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結局、その日のうちに東京へもどった。夜はできるだけ早く休み、そして朝になった。
深海は、例の場所を眺めていた。
今日はゴミ出しの日ではないから、こんな時間から彼女は出てこない。
出社するサラリーマン、学生──家々からは、途切れ途切れに人が排出されている。
平和な毎朝の光景……。
いや、そうではない。
……あいつがいた。
以前、見かけたあいつが、やはり監視するように眼を向けている。キャップをまぶかにかぶっているから、顔はわからない。
何者だ?
川名奈々子には今朝、富山を出発したことにして、あの人物について調べてみるか。深海は、そう決心した。
しばらくすると、そいつは動き出した。もう監視の時間は終わったのだろうか?
性別は、男だ。それはまちがいない。グレーの作業着のような上下。年齢は、若くも見えるし、年配のようにも感じる。顔をハッキリとらえるまでは、断定できない。
歩く足取りは軽やかだ。駅の方向へ進んでいた。
と──。
男の足が速くなった。
どういうことだ?
まるで、こちらの尾行に気づいたようではないか。
駅周辺の通りは、人で賑わっている。
男が、雑踏のなかに溶け込んだ。
深海は、立ち止まった。
完全に見失った。これ以上の捜索は、時間の無駄でしかない。
あきらめて、職場へ向かうことにした。
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午前九時。
健介は、奈々子へ連絡を入れた。
「──疑いがあります」
* * *
「あんたねえ、経費をムダに使ってんじゃないわよ!」
深海が研究室へ入ったとき、川名奈々子の怒鳴り声が響きわたっていた。
「はやくもどってきなさい!」
室内の時計は、九時二十分を過ぎたところだった。
受話器を置いた川名は、不機嫌そうに顔を深海のほうへ向けた。
「湖内か?」
「そうですよ、勇太のヤツ、遊んで帰るつもりです! あんなヤツに一人で出張させるのは、まちがってるんじゃないですか!?」
「新人のほうは?」
川名の懸念をなかったことのように、深海は訊いた。
「連絡ありましたけど……なんだか、疑いがあるそうで……」
彼女の表情からは、それを信じていないように思えた。
「どうしますか? そのまま勇太を行かせますか?」
「いや。天沼くんにお願いしよう」
「え?」
「彼女も本業のほうで忙しいだろうが、お願いしてくれ」
わかりました、と返事をしたが、川名が心の底から納得してないことは明白だった。
「池田くんなんですけど……」
堪えきれなくなったのか、川名がそう切り出した。
「どうした?」
「勇太は、まあ、性格に少々問題はありますけど、能力的には理解できます。池田くんには、いったいどんな力が……」
深海は、静かに川名をみつめた。
「地域課の交番勤務が板についている人材が欲しかったのはわかりますけど……それだけなんですか?」
「……本人は、覚えていないだろうな」
ゆっくりと、深海は話しはじめた。
あれは、半年ほど前のことだ──。
深海は、調査のために秩父へ行ったことがあった。結果としてそれは空振りに終わり、何事もなく帰路についていた。渓流沿いの山道だった。
川の水は澄んでいて、緑あふれる樹木が日々の疲れを癒してくれた。
通りがかったそこには、川遊びをしているグループや、釣りを楽しんでいる数名が集まっていた。釣りはエサ釣りではなく、フライフィッシングのようだ。釣りの経験はなかったが、知人から話だけは聞いたことがある。
レジャーなど、遠い過去にしか経験していない。思いがけず、足を止めて楽しそうな光景を眺めていた。川遊びのグループのなかには、まだ四、五歳の子供の姿もあった。
と──!
その子供が、川の深みにはまってしまったではないか!
はっ、と息をのんだ。瞬間的に川に駆け寄っていた。
子供の親や、釣り人もそれに気づいたようだ。
子供は溺れ、流されていく。ライフジャケットのようなものはつけていない。
このままでは……! 深海は、川へ飛び込もうとした。
警察官としての責任感というよりも、もっと根本的な本能のような感情だった。
そのとき──視界のすみに、竿をかまえる男性の姿がよぎった。
竿を振った。
なにをしようというのだ!? 深海は、唸った。
まさかとか思うが、針を子供の衣服に引っかけようとしているのか!?
そんなバカな!
やはり、はずれた。しかし男性は、一撃だけであきらめはしなかった。
二、三──四回目で、見事、子供の襟元に針が引っかかった。
だがフライフィッシングの針は、大型魚を想定していないはずだ。簡単に、はずれてしまうだろう。竿だって、折れてしまうかもしれない。
それでも釣り人は、信じて子供をたぐりよせた。糸が切れることも、針が曲がることも、竿が折れることも、まったく眼中にないようだった。
ただひたすらに、子供を助けようとしていた。
岸付近まで引き寄せたところで、針がとれた。しかしそのときには、ほかの釣り人や親たちによって、子供は救い出されていた。
ありがとうございます、ありがとうございます!
繰り返し、両親はその釣り人に礼を言っていた。
だが当の彼は、自らの身分をあかして、こう述べただけだった。
「ぼくは警察官ですから、当然のことをしたまでです」
警察官。が、そのときには名乗らなかった。遠出をして釣りに来たことも考えられたが、深海はヤマをはって、秩父署に問い合わせた。
なにがなんでも欲しい人材だと思った。
──ただひたすらに助け出す。
あのころの……熊本県警にいたころの自分にはないものだった。
羨ましかった。彼はまだ若く、未来がある。いまのうちに確保しておきたい。そうでなければ、なにかの拍子に、取り返しのつかない失敗をしてしまうかもしれない。
この自分のように……。
彼を導きたい──そう考えた。
それが、釣り人──池田健介だ。




