31話
司会者が次の商品の紹介を始めた。
「『ホーキンズの冒険』の初版本です!」
「来た」
シャックスは身体を震わせた。
この『ホーキンズの冒険』の初版本が、シャックスの本命である。
だが、この男に先のような笑顔や元気は完全になかった。幾度となく落札できず惨敗し続けたシャックスには、もう希望の欠片も残っていなかったのだ。
「……どうせ落札できないんだろうな」
今までの溌剌さが嘘のように、シャックスはソファに身を埋めた。本命が来たというのに、落札に挑戦するどころか入札する意欲すらないらしい。
イヅナが書類を一枚取り、シャックスに差し出す。
「シャックス様、やるだけやってみましょうよ。欲しかった物なのでしょう?」
しかしシャックスはそれを受け取らず、顔を手で覆った。
「入札したら無駄に期待しちまうだろ。だったら、何もしない方がまだマシかもしんねェ」
意気消沈してしまったシャックスの反応にイヅナは困ったような顔をして、用紙を差し出したまま行き場を失った手を戻そうとした。だが。
ルシオが、それを受け取った。
「おい。いくらで入札するんだ」
ルシオの言葉にシャックスは目を丸くした。
入札しようがしまいが、結果は目に見えている。それはルシオだってわかっているはずだ。
「だけどよォ……」
情けない声を出したシャックスを遮り、ルシオは言った。
「貴様は何のために、この俺をここまで連れて来たか忘れたのか?」
「何のためって……」
ルシオたちをオークションに誘ったとき。シャックスはこう言った。『助言してくれそうな奴がいたほうがいい』と。
「俺に助言させるためだろうが。
だったら助言してやる。――『俺にやらせろ』」
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シャックス・サーペンティ。
王国有数の高位貴族、サーペンティ公爵家の次男坊である。
ゆえに幼い頃から、貴族の家門の一員として生きてきた。
そしてそれはシャックスにとって、決して良い経験とは呼べるものではなかった。
「シャックス坊ちゃんは本当に愛らしいですね」
そうやって、社交界の度に可愛い可愛いと褒めてくれる紳士がいた。
しかしある日、お手洗いから戻ってくるときに偶然聞いてしまった。
「シャックス坊ちゃんは、兄より不出来らしいぞ」
と、そう貶しているのを。
幼心に、人間には裏表があるのだと知った。
社交界だけではない。小学校でさえそうだった。
「シャックス様、これ差し上げます」
「シャックス様、うちの両親が是非お茶会にと」
シャックス様、シャックス様、と。
皆まだ年端もいかぬ子供だというのに、あの手この手で擦り寄ってきた。しかしその実。
「シャックス様は俺より頭悪いのに、高位貴族だからってちやほやされて気に入らない」
「先生たちもさ、シャックス様の成績、贔屓してるよね」
そう、思われていたのだ。
貴族も平民も。
外面だけ良い顔をしていたに過ぎなかったのだ。
高位貴族の家系に生まれながらシャックスが型にはまらない性格になっていったのは、そういう『高位貴族に媚び諂う』風潮が嫌いだったからだろう。
要は、『媚び諂われる対象』から外れた人間になりたかったのだ。
友達を作ることは、諦めた。
上部だけの関係ならいくらでも築ける。よりどりみどり選び放題だ。
だがその中に、裏表のない者は皆無だった。
「俺は、正直者と出会うことは決してないだろうな」
そう思っていた。
――ルシオ・カイヤナイトと出会うまでは。
ルシオは他の大勢のように、作り笑いの仮面をつけなかった。
つっけんどんで、冷ややかで、傲慢。だが、どのような身分の者――自分のような高位貴族の家門の者にも、平民の者にも、態度を変えなかった。
最初に『貴様』と呼ばれたときには、つい笑ってしまった。そんなふうに呼ばれたのは、生まれて初めてだった。
シャックスは出会って間もないこのルシオ・カイヤナイトという男に、早くも信頼に似た何かを抱き始めていた――。
□□□
シャックスは、もしや、と思ったら。
ルシオなら、やってくれるかもしれない。
そんな淡い期待が湧いてきた。
「――いくらで入札するのか、だったな」
シャックスはルシオの方を向いた。
「いくらでもいい」
「そうか」
ルシオは頷き、テーブルに覆いかぶさるように猫背になった。「姿勢悪ィな」というシャックスの呟きを無視し、用紙に金額を記入した。
15万、と。
「そんなに少なくて大丈夫なのか?」
ルシオは猫背のままシャックスの方を向き、口の端に笑みを乗せた。
「断言しよう。もう貴様の邪魔をする奴はいない」
□□□
「1万、3万、5万……!」
『ホーキンズの冒険』の初版本。入札額の開封が始まった。
「15万! 15万が出ました!」
シャックスの用紙が読み上げられた。
シャックスは「お願いします、お願いします」と祈るように胸の前で手を合わせている。
司会者はペーパーナイフで次々に書類を開けていった。
「7万、8万……!」
最後の、一枚。
それをペーパーナイフで開封した司会者は。
最後の金額を、読み上げた。
「5番のお客様で……10万ッ!!」
司会者は――一瞬目を丸くして、そしてこう叫んだ。
「15万! 3番のお客様で、15万ーーッ!」
――決まった。
「やったぞルシオ!」
わっ、と拍手が巻き起こった。
無事に本命を仕留められたシャックスは、ルシオにがばりと抱きついた。
ルシオはシャックスを引き剥がし――用紙を一枚取ると、こう書いた。
『見えているんだろう? あとで話をしよう』
今この瞬間を、呆然と見ているであろう人間に向けたメッセージだった。




