59話
ミケイル、と。
そう呼ばれ、ルシオは瞠目した。
(――ああ、そうだ)
この建物を目にしたとき、どこか見覚えがあるとは思っていたが。
『ルシオ』に成り代わる前――自身がまだミケイルだったとき、妹を連れてここに来たことがあった。
□□□
四、五年前だったか。
あのときはまだ子供――今でもまだ子供であるが、それ以上に思慮が足りない未熟者という意味で子供であった。
ミケイルと妹ラファは、当時には既にカイヤナイト男爵家の使用人として働いていた。
しかし卑しい生まれのミケイルたちに、自由時間など皆無。給与すら無いも同然。事実上の奴隷と言っても差し支えなく、小さな身体に日々浴びせられる罵声と暴力に耐え、力の限り仕事をしていた。
そんなときだった、サーペンティ領からの商人の馬車がカイヤナイト邸の敷地内に入ってきたのは。
「なあ、ラファ」
ミケイルは窓から見える馬車を横目で見ながら雑巾を絞った。
「サーペンティ領は大都会らしいぞ」
ラファ――ミケイルによく似て、真っ直ぐな黄金色の髪に恒星のような瞳を持つこの少女は、煤で汚れた顔を兄の方へと向けた。
「いつか見てみたいわね。……夢のまた夢なんでしょうけれど」
自分たちは使用人の中でも下級。好きな場所へ行くなどできやしない。そう思ったところで、ラファは「そうだ」と声を上げた。
「あの馬車、サーペンティ領に行くのよね。私、乗るわ」
忍び込むということだろう。察したミケイルは「駄目だ」と諭しつつラファの方へと歩み寄り、その小さな肩に手を置いた。
「バレたらどうする? この前抜け出したとき、散々ぶたれたじゃないか」
「バレなければいいわ。少し見物したらすぐ戻るのよ」
「すぐ戻れるような距離じゃない」
ミケイルは別に怖気付いて反対しているわけではない、自身に降り掛かる危険は気にしない性分だ。だが、降り掛かる対象が妹である場合は話が別なのだ。
それにサーペンティ領に着いたとして、帰る手段が見つけられなければ路頭に迷って野垂れ死ぬのがオチだ。
「やるならもっと慎重に計画すべきだ」
そう説得して止めようとしたものの、ラファは納得しなかった。
「『異時点間の選択』って、知ってる?」
およそ六歳児から出る言葉とは思えず、ミケイルは「よくそんな言葉知っているな」と溜息をついた。
「すぐ手に入る小さい報酬か、将来的に手に入る大きい報酬かであれば、人は前者を選ぶ。そういう通説のことだろう?」
金が貰えるとして、今すぐの受け取りならば1千モンド、一年後の受け取りならば2千モンドとなる場合、多くの人間は前者を選ぶ。
いつ訪れるかわからない快楽よりも、目前の快楽の方が価値があると感じるためだ。
「こんな機会、滅多にないわ。次いつ来るかわからないチャンスに賭けるより、私はいま行きたいのよ」
ラファの暴論に、ミケイルは「路頭に迷って死ぬぞ」と首を縦に振らなかった。が、ラファは更に言う。
「どのみち死ぬのなら、使い倒されて死ぬよりも、自由の中で死にたいわ」
挙句の果てにラファは「ミケイル兄さんが行かないなら、私一人で行く」の一点張りとなり、渋々ミケイルが折れることとなった。
こうして二人は邸を抜け出し、馬車の荷台の狭い空間に身を捩じ込んだ。結果、人間が積まれることを想定していない荷台で何時間も酷い振動に揺られ続け、ミケイルとラファは身体中に痣を作ることになった。
こうして辿り着いたのはサーペンティ領。
商人の目を盗んで荷台から降りた二人が目にしたのは、異国と思えるほどに繁栄した、明るく輝かしい街であった。
だが満足そうに歩き回るラファの傍ら、ミケイルは観光を楽しむ余裕など微塵もなかった。
いまの自分たちは、金もなければ道も知らず、帰る手段もない上に、知り合いもいないのだから。
苦痛から解放されるためならば死すらも厭わないラファとは違い、ミケイルはせめてもう少し生きたかったと思った。
自由とは贅沢品だ。たとえ縛られるものがなくとも、金がなければそれは自由ではなく無だ、と思い知った。
「……俺がもっとちゃんと止めていれば」
そう呟きつつラファに目をやると、彼女は冷たい風に震えながらもどこか安堵し晴れやかな表情をしていた。
ラファは地獄のような職場から今すぐにでも逃げたかったのだろう。
そう思うと、彼女を責めることはできなかった。
もう日が暮れかけて辺りは暗い。小さな子供が屋外、それも見知らぬ地で一夜を明かすのは至難の業である。
とにかく、あまり人目につかない、少しでも風をしのげる場所を見つけなければ。そう思ったときだった。
「こんな夜に、小さい子が出歩いちゃ駄目じゃないか」
幼い兄妹にそう声を掛けてきたのは、一組の老夫婦だった。
老夫婦は路頭に迷った小汚い自分たちを何の躊躇いもなく写真館――夫婦らの家に連れ帰り、惜しげもなく食事を与えてくれた。
思えば、あのときに食べた食事が生涯で初めて食べた『料理』と呼べるものだったかもしれない。
そして、二人に質素ではあるが暖かな布団を貸してくれた。
それから、老夫婦は二人に贈り物をくれた。
ミケイルには、ラファの写真を。ラファには、ミケイルの写真を。それをチタン製の立派なロケットペンダントに入れて、首から掛けてくれたのだ。
ルシオのものは、タウンハウスでの一件で紛失することになってしまったのだが――。
結局二週間近くで、サーペンティ領に使いで来ていたカイヤナイト領の使用人に発見されてしまい引き摺り戻されることとなったのだが、その間卑しい自分たちをずっと家に置いてくれたのだった。
□□□
いま目前にいる老人は、ずっと昔に自分と妹ラファを助け、永遠に知ることのなかったはずの温もりを教えてくれた恩人であった。
そして数年経ってもなお、自分のことを憶えていてくれている。こんなに嬉しいことがあろうか。
礼を言いたかった。今すぐにでも。
しかしもう、自分はもうミケイルではない。
それどころか、ミケイルは死んだことになっている。
礼を伝えることなど、もう一生叶わぬのだ。
とりあえず、今の状況は良くない。老人に「ミケイル」と呼ばれたために、シャックスを始めとする友人たちからは疑問の目で見られている。
心苦しいが、ここは否定せねばならなかった。
「……人違いだ。俺はミケイルではない」
爪が食い込むほどに拳を握りしめ、心の中で謝罪しながらも、冷ややかに言い放った。
老人は驚いたように瞠目してから、やがて「そうか」と落胆した。
「昔な。おまえさんによく似た子がいたのだよ。あのときは小さかったが、いまはおまえさんくらいになっているだろう。天使のような子だった。――カイヤナイト領から来たと言っていたな」
『カイヤナイト領』と具体的に言われてしまっては、ルシオは返答せざるを得なかった。ルシオは仮にも――文字通り本当に仮なのだが――カイヤナイト男爵家の嫡男なのだから。
「ならば、俺が知る奴だな。家の使用人にミケイルという奴がいた」
自分のことを他人のように言うのは、どこか奇妙に感じられた。
「世話になった老夫婦がいると言っていた。あなたのことだろうな。――感謝していた」
本来の自分として、直接礼を言うことは叶わない。
それでも、せめてそれだけは伝えたかった。
「そうか」
と、老人は笑みの中に少し物寂しさの混ざった複雑な表情で、その言葉を受け取った。
さて、本題に入ろうとシャックスは咳払いをして老人に「おじいさん」と声を掛けた。
「俺たち、幽霊と一緒に写真を撮りたいんだ」




