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19話

 放課後。

 学校の中庭にいたイヅナとヴィネアのもとに、ルシオがやってきた。


「授業を返上して見に行った甲斐があった」


 それ以上、ルシオは語らなかった。

 さて、ルシオはヴィネアに、調査資料等々の書類を返した。


「あとは行政に任せろ。被害額も戻ってくるはずだ」


 つまりこの件を事件化し、刑事か民事、あるいはその両方において裁いてもらうということである。

 その結果――といっても、民事訴訟で勝訴すればの話だが、商団との取引は無かったことになり、被害金が戻ってくるというわけだ。

 ふとイヅナは疑問を口にした。


「そうなると、シンドル商団からの金銭の贈与も無効になってしまうのでは……」


「心配いらん」


 ルシオは契約書――例の、5000万モンドを贈与する、と記載された書類の控えを出し、一部を指し示した。

 イヅナはそれを読み上げる。


「『第3条(契約の不可撤回性)本契約は、いかなる理由があっても破棄または撤回することはできない』……?」


 ヴィネアが身震いし、ルシオを化け物か何かを見るような目で見た。


「ルシオさんは悪魔ですわ」


「いえ、ルシオ様は人間でいらっしゃいます」


 すかさず指摘したイヅナに、ヴィネアは「モノの例えよ」と返した。


 空気が緩みかけたところで、ルシオが咳払いをした。


「ヴィネア・オパール。二人だけで話がある」


 察したイヅナは一礼するとその場を立ち去った。

 その場に二人きりとなり、ルシオは改めてヴィネアに向き合った。――切り出すときがきた。


「これでオパール家の借金はチャラだ。被害額が戻って来れば黒字にさえなる。もうカイヤナイト家の支援に頼らずとも良い」


 ルシオの言わんとしていることを察し、ヴィネアは――その意味を問おうとして、しかし口にできなかった。

 そしてルシオは、ヴィネアの予想通りの言葉を続けた。


「俺たちの婚約は、これ以上続ける必要がない」


 ルシオは鞄から封筒を取り出し、ヴィネアに差し出した。


「俺の両親には話を通した。あとはオパール伯爵のサインがあればいい」


 ヴィネアは――腑に落ちた。

 ルシオがこの件に尽力していたのは、伯爵家のためではない。


「……わたくしと、おさらばしたかったからですのね」


 冷静に考えれば、そうだ。

 ルシオのような傲慢な人が、ただ他人のためだけに動くわけがないのだ。


「そうよね。あなたは昔からそうだった。ずっと、自己中心的な人間だったわ」


□□□

 ――昔。

 『ルシオ』たちが小さい頃。

 カイヤナイト男爵家を訪ねたヴィネアに、『ルシオ』は罵詈雑言を浴びせた。


「貴様との茶会のせいで、勉強の時間が奪われるんだ!」


 幼いヴィネアは、ただ『ルシオ』の罵声に怯えることしかできなかった。


「……っ、そ、それでしたら、わたくしがお勉強を教えて差し上げます」


 ヴィネアにできる『ルシオ』への精一杯の優しさのつもりだった。

 だが悲しいかな、その誠意が彼に伝わることはなく、むしろそれを自慢として受け取ったのだ。


「貴様が、俺より頭がいいと。そう言いたいのか!?」


 ヴィネアは身震いした。

 ――これ以上ここにいれば、泣いてしまう。


「……っ、お手洗いに行ってきます」


 ヴィネアは逃げるようにその場を立ち去った。

 足がもつれ、転びそうになりながら廊下を進み、角を曲がって。

 ヴィネアは、ぺたんと座り込んだ。


 耐えていた涙が、一気に溢れ出た。

 この婚約はオパール家の存続のために必要なのだと、幼いながらも理解していた。婚約が白紙になるようなことがあってはならぬのだ。

 だからヴィネアは唇を噛み、嗚咽を押し殺し、止めどなく涙を流した。


 かつ、かつ、と。

 そんなヴィネアに近づく足音があった。


「ヴィネア様。床は冷たいですよ」


 話し掛けてきたのは、どことなく『ルシオ』と似ているが、その黄金の髪は真っ直ぐで、『ルシオ』よりずっと優しい目をした少年だった。


「ご挨拶が遅れました。僕はミケイル。卑しい者ゆえ姓はありません」


 ミケイルと名乗る少年は、ヴィネアが立とうとしない様子を見て彼女の横に腰を下ろした。


「ルシオ様のこと、申し訳ないです。ですがあれで可哀想な方なのですよ」


「可哀想?」


「ルシオ様は、良い大人に恵まれなかったのです」


 両親だけではない。使用人も、家庭教師も、誰もが『ルシオ』を甘やかし、叱ることもせず、教育を怠った。

 彼が捻じ曲がって育ったのは、大人のせいなのだ。


「もしルシオ様のことでお困りでしたら、僕があとで注意しておきます」


「そうしたら、あなたは?」


「……まあ、ルシオ様から引っ叩かれるでしょうね」


 ヴィネアは、ふふ、と笑った。


「正直ですわね」


 ――隣に感じられる温もりに、ヴィネアは落ち着きを取り戻していた。


「……ミケイルさんは、お優しいのですね」


 それから、ヴィネアは。

 新たな、安堵の涙が出そうになるのを堪えながら。

 ミケイルの横顔を見て。

 こう、言った。


「――婚約者が、あなただったらよかったのに」


 これは、愛の告白なんて可愛らしいものではない。

 決められた未来という牢の中から、僅かに覗く星を見て。無駄だと知りながら『あれが欲しい』と言うような。

 そんな、叶うはずもない、嘆きだった。


□□□

「――むしろ婚約なんて、わたくしの方からも願い下げですわ」


 ヴィネアは言い放ち、ルシオから渡された封筒を鞄にしまった。

 それからふと父の言葉を思い出して、最後に訊くことにした。


「……ひとつ聞かせて頂戴。あなたが『問題児』と呼ばれるようになったのは、なぜ?」


 ヴィネアの質問に、ルシオは冷ややかに笑った。


「知らなかったのか?」


「知ってるわ、あなたが同級生を殴ったってね。それはなぜかと訊いてるのよ」


「なぜか……ね。簡単だ」


 ルシオは目を細めた。――瞳にいつも爛々と佇んでいる光がこの時ばかりは見えず、あまりにも冷たく見えた。


「気に入らなかったからだ」


 ルシオの淡々とした声に、ヴィネアは背筋が凍る思いだった。


「……そんな理由で?」


 ルシオは端正な顔を――歪ませて笑った。


「ああそうだ、まったく気に入らん。弱い犬ほどよく吠えるとは言うが、殴ってみればヒィヒィ言って、教師に泣きついてな――」


 ――我慢の、限界だった。


 バシッ!

 ――と。

 ヴィネアは、ルシオの頬を叩いた。


「……最ッ低」


 一言。そう吐き捨ててから、ヴィネアはその場を後にした。


 ルシオは、その場にぽつりと残された。

 後を引く痛みが、ルシオをより一層孤独にさせた。


 別にヴィネアに恋や愛のような感情を抱いているわけではない。ただ。


「――気に入らない、な」


 何が気に入らないかは、自分でもわからなかった。

 ルシオは痛む頬に手を当てて、一人寂しく笑った。


 ――これでいい。

 これで彼女も躊躇いなく、婚約の破棄を進めてくれるだろう。自分と距離を置いた方が、ヴィネアは幸せになるのだ。


 日が傾き始めている。

 ルシオは寮に帰ろうと歩き始めた。あえて人通りが多い道を外れ、雑木林に入る。


「……あ。校舎に鞄を忘れてきたな」


 どうも気が疎かになっているらしい。


 だからか。

 ルシオはそれを。


 ――避けられなかった。


「ッ!?」


 ルシオは背中に走った衝撃で吹き飛ばされた。

 起き上がろうとするも、何者かに地面に押さえつけられて身動きが取れない。


 敵の姿もよく見えない。辛うじて二、三人ほどの人間がいるらしいことがわかるが、フードとマスクにより男か女かすらもわからない。


「うッ!」


 手を後ろにぐい、と引っ張られ、縛られる感覚がする。それから脚を無理矢理掴まれて、こちらも縛られるのがわかる。


 ――誘拐。


 その二文字が、頭の中を駆け巡った。

 このタイミングだ、犯人は察しがつく。あの『ダミー会社』だろう。


(……煽ったのが良くなかったか)


 だがもしあのときルシオが顔を見せに行かなかったら、恨みの対象がヴィネアかオパール伯爵になり、彼らに魔の手が忍び寄ることになっていたかもしれない。それよりは遥かにマシだ。


 ルシオはいつも、罠に嵌めた人間に『俺がやった』と知らしめるようにしている。

 これは無関係の人間が恨まれ、報復などの危機に晒されないようにという、自分なりのケジメのようなものだった。


 と、不意に足音がした。誘拐犯ではない第三者が来たらしい。

 そして、よく聞き慣れた声がした。


「ルシオ様。どちらにいらっしゃいますか? お鞄をお忘れで……」


 直後、イヅナが姿を現した。

 ルシオは――まずい、と思った。

 イヅナの性格からして、ルシオが襲われているのを見れば、捨て身を覚悟で来てしまうだろう。


「来るな!」


 ルシオは叫んだ。


 イヅナに気付いた一人が、そちらに向かおうと方向を変える。ルシオは決死の思いで、その人物の足首に縋りついた。


「逃げるんだ!」


 直後、ルシオは頭から袋を覆い被せられ、それ以上の様子は窺い知れなかった。

 最後にちらりと見えたイヅナの姿が目に浮かぶ。普段あまり変化のないその表情は、明らかに動揺して固まっていた。


(――イヅナ)


 ルシオは無事にイヅナが逃げ切れることを祈った。

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