第10話 後宮
姐さんたちの部屋よりも広い室内に、桃花は所在なさげに佇んだ。客間というだけあり、豪奢な造りの部屋は大華の座敷を連想させた。
天蓋のついたふかふかの寝台は幾重にも紗が重なり、まるで深窓の姫君が暮らす一室で、六畳一間で生活をしていた桃花には広すぎるくらいだった。
「こちらの部屋を好きにお使いください」
「……あの、もう少し狭い部屋はないんですか? 広すぎて……」
苦い表情の桃花に、珀怜はにっこりと笑って「ありません」と告げた。
「桃花様は桜妃様のお招きしたお客様でございます。侍女・召使い一同、誠心誠意おもてなしさせていただきます」
梃子でも譲らない気持ちが見えて、早々に諦めた。
卓子に荷物と布でくるまれた愛剣をそっと置く。ずっしりとした重みの、本物の剣だ。ただし、刃は潰されているが。木でできた剣で舞うこともあるが、本物の方が手にしっかりと馴染み、心を預けることができた。内儀が、小柄な桃花のために用意した特注品である。
誂えられた調度品以外者のない部屋は殺風景でどこか寂しさが感じさせられる。春が終わるまで三か月もあるが、それまでこの広い部屋で過ごすのかと思うと気が滅入りそうだった。
春桜宮には侍女頭の珀怜を含めた侍女が十三人と、宦官が八人仕えている。四妃の中では少ない方だが、侍女たちはみな桜妃が故郷から引き連れてきた者たちだ。故郷――黄家で召し抱えていた侍女で、気心の知れた者たちであるからこそ少人数でも宮の運営が回っており、桜妃も改めて人数を増やすつもりはなかった。
後宮とは、白花の園であり、毒花の群生地でもある。政略と策謀が渦を巻き、美貌だけでは生き残ることができない、まるで蠱毒のような箱庭だ。
現在皇后位についている姫はおらず、四妃、六夫人、九嬪の十九人の姫が陛下の御心を射止めようと日々切磋琢磨している。より夜渡りの多い姫は、その分御子を授かり、皇后となりうる可能性があるのだ。
最も皇后に近いと囁かれているのが後宮の南に宮を持つ葵妃。次いで桜妃であった。
後宮に滞在するとなって、下手な厄介ごとに巻き込まれぬようにと基本的な情報は美美が、細かい内情は桃真が教えてくれた。
――紅家には気を付けろ、という茶総大将の忠告を覚えている。皇后第一候補の葵妃が紅家直系の姫君だった。なるべき葵妃には近寄らないように、と言われたが、桜妃と葵妃は犬猿の仲のようなので、その心配もいらないだろう。
❀ ✿ ❀
「桜の花が舞う中で、貴女の剣舞が見れたら最高でしょうね」
「え、今ですか」
「さすがにそんな無茶は言わないわ。それに、これからいつでも貴女の舞が見れるんだもの! とっても楽しみなのよ」
「その時はぜひ僕、と主上も呼んでくださいね」
「もちろん、主上はお呼びするに決まっているじゃない」
とってつけたような「主上」に桜妃は鼻を鳴らした。二人のやり取りは近所の子供のじゃれあいを見ているような気持ちになる。侍女たちは苦笑いだし、わたしはどう反応するのが正解なんだろう。
美しく咲き誇る桜の庭を見渡せる東屋で、煎餅を茶請けに花茶をいただいていた。
春を司る宮でもある春桜宮には春の花、特に桜が多く、長く花を楽しめるようにと長咲きの桜が宮を覆うように植えられている。
花茶には桜の花びらが浮かべられ、大変風流である。あたり一面を覆う桜並木は満開で、色が濃く、池に浮かんだ花びらが絨毯のようでとても美しかった。
「桃花さんはいつ頃から剣舞を始められたの?」
「物心つく前から、ですかね。わたしは、姐さんたちのように詩も詠めなければ、楽器も苦手だったので」
「剣舞以外は? 扇舞などはやられないの? 剣舞も大胆でとっても格好良かったけど、扇舞なども見てみたいわ」
「できることにはできますが……剣舞の方が性に合ってて」
ズイズイと遠慮なしに質問を矢継ぎ早にしてくる桜妃にタジタジだ。それこそ「なんで? どうして?」と聞いてくる小さい禿を相手にしているようだった。
「お、桜妃様はどうして後宮に入られたんですか?」
なけなしの頭を捻り、敬語を絞り出しながら間を見て尋ねる。質問攻めから解放されたいのに、桃真を見ても助けてくれないし、侍女たちが間に割って入ってくれるわけもない。
「――主上にね、一目惚れをしてしまったの」
頬を舞い散る桜のように色を染め、ふんわりと笑んだ桜妃はとても美しかった。
「一目惚れ、ですか」
「そう。実はね、私、そこの男と婚約者同士だったのよ」
思わずぎょっとして桃真を見た。
素知らぬ顔で桜を眺めているが、頬が引き攣っているのが丸見えである。
四家から王家へ嫁がせることも、四家同士で婚約させることも珍しくない。桃花には縁遠い話だが、後宮内ではそうもいかない。
「親が決めた婚約だったから、恋情や愛情はなかったのよ。あ、親愛はあったけれどね。幼馴染のようなものかしら」
内緒話をするようにクスクス笑う桜妃にドギマギしてしまう。
恋愛ではなくとも、元婚約者が遊郭に通い詰めてただの舞い手に熱を上げているのだ。もしかして、これはお招きではなくお呼び出しだったのでは? ゾワリと背筋が粟立って、白い顔がさらに白くなる。
「元婚約者を取られた腹いせに貴女を呼んだわけじゃないから安心して。純粋に、私は貴方の舞がとても素晴らしくて、独り占めしたくて呼んだのだから。――続きだけれど、蒼様が殿試に合格をしたお祝いの席で、主上とお会いしたのよ。ちょうど、桜の美しい季節だったわ」
黒い瞳に映った桜は、過去へ思いを馳せ、ここではないどこかを見ている。きっと、脳裏には陛下のお姿が描かれていることだろう。
ざぁ、と風が吹き、花びらが頬を撫でていく。美しい桜の季節だった。