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11話

「父上が、亡くなられた」


 母の言葉が信じ難く、私は口の中でそう反芻した。


「父上、が……ッ」


 牢の中で。誇り高い父は、自らの手で、命を散らせたのだという。


「なぜ」


 なぜだ、なぜだ。

 神は乗り越えられない試練は与えぬと言うが、あまりにも非情ではないか。この世には神も仏もいないのだ。


 堪らなくなって家を飛び出すと、酷く寂れた住宅街が目に飛び込んできた。

 いつからだろう。労働者階級の者が住むこの地が、貧民スラム街に成り果てたのは。

 失業者で溢れ返り、犯罪が横行するこの街は、かつて父が守ろうとしたものだ。


 ――結局、守れなかった。


 父は武道に生きる男だった。

 東の国で主君に仕え、剣を振るっていたという。


 しかし武道の象徴でもある剣を、国は取り上げた。

 身分という古臭い文化の撤廃のためだと聞いた。


 父は自国で剣を握れないのだと知るや、廃刀令が存在しないこの国に渡った。

 ひとえに、剣を愛するが故だった。


 父はそこそこ高い身分だったらしいのだが、身分の撤廃と渡海を経験した父は結果、この国で平民として落ち着いた。

 そんな父に、幼い私は疑問を投げかけたものであった。


「父上は、高い身分に戻りたいと思ったことはないのですか」


「ないな」


 父はそう言って笑った。


 確かに、と納得した。

 私は生まれも育ちもこの国で、この国の貴族しか知らぬ。だが少なくとも目に映る貴族に、善良な人間は一人たりとていなかった。


 私は幼い頃フェンシングを嗜んでいたのだが、どうもそこは私の居場所ではないらしかった。


「平民のくせに、貴族の俺に勝つんじゃあねェぞ。生意気だ」


「勝つことしか能がないなんて、労働者階級の子供は野蛮だ」


 試合で私に負けた貴族の子息とその取り巻きは、念晴らしにと他の平民をさておいて私を批判した。

 ともかく私は貴族に嫌気が差し、フェンシングからはすっかり離れてしまった。


 私の知る貴族は、大人でも子供でも皆、血筋を笠に威張り散らす、居丈高な権威主義者だ。

 そう言う私に、父は警告したものだった。


「身分にとらわれ、その人物の本質を見ようとせぬとは、貴族がやっているそれと変わらんぞ」


 その言葉の真意を知ったのは、つい最近であった。


 小学校ミドル・スクール卒業後、私は名門学校パブリック・スクールニュージェイドに行くことになった。父を師とし父の故郷の剣術を嗜んでいたときに、刃物店の常連客である武官に目をつけられ、剣の腕を買われ推薦されたのだ。

 名門校というだけあり、その多くが上流階級以上の貴族である。私は少々渋った。だがいずれは武官となり職として剣を振るえるようになるかもしれぬと思えば、名門校というのはこれ以上ない選択肢であるのは事実だった。


 父の言葉もあり、入学式後に何人かの貴族らしい人間に声を掛けた結果、偶然うち一人が私の父を知っており、目を付けられるに至ってしまった。


「平民のくせに偉そうにするんじゃあないぞ」


 そんなことを言われながら、拳で幾度となく頬を殴られた。

 痛くはない。連中の拳は貧弱で、武道を嗜んできた人間にとってみれば蚊が刺したようなものであるからだ。

 辛くもない。連中の台詞は幼稚で、武士道を身に付けんと奮ってきた人間にとってみれば赤子が騒いでいるようなものであるからだ。

 何より、もう慣れた。


 だが、ああやはり、という失望がのしかかってきて、半ば父を恨んだ。

 身分にとらわれずその人物の本質を見よとは言うが、身分というものは人間性も捻じ曲げる。

 貴族に善良な人間なぞ、やはりいないのだ。


 だからこそ、その『貴族』により救いの手が差し伸べられるとは、思いもよらなかった。

 それも、特に高慢だった人物に。

 あのときのルシオ様の言葉は、一字一句違えず覚えている。


「イヅナ・セキエイ。別に貴様を庇ったわけでない、俺の眠りを妨げた奴が気に入らなかっただけだ」


 『気に入らない』という滅茶苦茶な理由を付け、ご自分の得にもならないというのにも関わらず――いやむしろマイナスだ、私のせいで罰を受けることとなったのだから――それでもルシオ様は、私に手を差し伸べられたのだ。


「協力してくれるな? イヅナ」


 ルシオ様は態度こそ貴族らしくあったが、どこか私がよく知る貴族のそれとは違った。

 そのどこかというのを言語化するには、私の中のボキャブラリーが足りぬ。

 それはきっと父が言っていた『その人物の本質を見よ』という教えの、『本質』の部分に当たるものなのだろう。


「父上」


 父の教えを請いたい。

 ルシオ様という、器の大きな方にお会いしたと、そう伝えたい。


 だというのに、その対象はこの世界にいないのだ。


「父上」


 年甲斐も無く頬を涙が濡らした。


「父上……」


 駄目だ。心をしっかり保てと、それが武士道であると父から教わったではないか――。


「父上ッ!!」


 自分の声で目が覚めた。

 嫌に背中が湿っていて、寝汗をかいていたことがうかがえた。


「呼んだか」


 隣にいた父が、半ば呆れるように笑い掛けてきた。


 ――そうだ。父は死んでいない。

 この街も平和だ。

 ルシオ様が尽力してくださったからだ。


 今日父は釈放され、休日だということもありそのまま家に泊まることにしたのだが、疲れていたためにソファで眠ってしまったらしい。


「父上が、死ぬ夢を見ました」


 これはきっと、あり得たかもしれない未来。そう思うと、声が震えてしまった。

 そんな情けない私に、父は諭すように優しく口にした。


「私は死なぬ」


 我ながら子供のようだと思った。親にあやされる赤子のようだと思った。

 だが――今はこれでいい。この安らぎを享受しよう。


「私、お会いしたんです。ルシオ様という方に」


 夢の中の父に言えなかったことを、現実の父に告げた。


「お優しい方で、ずっと助けてくださって……ッ」


 言葉に詰まった。

 私は、自分では精神年齢が高いと思っていた。だが実際は、実年齢とそう変わらないのかも知れぬ。

 父はやはり呆れつつも、そうかと頷いた。


「明鏡――曇りのない鏡を、心に持ちなさい。心に映るものが、曇ることのないように」


 それから、と父は窓の外を指差した。


「礼はお伝えしたか?」


 言われるがまま窓の外、平民の宅によくあるささやかな庭を見ると、黄金色に波打つ髪が月明かりに照らされていた。


「泊まっていただいたのだ」


 父が口を開いた。


「今日はもう遅かったからな。それに大したもてなしはできぬとはいえ、礼くらいはしたかったのだよ」


 私はルシオ様を追って庭に出た。

 夜の空気が冷たい。ルシオ様に助けられたのも、このような時間だった。


 散歩をされていたのだろうか、広いとはいえぬ庭を歩かれていたルシオ様は、私の足音に気付かれたご様子だった。目が合うなり、「早いお目覚めだったな」と軽口を叩かれた。


 私はルシオ様に、あのときと同じことを問うた。


「ルシオ様。なぜ、平民である私たちなどにここまで」


 ルシオ様は眩い星のような目を僅かに細めて私を見上げてこられた。冷たいようでいて、どこか笑んでいるようにも見えた。


「貴様は物覚えが悪いらしい。その答えなら以前したはずだ、奴が気に入らなかったと」


 不遜で、皮肉げで、横柄。

 だがその言葉の節々に、表面的でない真の優しさが滲み出ていた。


「……ルシオ様は、善い人ですね」


 そう言えば、ルシオ様は


「当然だ。俺は世界有数の善人なのだからな」


 そうおっしゃった。


 私は未熟者だ。

 ルシオ様に頼りきりで、私自身何もできなかったというのもあるが。

 それ以上に、精神面において未熟だ。


 顧みねばなるまい。

 そして成長していかねばなるまい。

 様々な想いが駆け巡ったが、いまは父がいる喜びを感受すべきことだろう。


 私はひざまづいた。


「やはり貴様は物覚えが悪い。他人に膝をつかせる趣味はないと言っただろう」


 ルシオ様のそんな刺々しいお声が聞こえてくる。

 ルシオ様は、素直でない方だ。誰にでも頭を下げるなと、そう仰られたいのだろうが、このようなつっけんどんな言い方をされるのだから。


 ルシオ様の心根を知っているからこそ、私は立つつもりはなかった。


「ルシオ様。どうか礼をさせてください」


 大袈裟だと言われるかもしれぬ。

 盲目的だと思われるかもしれぬ。

 それでも構わない。


「今度は私が、あなたのお役に立ちましょう」


 こんな私でも、役に立てる日がきっと来る。そのときのために、精進するつもりだ。


「ほう。貴様が?」


 お顔は拝見できなかったが、ルシオ様のお声は、どことなく楽しそうだった。


「――楽しみにしていよう」


 ルシオ様が、ふっ、と笑う気配が感じられた。

 これが、私が初めてお聞きした、ルシオ様の本心だったのだろう。


 そう、思った。


 ――イヅナ・セキエイの手記より

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