この呪いには、恋を叶える力があります。
「知ってる? 呪いのラブレター。もらったら死んじゃうんだって」
「へぇ、どんな手紙なの?」
「それがさ、それがさ。――」
退屈な高校生活。女子生徒は、くだらないオカルトで花を咲かせている。
よくある噂話だなと、新堂明人は聞き流していた。木の粉を噴く机に、頬杖をつく。
男子生徒はというと、流行のオンラインカードゲームのデッキの話をしている。興味がないと、新堂はあくびで訴えた。
やがて起伏のない休憩は終わり、教壇を打つ足音が、静寂を呼び寄せる。
「それでは教科書の七十二ページを開いてください」
先生は、眉間に皺を寄せて、かつ――かつかつ、とチョークを黒板の上で踊らせる。
現代文。休み時間前は、数学だった。横書きから縦書きへ。文字を読む方向が変わるのに目を慣らすよう、紙面をなぞる。
「あれ? ない」
がさりがさり。顔を覆い隠す黒髪のベールを振り乱しながら、鞄の中でを手をまさぐる一人の女子生徒。ぼさぼさの髪の奥から丸眼鏡のフレームが覗くが、彼女の表情は読めない。朝倉千鶴は、その風貌のせいで、クラスから浮いていた。だから、彼女が教科書を探していても、声はかからない。
そんな彼女の様子に気づいた教員が、声をかけようかとしたそのとき。
「あ、あの……。俺でよければ、見せるけど」
隣の席だった新堂が、声をかけた。
引き寄せられる、ふたつの机。朝倉は、新堂から香る少年の匂いに、惹きつけられながらも、椅子を少しだけ離した。
しばらくして、彼女が先生に当てられる。音読の順番が回って来たのだ。
「朝倉さん、七十五ページの二つ目の段落から読んでください」
教科書が遠い。丸眼鏡越しに目を細める朝倉。
「ああ、手に取っていいよ」
「え、ああ。うん」
机の狭間に寝かされていた教科書は、朝倉のか細い掌の上に。
ぼそぼそと読む声は、先生の耳に届く前に、板張りの床の上に落っこちた。先生は、声を大きくすることを強要しなかった。
黒髪のベールの下から覗く、彼女の唇が言葉を紡ぐ。すると半ば少年の声のようなアルトボイスが、隣にいる新堂だけに届いて、鼓膜を震わせるのだ。
どこか見覚えがある。そう思いながらずっと、新堂は彼女の口元を眺めていた。
~§1§~
「お前さ、よく教科書見せてやったな」
「えっ?」
休み時間。新堂の友人、有田重幸が、話しかける。主のいなくなった新堂の前の席に座り、脚を組んだ。
「朝倉ってやつ? あいつってさ、見た目暗いから、怖ぇんだよ」
ぼさぼさした黒髪のベールで被われた顔。彼女の風貌は、そう言いたくなるのも頷ける。
「うーん。でも別に普通だったけどな。あ、でも、椅子を離されたのが、ちょっとショックだったかな」
新堂は苦笑いした。
「お前、ちょっと匂ってんじゃね?」
「うわー、マジで」
有田からデオドラントスプレーを借りて、ふりかける。パウダーが喉に入って、少し咳き込んだ。それを有田が腹を抱えて笑った。
***
外では、茜色に色づいた空は通り過ぎ、気の早い夜空が外を覆っている。下足室を照らすのは、切れかけの蛍光灯の灯りだけで薄暗い。
「あれから、朝倉としゃべったのか」
「いいや、あれっきり」
湿った、すのこの匂いを感じながら、靴を履き替える新堂と有田。
「あとさ。なーんか俺、あいつのこと、見覚えあんだよな」
「いや、同じクラスじゃん」
「そーじゃなくってさ」
鉄製の靴箱の扉。赤い錆が所々についている。ぎぃと軋むそれを、新堂が力づくで開ける。すると、はらりと封筒が落ちた。それを追うように、ぼてっという鈍い音も。
その瞬間、時が止まった。無音の中、休み時間に小耳に挟んだ女子生徒たちの噂が、新堂の脳内で再生される。
『それがさ、それがさ。毛糸を巻いて作った、小さなブードゥー人形。毛糸をぐるぐる巻きにして作る、あれよ。必ずそれと一緒に、下駄箱に入ってるんだって。恋文の内容は普通なんだけど、人形にこめられた呪いが、もらった人を殺しちゃうんだって』
ブードゥー人形とは、元はブードゥーの呪術で使う人形。呪いや願掛けに使う。毛糸をぐるぐる巻きにした頭部に、黒いビーズで眼をつけて、同じく毛糸を巻いて作った胴体をつけて完成。
鈍い音を立てて靴箱から落ちたのは、まさしくそれだった。ちょうど親指くらいの大きさ。作りが粗く、野暮ったい出来栄え。頭部は歪な球を描いていて、胴体と手脚の付け根からは接着剤がはみ出ている。
「なんだ、これ?」
噂を知らないのか、有田はのん気にそれを拾い上げた。
「……呪いのラブレター?」
「なんだそりゃ?」
「知らないのか、クラスで噂だぞ。ブードゥー人形と一緒に、靴箱に届けられるんだよ」
くだらない噂だろ。有田は小さく鼻で笑った。それに関しては同意見。問題は、なぜそれが新堂の下駄箱に入っていたのか。
「そんなことはいいからさ、早く中身見ろよ」
新堂の肩を叩いて、囃し立てる。
「はいはい。わかったわかった」
まったく、デリカシーのひとかけらもない、と新堂は顔を歪めた。
≪新堂くんへ
こんにちは。あまり話したこともないけども。他の男子の群れに紛れず、一匹狼みたいで。その憂いをおびた瞳が好きです。骨ばった首筋に、喉仏が出ているのをいっつも視線で撫でてしまいます。そうすると、ぼうっと頬が熱くなるのを感じるのです。廊下の窓が開いていると、新堂くんが風上になるときがあるのです。そうすると私は人知れず、呼吸を深くするのです。
紡ぐ想いは、今日はここまで≫
ふたりはその内容に、しばし言葉を失う。
「あのさ、これさ……。ちょっと気持ち悪くね?」
有田が漏らした。
「あと、今日はここまで、って。これからも手紙が届くってことか?」
「ふぇっ?!」
こんな手紙がこれからも続くのか!?
新堂は驚いて、すのこの上でどたばたとまごついた。ふと、そのとき、シューズボックスの影から視線を感じた。不審に思い、向こう側をちらりと見やる。――しかし、人影はない。
「どうした?」
「いや、なんか見られている気がして」
「なんかあったら、相談しろよ」
有田は、件の内容から、既にストーカーの気を感じているらしい。新堂は苦笑しながら、「ありがとよ」と返した。
~§2§~
≪新堂くんへ
また迷惑な手紙を書いてしまいました。私を許してください。昨日の体育の授業。汗をかきながら、体育館の壁にもたれてあくびをしていましたね。湿った体操服をばたばたさせる、いつもより薄着な君の痩せた肩。素敵でずっと見とれてしまいました。
私は体育の授業が嫌いです。だって私は、どんくさいし。髪を結わうのが、恥ずかしくって。
でもそうして、広がった視界の中で、君が走る、動く。それが見ていてすっごく幸せです。
紡ぐ想いは、今日はここまで≫
それからも、差出人不明の手紙は続いた。
最初に手紙をもらってから、一週間が経っていた。毎回、一緒についてくるブードゥー人形も増えていった。近頃は、作りが上手くなってきていて、頭部は綺麗な真球を描くようになっていた。接着剤も使われておらず、頭部と胴体、胴体と手足がしっかりと縫い合わせられている。
「あれからずっと続いてるのか」
昼休み。購買部で買ったから揚げだらけの弁当を頬張りながら、有田が尋ねるのは、件の手紙の話。
「ああ。最初は少し引いたけれど、なんか慣れてくると、俺のこと見てくれているのかなって。――ちょっと、誰なのか知りたくなったかな」
めでたい奴だな、と鼻で笑う有田。
「でも、おそらくはこのクラスの誰かなんだろ?」
確かに、それは確実だった。そうでなければ、体育の授業での様子など、知るわけがない。
「もう少し、絞れるか?」
「いやなんで、そんな興味あんの?」
そう聞き返されると、なんでなのか、よく分からない。自分で自分に首を傾げながら、新堂は弁当のだし巻き卵を頬張る。
「あ、あの……。あ、あ――」
突然、天からか細い声が降る。見上げると、黒髪のベールから覗く唇が。
「えっと、どうしたの。朝倉さん」
朝倉は、自分が言葉を発しようかという前に応えられて、びくりと肩を跳ねあがらせる。そして、口を一文字に閉じて噛み締めた後に、少しだけ歪めた。
「えっ、ああ。う。その――、助けてあげよっか」
「は、はぁ……。なにを?」
やっとこさ出てきた言葉をつき返されたようで、朝倉はぴきりと固まってしまった。
「ごめん。あの、よく話が読めなかったからさ。助けるって?」
「そ、その……変な手紙が届いて、困ってるって聞いたから」
変な手紙。有田は、そう思っているが――。
もし彼女の助けによって、送り主に近づけるのなら、と新堂は首を縦に振った。
「じゃ、じゃあ――そういうことで、放課後。文芸部の部室に来て」
~§3§~
野暮ったい丸眼鏡は、牛乳瓶の底を思わせるように度がきつい。
それは、読書の際の悪い姿勢が招いた代償。朝倉は、古ぼけた机の天板に胸骨を付け、食い入るように紙面にかじりつく。西村京太郎の著作、ローカル色の強いサスペンスに没入するも、彼女の頭の中では、ある声が反響していた。
『それじゃあ、あたし。悪者じゃん』
それが脳裏に響くと、もやもやしたものが視界まで侵食するようだった。やがて、内容が頭に入らなくなってきて、うう、ううと唸り始めたころ。建て付けの悪い引き戸が軋んで来客が。
「すっげえ姿勢で本読んでるな……」
半ば呆れたように呟いたのは、新堂だった。
朝倉は黒髪のベールの内側で頬を朱に染めて、咳払いでそれをごまかす。すくっと立ち上がって、仕切り直し。
「し、しんど……新堂くん。今日は、あの呪いのラブレターの件で来てくれたのよね」
「……そうだけど」
新堂は一瞬首を傾げてから、引き戸を閉める。両手をスラックスのポケットに入れ直して部室の中へ。
「西村京太郎、読むんだ?」
「う、うん。電車で旅をしながら事件に巻き込まれたりとか、そういうのが好き」
椅子を引いて、ちょうど朝倉が座っていた席の真向かいに座った。
「旅情ミステリが好きなら、“ゼロの焦点”もいいよ。松本清張のだけど」
「あれもロケーションが良かった。――じゃなくて、今日は、呪いのラブレターの送り主を探すんでしょっ」
すっかり新堂のペースに乗せられていることに気づき、朝倉は話題を戻す。勢いで乱暴に机をたたいてしまった。
取り乱した彼女の様子を見て、新堂はくすりと笑う。
「し、新堂くんは、怖いって思わないの? 気持ち悪いとか、そう思ったから、ここに来たんだよね?」
「……まあ、どんなやつが送ってきたのか、知りたくなったんだよ」
その返答に、朝倉は少しだけ戸惑う。頬が熱を持つのを感じる。それを咳払いでごまかして、話を進めた。
「じゃあ、例の手紙を見せてみて」
≪新堂くんへ
またまた書いてしまいました。寒さがまだまだ厳しくて、風邪が流行る季節なのに、コーラスコンクールがあるのは辛いですね。新堂くんの歌う声は、少し外れているけれど、一生懸命なところが、かわいいなんて思ってしまいます。私なんて、上手くないし、声も小さいからダメダメです。どうやったら、私は自信が持てますか。ごめんなさい、こんなことを聞いても仕方ないですよね。
紡ぐ想いは、今日はここまで≫
朝倉は、何通もの手紙を、驚くべき速度で読み終えた。ほとんど内容に目を通していないんじゃないか、と思うほど。
「そ、そうね。同じクラスの生徒とみて、間違いなさそうね」
体育や音楽の時間での様子も入っていたのでは、そうとしか考えられない。しかし、同じクラスの女生徒と限定しても、十八名いる。
「一緒に送られてきたっていう、ブードゥー人形も見せてくれる?」
渡したのは、一番最近にもらったブードゥー人形だ。新堂の親指大ほどのそれは、朝倉のか細い手の上では、少し大きく見えた。
「け、結構、精巧につくられているのね。手が込んでるわ」
声が少し上ずっている。
どうやら、手軽に作ることのできる類のブードゥー人形ではない模様。
「発泡スチロールの球に、毛糸をぐるぐる巻きにして作るのだけど、これはその巻き方がきっちりと対称になってるの。だから頭部が真球に近いし、目の位置も左右でズレていなくって、綺麗なの」
言われるとなるほど、頭部は真球で、毛糸は全てその重心を通る形で巻かれている。それに、頭部と胴体、胴体と手足の継ぎ目は、しっかりと編みこまれていて接着剤は使ってないと。
「これは、手芸部の仕事と見て間違いないよ。だから、手芸部員の仕業よ」
朝倉はきっぱりと言った。手芸部の女子はクラスに三人。
「そのうち沢井さんは、彼氏持ちだからまず、あり得ないと思うわ」
沢井、藤原、君島と同じクラスの文芸部員の名字を書いて、ひとつずつ消していく。
「多分ね、君島さんが怪しいと思うの」
「藤原さんは?」
「彼女はまだ、新入部員よ。編み物はそんな上手くないわ」
君島冴子。とりたてて仲の良い女子生徒はいない新堂だったが、君島のことは印象深く記憶していた。朝倉とは正反対の人物。性格のさっぱりとした美人で、目立つのだ。
「手芸部の部室を訪ねてみるといいわ」
そう言うと、朝倉は再び西村京太郎の著作に目を移した。
しばらくは良い姿勢をするかと思えば、読み始めた途端、机に上半身をもたげる行儀の悪さ。
「背骨曲がるぞ」
「もう、手遅れ」
「眼悪くなるぞ」
「そっちは、もっと手遅れ。だから早く行って」
読書を邪魔されたくないのか。新堂のことを邪険に扱う。そして彼女は、安楽椅子探偵のごとく、その場から動かないのだった。
新堂は小さくため息をついてから立ち上がり、本棚に並べられた本の背をしばらく撫でたりした後、部室を後にした。
部室を出ると、この寒い日に廊下のリノリウムの床にしゃがんで、有田が待っていた。
「なんか分かったか?」
新堂が出てきたのを見るや否や、新堂に尋ねる
「朝倉さんは、君島さんの仕業じゃないかって。というか、気になるんなら、お前も入ればよかったのに」
有田は大げさに首をぶんぶんっと横に振った。そんなに朝倉が怖いのか、と新堂は呆れる。たしかに近寄りがたい雰囲気はあるが、小柄な少女で力が強いとも思えない。同じクラスの不良の方が、何倍も怖い。そう言うと、「あいつらは異星人だから、カテゴリーエラーだ」とわけの分からない返答が。
「だけど、君島さんって……、そんなことするやつかな?」
有田が言うことは尤もだ、と新堂は思った。だが、朝倉から得た情報を無下にもしたくないと。
「少なくとも行ってみる価値はあるかなって」
お前勇気あるなあ、と有田は畏怖の眼差しを向けた。もし、それで君島があらぬ疑いをかけられたことに怒ったとしたら、それも怖いのだと。
「お前は、心底へたれだな」
びびって震える有田をよそに、新堂は廊下をすたすたと。
手芸部は、文芸部と同じく校舎の三階に位置しているが、ちょうど端と端だ。リノリウムの床を打つ二人の足音。長く続いて、やがて扉をノックする音が、その後を追った。
「はぁーい」
気だるげな返事をして、内側から引き戸が開かれた。
上背があるスラっとした体型に、ふっくらと膨らんだ胸元。艶を放つ長い髪は、アップで纏められ、ジャスミンの香りを放つ。君島は、気迫のある少女だ。
「あら、珍しいじゃない。新堂くんに、有田くんね。どうしたの?」
手芸部の部室を男子が訪ねるのは、文芸部よりもずっと珍しいらしい。
「男子なんて、生徒会以外来ないのよ」
君島の声は、朝倉のそれとは違って、自信に満ち満ちている。部室の中では、皆が皆縫物や、編み物に勤しんでいた。フェルトを縫い合わせて綿を詰め、縫いぐるみを作っている者、マフラーに手袋、中にはセーターを編んでいる強者も。
「工作に興味があるなら、どっぷり浸かる人もいると思うのよね」
手芸に勤しむ男子がいたら、一昔前の少女漫画みたいで、ちょっと楽しいかもと、君島は悪戯っぽく笑った。
「あ、そうだ。部活に秘密に持ってきてるお菓子、食べる?」
来客が生徒会でないと分かると、校則違反のポテトチップスやチョコレートを勧めてきた。
こうも機嫌のいい相手に、これから容疑を持ちかけるというのは気が引ける。しかし、ここを訪ねたそもそもの目的はそれだ。
「あの、ここじゃ話しにくいことなんだ」
いくらなんでも手芸部の部員のいる前では、君島を問い詰められない。
勧められたお菓子は遠慮して、すき間風の吹く廊下へ。きつい西陽のおかげで、少しだけ温かさがあるものの、やはり寒いものは寒い。
「なあに、わざわざ寒い廊下に呼び出して」
君島のテンションが、気温とともに、がくっと落ちた。寒さをしのぐために、部室にあった手編みのマフラーを巻いている。縫い目がまるで売り物のように綺麗だ。
新堂は、君島の大きな瞳から放たれる鋭い眼光に、一瞬たじろいだが、ついにその質問を投げかけた。
「俺の下駄箱に、呪いのラブレターが入ってたんだけど」
「あ、ああ……、それね」
彼女の顔が西陽の逆行になり、翳る。
「ええ。やったのは、あたしよ」
あまりにあっけなく白状した。
有田が目をぱちくりとさせている。
「で、でも君島さんが、そんなこと――」
「明るく振舞うってすっごく疲れるの。本当はあたし、自己否定感すっごく強いし」
そう言って、ヘアゴムで纏めていた黒髪を解いて振り乱す。一気に野暮ったい印象になった。
意外だな、と新堂は思った。
「ほらさ、あたし運動もそんな得意じゃないし。あとすっごく隠したかったんだけど、音痴だし」
君島の体育の成績や、音楽の成績が特別良いわけではないということは、新堂も知っていた。美術の成績は、すこぶる良いのだが。
「ほんの憂さ晴らしだったの。かき乱しちゃって、ごめんなさい。あと、呪いなんてないから、安心して」
深々と頭を下げる君島を、二人は怪訝な顔つきで見つめていた。
~§4§~
彼女は本の中に没入していた。紙面と丸眼鏡がぶつかるのではないかと思うほど、本を顔に近づけている。その姿はさながら、餌を食べる犬のよう。
建付けの悪い引き戸を軋ませながら、そこにもうひとり少女が加わる。気の早い冬の夜闇が、東向きの窓の向こうに広がっている。
「望み通りに噂も流して、三文芝居までしてやったけど。というか陽も落ちているんだから帰ったら?」
少女の口調には、彼女を責め立てるような静かな怒りが見える。
「あ、あの……。ごめんなさい」
委縮した彼女が謝ると、少女は辟易の意をため息に変えた。
髪の毛をヘアゴムでアップにまとめながら、つかつかと奥に入る。窓際の机、彼女の真向かいに少女は座った。
「あんたさ、ごめんばっかりじゃなくって。ありがとうも言ったら? せっかく頼みを聞いてあげたのよ」
「う、うう」
少し少女は怒っているようで、綺麗な顔に似合わない皺を、眉間に浮き上がらせている。その気迫に圧倒されて、彼女は唸るばかりだ。
「あ、ありがとう……」
「臆病なのと、素直になれないのは一緒じゃないのよ。で、なにか収穫はあったの? あんな茶番させておいて、何もないってことはないわよね?」
「そ、その……、やっとちょっと喋れただけで」
「ふーん、好きな食べ物とか。あ、好きな女の子のタイプとかは聞いた?」
そこで少女は、机に身を乗り出して、彼女とぐっと顔を突き合わせる。
「そ、そんなの……、聞けないよ」
「なーんだ、つまんないの」
だが、ガールズトークが始まることはなかった。
「彼も推理小説が好きってことくらい」
「何が好きって?」
「松本清張」
「あー、社会派のね。悪女とかを書いてるのが多いよね」
少女は、彼女と顔を向き合わせることなく、気だるげに脚を組んで、頬杖をつきながら瞳を濁らせた。
「あんたってさ、まさしく悪女だよ。それも、小説の主人公にもなれないような、華も何にもない小物」
少女はそう吐き捨てて立ち上がり、部室を後にしようとした。その背中を彼女は呼びとめる。
「待って――」
「あたしだけ踊らされて、バカみたいじゃない。あんたさ。自分のやったこと、好きな人に失礼って思わないの? ――もう、口聞いてやんないから」
少女の冷たい言葉は、彼女の胸の奥深くまで突き刺さった。
~§5§~
この日も、新堂はずっと隣の席の朝倉のことが気になっていた。
なにせ、この数日彼女は、心ここにあらずといった状態で、ずっと窓の外をぼんやりと眺めてばかりだったのだ。
やがて、放課後になったが、彼女は文芸部の部室にすら移らず、ただただ机に突っ伏していた。
「おーい、帰らないのかー」
「ああ、うん」
有田に呼ばれて、新堂は廊下に出た。
「なんか、朝倉さん、最近いっそう暗くなってないか?」
呪いのラブレターが届かなくなって、三日が過ぎていた。
その間、朝倉の様子はどうもおかしかった。もとから、暗くておどおどしていて、人を寄せ付けなかったが、この三日間の彼女は、それに磨きがかかっていた。
「そうだな」
「そう言えば、一昨日、手芸部の部室にもう一度行ってたけど何してたの」
「あれは、野暮用だ」
「変なの。というかさ、やっぱり君島さんがあのラブレター書いたって思えないんだよな」
新堂と有田は、そんな話をしながら下足室へ。
ふと、思い出したように新堂はトイレに行くと言い出す。そして、有田をその間待たせ、再び合流し、二人は家路についた。
朝倉が下足室に降りたのは、その二時間ほど後のことである。
彼女は、新堂と有田が帰ったのを確認した後も、日が落ちるまで学校の机で突っ伏して過ごした。文芸部の部室にも行かず。西村京太郎の著作も読まなくなっていた。
頭を垂れて、とぼとぼと歩くその姿は、亡霊のよう。亡霊はゆっくりと、鉄製の下駄箱の扉を開けた。
はらり。その後を追う、ぼとり。
二つの音色。足元に落ちた、手紙とブードゥー人形。
朝倉は凍り付き、やがてへなと尻餅をついて震えた。
「ど、どうして……。どうしてっ」
呪いのラブレター。それは今度は、朝倉のもとに届いたのだ。彼女は座ったまま、後ずさりして、向かいのシューズボックスまで追い詰められた。
「どうした? 呪いのラブレターでも届いてた?」
唇と肩を震わせる彼女に、天から声が降り注いだ。
見上げると、帰ったはずの新堂が、朝倉の顔を覗き込んでいるではないか。
「し、新堂く――」
そこで、朝倉は自分の顔を見られたことに気づき、顔を赤くして両手で覆い隠す。
「な、なんでっ、新堂くんがここにっ」
「呪いのラブレターの、本当の送り主が誰なのか、分かったんだよ」
新堂はしゃがみ込み、朝倉と顔をつき合わせる。とはいっても、彼女は振り乱した黒髪を元の通りに前に下ろして、表情を隠しているが。
「朝倉さん、俺に呪いのラブレターを送ったのは、本当は君だよね?」
「な、なにを――」
「それともここで、もう一度、君島さんに濡れ衣を着せて逃げる?」
新堂のその言葉に、朝倉はがっくりと肩を落とした。やがて、重たい口を開く。
「そう……、呪いのラブレターの本当の送り主は、私です」
朝倉は、それを認めた。唇を歪めて、罪の味を噛みしめる。
「君島さんが、あっさりと自白したけれど、やっぱりおかしいと思って。手紙には、こう書かれていた、“どうやったら自分に自信が持てますか”って。君島さんが、そんなことを書くと思えないしね。それに、ブードゥー人形が、何よりも妙だった。朝倉さんに渡したのは、最近もらったもの。だから綺麗だった。でも最初のそれは、お世辞にも綺麗な形なんてしてなかったんだ」
そう言って、新堂はすのこの上に落ちた、ブードゥー人形を拾い上げた。毛糸の巻き方が雑で、頭部が歪だ。接合部からは接着剤がはみ出している。ちょうど、新堂が最初にもらったブードゥー人形のように。
「ちょうどこんな風にね。不格好だった。……、結構難しいもんだな」
そこで朝倉は、面食らって新堂の顔を見つめる。
そして、驚きすぎて気づいていなかった。自分が隠してきた顔が、新堂の瞳に映っていることに。彼女の右の頬には、大きな傷があった。
「やっぱり、あのときの――」
その傷を見て、新堂は確信を微笑みに変える。
朝倉は、肩を震わせながら頬に一筋の川を流す。途端に自分のすべてが恥ずかしくなった。やがて、彼女は、すのこの上に手をつき、頭を下げた。
「ごめんなさいっ!」
それは、彼女が今までに出したことのないくらいの、大きな声だった。
「そう……、私……、小さいころに自転車でこけて、大けがして。でもそのときに、新堂くんが気づいてくれて、救急車を呼んでくれたのっ。私、私、それから新堂くんのことが好きでっ、近づきたくってっ」
えっぐえっぐと嗚咽を挟みながら語る内容に、瞳に悲しげな色を宿しながら、耳を傾ける。
「でも臆病な私は、きっかけすら作れなくて。だから、友達を利用して、噂を流して芝居までしてもらって。でも……、そうやってやっと話せる機会を作れたのに、私は何もできなかった。だって、こんな大きな傷がある私に好かれたって、迷惑なだけ――いや、違う。私は、卑怯なだけ。それで友達もなくしちゃうし……」
「俺もブードゥー人形、作ってみたんだけどさ。誰に作り方教えてもらったと思う? 君島さんにだよ」
思わず「え……」と声が出てしまった。
「君島さん、まだ君のこと嫌いになったわけじゃないと思う。だから、ちゃんと謝ってほしい。それは約束できるか?」
朝倉は、両の手をぎゅうっと握りしめてから、心の片隅でそっと胸を撫で下ろした。もう、自分は誰からも見捨てられて、独りだと思っていたから。
こくり、と新堂に見えるか見えないかぐらいに小さく頷く。
「ありがとう……。君島さんにも、ちゃんと謝るから。じゃあ、今日は――」
すのこの上に落ちた、恋文。それから逃げるように、立ち上がろうとする朝倉。
新堂は、その武骨な左腕を突き出して、彼女の逃げ道を塞いだ。
「なあ、俺がなんで、こんなことを言ったのかわかるか? なんでこんなことをするのか――」
朝倉は言葉を失い、新堂の顔を仰ぎ見ては、「まさか違う」と頭の中で繰り返す。
ひとつひとつが、ゆっくりと繋がり始める。が、朝倉はその事実の形が、自分に不釣り合いに思えて、理解することを拒否した。
「……私は……、とんでもないことをしたんだよ。そんな、もったいないよ」
「だけど、手紙の内容は、本物なんだろ? 俺の手紙だって本物だ」
すのこの上に落ちた恋文を拾い上げ、優しくほこりをはらい落とす。そして、ブードゥー人形を添えて、朝倉に差し出した。
「だから、受け取ってほしい」
「いい……の……?」
自己否定の強い彼女は、瞳を滲ませながら尋ねた。優しい瞳と頷く声だけが返ってきた。その低い声は、まるで身体を下からそっとすくい上げてくれるかのよう。その優しさに身を委ねたいと思いつつも、彼女はまだ震えていた。
薄暗い下足室を照らす、ちかちかと切れかけの蛍光灯の下。彼女は、手紙の封を開く。たじろぐ手元、かじかんで何度か空振りをした後、ついに恋文は、彼女の目に届いた。
≪朝倉さんへ
慣れない手紙で、おかしなこと書いていたらごめん。でも、ずっともらってばっかりじゃ、割に合わないと思って、書くことにしたよ。君はきっと、どうしてあんなおかしな手紙をよこした自分に、と思ってると思う。けれど、俺は正直、さしてモテたこともないし。だから、なんかむずがゆくて、ちょっと嬉しかったんだ。誰かが見てくれているってこと。やがて、誰なのかずっと、そんなことばかり考えていたよ。それが見つかって、今すごく嬉しい。――≫
読み進めていくとともに、目尻から水がほとばしる。頬を流れる細い川は、やがて大粒の滴へと姿を変える。
≪ブードゥー人形も、最初は下手だったけど、すっかり綺麗に作れるようになって、凄く練習したんだなって。俺もやってみたけど、マジでムズい。俺は、君みたいに上手くなるまで、続けられないや。
最後に、この事実にたどり着いたとき、すごく悲しかったよ。たとえ君の気持が本物でも、君がやったことは、ひどいこと。だから、しっかり謝ってほしい。とくに、君島さんに。どうして君島さんが、俺に人形の作り方を教えてくれたか、わかる? まだ、君と友達でいたいんだよ。だから必ず謝って。
そうしたら、俺も君の気持ちにこたえたい。
紡ぐ想いは今日はここまで≫
ぼたぼたと降った雨に、滲んでいく文字たち。
湿った手紙は、震える手の上で、くしゃりくしゃりと音をたてて曲がった。
「……あり……がとう。ありがとうっ」
新堂の膝にすり寄り、声を上げて泣く彼女。その小さな肩に、温かな手が添えられた。
それから数日が経った。
朝倉は、君島と無事に仲直り。彼女は、前髪で顔を隠すことをやめた。顔にある大きな傷を恥じらうこともない。すると人相だけでなく、性格まで別人のように明るくなったのだ。よく笑うようになり、猫背がちだった姿勢も心なしかよくなった。
「なんだよ、抜け駆けかよー」
肩を並べて帰る新堂と朝倉。有田は悔し気に二人を見送る。有田も彼女を見て、新堂を羨ましがるようになった。
その様子を見て、朝倉は笑った。
生まれ変わった彼女の笑顔を受けて、鏡を合わせたように新堂も笑う。
二人の学生鞄には、お揃いのブードゥー人形のストラップが揺れていた。
ブードゥー人形:
ブードゥーの呪術に用いる人形。毛糸をぐるぐる巻きにして作ったものは、ポクポンと呼ばれ、呪いの人形ではなく、願いを叶える人形として、タイに伝来。その後、日本でも流行し、お守りとして親しまれている。