第27話 羨望
疲労困憊な桃花は、悩みの種其の二の出現に胃がキリキリと痛み始めた。
「桃花様ぁ、今度、西南区画で初夏を祝うお茶会を開くんです。ぜひ桃花様もいらしてくださいませ」
そっと、触れる指先。白魚の手がするりと手の甲を撫で、きゅっと握りしめられる。振り払おうと思えば振り払える、か弱い力だが、桃花には振り払うことも拒否することもできなかった。
葵妃から逃げ出せたかと思えば、桃真は呼ばれでいなくなってしまうし、今度は燕珠姫に捕まって、散々である。
桃真には説明してもらわなければいけないことが山ほどできた。簪を受け取ることが求婚を受けることになるだなんて知らなかった!
今からでも簪を返したい。葵妃によって引き抜かれた簪は、桃真手ずから髪に挿され、しゃらしゃらと銀細工が音を立てている。返すだなんて言わないよね? と言わんばかりの微笑に、いらないとは言えなかった。
それに桃花自身、蒼い花の簪を気に入ってしまったのだ。一目で、気に入った。返してしまいたい気もあるが、手放したくない気持ちもある。求婚の意味を知らなかったのだから、チャラにしてもらえないかな。桃真も何も言わずに渡してきたんだから、求婚なんて無しにしてほしい。そもそも、内儀様が許すとは思えなかった。
昏く、影を帯びた瞳に燕珠姫がそっと声をかける。
「桃花様、そんなにお茶会が嫌でした……?」
「ぁ、いや、そういうわけじゃないく……。あの、燕珠姫は、男性から簪を受け取ったことがありますか?」
ぱちくり、と大きな目を瞬かせて、美しく笑んだ。
「はい。主上から、入宮した際に燕子花の簪を頂きました」
「う、受け取って、どうした?」
「どうした、って、もちろん、大切に大切にしまっていますわ。あれはわたくしの宝物。命よりも大切な眩しいものです」
「そう、なんだ……」
なんだか泣きたくなった。彼女のように純粋な気持ちなんて持ち合わせていない。桃真の気持ちに答える気兼ねもない。
「桃花様も、どなたからか簪を頂いたんですの? ――もしかして、その簪? お姉さまがとぉっても厭そうな目で見ておりましたわね」
お姉さま? 首を傾げた桃花に、燕珠姫は葵妃様のことだと言う。
「お姉さま」と呼び慕っている葵妃とは遠い親戚筋にあたり、つまり、燕珠姫は紅家の傍系ということだ。まさか、ここにも紅家に繋が羅人物がいるとは思わず、目尻が引き攣った。
「桃花様は、その簪をくださった方のことを好いていらっしゃるの?」
「エッ。えっ!? 好きとか、そんなんじゃ……! まぁ、わたしにはもったいないくらい素敵なお方だとは思うけれど、とても結婚だとかそういうことは考えられないし、そもそもわたしが結婚だなんてありえないことで」
燕珠には、言い訳をしているようにしか聞こえなかった。
白い花を赤くして、視線は浮つき落ち着かない。若干早口なのも、照れ隠しにしか見えなかった。侍女たちの間で流行っている娯楽小説に出てきた、恋する乙女のようだった。
彼女の能吏に浮かんだ男が憎らしくて、悔しかった。燕珠は主上のことを慕っている。とっても優しくて、格好良くって、一番上の兄様みたい。でも、それと同じくらい桃花のことが好きだった。恋に性別は関係ないと考えている。愛さえあれば、どんな障害も乗り越えられる。同性同士だと、子供ができないのが残念だけれど、その分ふたりの時間を楽しみ幸せを噛みしめることができる。
ちら、と頭でさらさら揺れる簪に目をやる。透き通った蒼い花。水紋の銀細工。――嗚呼、と合点がいった。
「――蒼桃真様ですのね?」
「う”ッ……簪をくれたのは桃真様だけど」
「確かに、とぉっても素敵な方ですわね。家柄は王家に次いで、お顔もよろしくって、誰にでも優しい桃真様」
どこか刺々しい言葉だった。
桃花に対して好き好き大好き! という気持ちを隠そうともしない燕珠姫にしては珍しかった。
「わたくしも、蒼様のことは好きよ。でも、嫌いですわ。桃花様を奪ってしまう蒼様なんて、嫌い。嫌いよ、だいっきらい……ッ!」
「燕珠姫、」
ぶわ、と大粒の涙を浮かべた燕珠姫は、そのまま泣き出してしまう。えぐえぐと、子供のように口をへの字にして涙をこぼす。
ヒュッと息が止まる心地だ。こんな大勢の前で姫君を泣かせたとあっては、首と胴体がおさらばしてしまう……!
「え、燕珠姫、どうか落ち着いて。わたしも燕珠姫のことが好きですから、ね、ね?」
手を握り、必死になだめる。視線をさ迷わせれば、姫の後ろに控える侍女と目が合った。必死に目で訴えかければ、答えるように頷いてくれた。
「姫様、燕珠姫様、あまりお泣きになられては桃花様もお困りになってしまいます。大好きな桃花様を困らせたくないでしょう?」
「……うぅ……うん、」
「あまり桃花様を困らせては、もうお茶会にいらしてくださいませんよ。ほら、せっかくの可愛いお顔が台無しでございます。お化粧直しに行きましょうね」
とても柔らかな声音だった。子守唄を紡ぐ母のように、穏やかで、気持ちを落ち着かせる声だ。
十六歳というわりに幼さを感じさせる面立ちのとおり、情緒も子供のように不安定なところがある。好きなものにひたむきで、健気なところは涙を誘う。意図してやっているのではないだろうが、後宮の姫でありながらどこかあざとさを感じさせる言動は憎めず、桃花もついつい甘やかしてしまう。
花街育ち、早熟せざるを得なかった桃花から見れば、燕珠姫は禿のような小さい子供にしか見えなかった。
「た、桃花様、きらいにならないでくださいませっ」
「なりません。嫌いになんてなりませんから、ほら、お化粧を直してもらってきましょうね」
感情の起伏が大きいお姫様だが、嫌いになれなかった。
頭を撫でてやり、席を立つのを見送ってから、深く深く溜め息を吐きだした。