4話
ルシオは満足していた。
これでいい。ルシオが手を下さなければ、被害者が路上生活者である以上、あの男の刑期はよくて半年が限度だった。刑期が明ければ再びあの男は繰り返す。弱者が被害に遭ってしまう。
しかしそこに放火殺人が加われば、刑期はぐんと長くなる。それも放火をしたのは貴族のタウンハウスだ。これで十数年は刑務所から出て来られまい。
(それに、これで俺の疑いも晴れただろう)
そう思いつつ少し冷めた紅茶を啜り、向かいのアズリエルを見上げた。
一方、アズリエルは困惑していた。
(放火犯はルシオくんじゃない? その上真犯人がいて、偶然ロンデールに来ていて、偶然ルシオくんと出くわした? 出来過ぎている)
しかしたったいま火事が起きたことは事実で、それがあの男が放火魔であると示していた。
それにルシオの発言を、目撃者の路上生活者が保証した。
アズリエルはふう、と嘆息した。
昨夜の火災の原因はルシオで間違い無い。そう直感していた。
しかしだからといって、ルシオを糾弾する材料もない。仕方あるまい。今回のところは引くことにした。
残りの紅茶を煽るように飲み干してから、アズリエルは立ち上がった。
「じゃあ、カップを返してくるね。お店の外で待ってて」
アズリエルを見送り一人外に出たルシオは、足音が近づいてくることに気が付いた。
アズリエルが戻ってきたにしては、足音が多い。
何事かと思って振り返ると、浮浪者らしき人間が五、六人ほどこちらの方へと向かってきていた。
先の路上生活者もいた。怪我を負った足を引き摺っている。大丈夫なのだろうか。
「あの、貴族様」
一人がそう言った。はてここに貴族なんていただろうか、と一瞬考えてしまったが、いや自分のことかと思い至った。
先程ルシオが『使用人が云々』と話しているのを聞いて、ルシオを貴族かそれに準ずる上流階級の子息だと判断したのだろう。
「なんだ」
何かしてしまっただろうか、心当たりがあるとすれば放火の件だ。彼らは見ていたはずだ、ルシオが自ら放火した瞬間を。
それにルシオは、男の事実無根の罪を『男の発言』と称してべらべらと喋った。だが彼らは、男がそのような発言をしていないことを知っているだろう。
これらがルシオの自作自演だと取り調べに来た警察にでも言えば、トレンチコートの男が犯したことになった放火の罪状は取り消される。
それどころか、せっかくタウンハウスの件の犯人に仕立て上げたというのに、その真偽が疑われることになりかねない。
「言っておくが、俺の放火と虚言の件は他言無用だ。あの男を早く刑務所から出したいのならば話は別だがな」
路上生活者たちは勿論、と頷いた。
「誓います。もとより、誰にも言わないつもりでした」
では一体何の用だろう、と怪訝そうな目で彼らを見ると。
「あなたのおかげで、私たちはあの男から救われました」
路上生活者たちが、皆一斉に頭を下げた。
「――ありがとうございました」
虚を突かれた。
ルシオは返答に窮して、ただ黙った。
(……慣れんな)
誰かに感謝されるなど、初めてかもしれない。ゆえに、どう反応すれば良いのか、ルシオにはわからなかった。
今まで本物の『ルシオ』に誠心誠意尽くしてきたが、礼など言われたためしがなかった。
それが悪役になった後で感謝されることになろうとは。なんとも皮肉なものだ、と思うと同時にこそばゆい気分でもあった。
「――ああ」
その一言が、ルシオに返せる精一杯だった。
とはいえ、路上生活者に危害を加え路地裏を荒らし回っていたのは、あのトレンチコートの男一人だけではなかろう。
いま解決されたのは、ほんの氷山の一角でしかない。
そしてルシオの解決方法も、決して褒められたものではない。あの男に、男が実際にした罪以上のものを被せ、冤罪で捕えたようなものだからだ。
だが、それでも。
「同じ立場の者同士、支え合ってきた大切な仲間でした。私たちは仲間が命を軽々しく奪われる悲しみに暮れながら、ただ怯えることしかできませんでした。それをあなたが助けてくれた」
――ルシオの行動で救われた人は、確かにいた。
「我々のような者が、貴族様にどう恩を返せばいいのか」
「礼なんていらん」
ルシオは路上生活者たちから顔を背けた。
ルシオの脳裏には、焼き付いて離れない光景があった。昨夜の悪夢だ。
たった一人の貴族の命を守るために、いくつもの平民の命が散った。
平民の命は、権力者の命より軽い。
そしてそれは、この過酷な環境にいる路上生活者も同じこと。もしかしたら、弱肉強食であるこの環境下では、それ以上に過酷なものがあるかもしれない。
弱者の命は、強者の命より軽い。
「『泰山鴻毛』という言葉がある。人の命には軽重の差があるという意味だ。
人間は、王であれ奴隷であれ、結局は人間という生き物だ。だというのに、なぜ。――同じ生き物の中で、命の重さに差があるのだろうな」
それは弱者側であったルシオにとって、どうしても心の底から理解が及ばないことであると同時に、許せないことであった。
「人間が、同じ人間を虐げた。それが気に入らなかった。ただそれだけだ」
ルシオは踵を返しかけた。が、「そうだ」と振り向き、ルシオは先の被害者に向けてコインを放り投げた。
「足の怪我、治療しておけ」
そう口にして、路上生活者たちの礼の言葉を背に受けながら、少し離れたところで会話の終わりを待っているアズリエルのもとへと向かった。
□□□
歩きながら、アズリエルは顎に手を当てた。
店にカップを返し終えて出てみると、ルシオが路上生活者に命の重さについて説いていた。
アズリエルは列車内で偶然会ったこの後輩に、運命めいたものを感じつつあった。
ルシオ・カイヤナイト。
社交界に出ていなかったのもあり、その人物像について詳細に知る者は皆無。
又聞きにはなるが、カイヤナイト男爵家の使用人経由の噂だと、やれ横暴だの、やれ幼稚だの、やれ冷酷だのと散々なことばかり言われていた。しかし。
(噂とは大違いだ)
実際に目にして、多少の高慢さは目立つものの横暴な面はない、というのがアズリエルの見解だった。
それに幼稚でもない。大人と比較しても聡明な類だ。そして。
意外にも、綺麗事を好む清らかな心の持ち主らしい。
アズリエルは、このルシオ・カイヤナイトという謎多き人物に大いに唆られた。
しばらく様子を見てみよう。そして。
(もしも彼に秘密があるのならば、全部見てみたいものだね)
そう思った。
□□□
「きみはこれから入学式だね」
アズリエルは自分の寮で預かっていたルシオの荷物を返しつつ、彼に笑い掛けた。
「今度は行きつけのコーヒーハウスに案内してあげるよ。それから、もしヴィンター寮になったらよろしくね」
そう言って、ひらひらと手を振って去っていった。
正直ルシオとしては、宿敵たるあの男と関わりたくない、というのが本音だった。それにあの男は、先程から変な目線をこちらに向けてきていた。怖い。
ルシオは「よろしくしたくないな」と呟いた。
いずれにせよ、ルシオはあの男と戦わねばなるまい。それが運命だ。なぜなら。
「アズリエル。あの男が、この小説の主人公」
――だからだ。




