みを浮かべルシオを見下ろした。


「きみのお目付役ってところかなぁ。ヴィンター寮の監督生として、ね」


「……監督生?」


 最悪だ、とルシオは思った。他人と関わりたくないと考えていたが、中でも特にアズリエルはその筆頭だ。

 だが自身の所属する寮の監督生ともなれば、関わらないようにすることは不可能である。


「そ。で、リアトリス先生から、ヴィンター寮に入学早々乱闘騒ぎを起こした問題児がいるって聞いてさ。罰を与えたから監視するようにって言われたんだよね」


「この俺が問題児だと?」


 ルシオの言葉には形ばかりは疑問符がついているものの、質問というより抗議の意図が強かった。

 アズリエルはルシオのその様子に顎に手を当ててからからと笑った。


「そう、問題児。もう学校中噂になってるよ。悪事千里を走る、って言うでしょ」


 ここで口を挟んだのは、二人の会話を傍観していたイヅナだった。


「お待ちください! ルシオ様は暴力行為に遭っていた私をお助けしてくださったのです、それを問題児などと!」


「へえ、そうだったんだ。まー、そんなことだろうと思ったよ」


 ルシオは狡猾で高慢だが卑劣ではない。無意味に他人を傷付けるような人間ではない、ということをアズリエルは先日の件で知っていた。

 だからリアトリス先生からルシオの名を聞いたときに、何かの間違いではないかと思ったのだが合点がいった。


 それに、この暴力行為に遭ったと主張している黒髪の少年の頬に薄らと傷痕があるところを見るに、ルシオが助けたというのは事実だろう。

 もっとも、暴力に対し暴力という手段をとったルシオにまったく非がないとは言い切れぬが。


「ところで、アズリエル」


 ルシオが口を開いた。


「ブーリーという名に聞き覚えはあるか? 政界の人間だと思うのだが」


 あのいじめっ子ことビッグ・ブーリーは、『父ちゃんは議員だ』と言っていた。

 生憎ルシオには政界の知識が乏しい。むしろ十を少し超えたくらいの使用人がまつりごとに詳しい方が驚きだ。

 だが貴族として生きてきた年上のこの男であれば、知っていてもおかしくはないと思い尋ねた。もっとも、収穫がなければ自力で調べるつもりではいるが。


 アズリエルは「ああ」と頷いた。心当たりがあるらしい。


「貴族院の議員だね。ここに住んでいなかったきみは聞き馴染みがないかもしれないけど、この辺じゃちょっと有名だよ。確かフルネームはデプト・ブーリー」


 アズリエルはたったいまルシオが磨き上げた窓から外を覗き込むと、学校に隣接する駅の方を指差した。


「放課後、駅前の公園に行くとね。たまに演説してるんだよ、その人」


「そうか。礼を言う」


 ルシオは一言そう言うと踵を返した。それを見てアズリエルは声を上げた。


「ちょっとルシオくん! 掃除がまだ終わってない……」


 と言い掛けて、周囲に気が付いた。


「……わけじゃないんだね、綺麗だね、うん」


 貴族として温室で育ってきた人間が、ここまで見事かつ効率良く掃除をこなせるだろうか。

 アズリエルは、初対面の時からルシオの手が少々気になっていた。ルシオの手、特に指先をよく見ると、赤切れやささくれがあった。普段から水仕事でもしているかのようだ。まるで。


(使用人の手だ)


 少なくとも、貴族の手ではない。

 つまり、ルシオは――。


(普段から使用人を手伝っていたに違いない)


 きっと『汚れているのが気に入らん』などとツンケンしながら、手が荒れるほどまめまめしく手伝っていたのだろう。


(まさか、使用人の業務経験があるわけじゃないだろうし)


 そんなことを思いながら、アズリエルはルシオの背を見送った。


 傍で見ていたイヅナは、目上のアズリエルに一礼してルシオの後を追っていった。遠くから「イヅナ、なぜついてくる」というルシオの苦言が聞こえてきて、アズリエルはふ、と笑った。


「あの子、イヅナくんっていうのか。……平民、それも労働者階級の子だね」


 イヅナの手にはタコやマメができている。これは剣術を嗜んでいる証だ。

 フェンシングであれば、貴族から庶民まで幅広く嗜まれている。別に珍しくはないし、これだけで階級を判断することは不可能。

 だがイヅナはタコやマメが両手にあった。フェンシングの剣は片手で握るため、イヅナが嗜んでいる剣術はフェンシングではない。

 そして、彼の手首から手の甲にかけて、あまり見慣れぬ形のアザがあった。この形は小手ガントレットのようだ。


 両手剣で、小手を使う。思い当たるのはアーマードバトルか、あるいは。


「東の国に伝わる剣道か」


 イヅナの真っ直ぐな黒髪と黒々とした瞳は、東の国のルーツだろう。

 彼自身は言葉に訛りなどは見られない。だが妙に丁寧な口調が気になる。きっと身近に、この国の言葉を第二言語として書物で覚えた者がいたのだ。


 つまりイヅナは、異国人の父を持つ二世。


 だがこの国では、異国人には爵位は授与されない。そして中流階級にすらなれない。イヅナの父は間違いなく労働者階級だ。だから彼もまた労働者階級なのだろう。


 アズリエルはふと、先日ルシオが路上生活者たちに礼を言われていたのを思い出した。


「ルシオくんは、身分の低い人とも分け隔てなく接している。あれで器の大きい子なのかもしれないね」


 つくづく、貴族らしくない子だ。

 そう呟いて、アズリエルはその場を後にした。

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