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富山市内のホテルから、深海は東京に連絡を入れた。
『あ、深海さん? おつかれさまです』
「こっちに問題はなかった」
時刻は、午後五時少し前だった。川名奈々子は、帰り支度をしていただろう。
「湖内と池田のほうは?」
『勇太は、もう一日調査を延長するって言ってます。あれは観光したいだけですね、たぶん』
「池田は?」
『彼も、もう少し調べたいって……まあ、はじめての単独任務ですから。どっちも、空振りじゃないですか? 深海さんもそうなら、三つとも何事もなかったみたいですね』
「そうだといいがな」
『もどるのは、明日ですか?』
「いや、今夜中にもどるつもりだ」
『ホテルをとってあるんなら、一泊すればいいのに。ゆっくりしても、バチはあたりませんて。あの二人は、まだなんですから』
「切符がとれなかったら、そうする」
そう言って、通話を切った。
ビジネスホテルの一室。いまはシャツを脱ぎ、肌着だけのくつろいだ格好だ。
シャツは、ハンガーにかけてある。自分で眼にしても、派手なガラシャツだ。
吸い込まれる。
見ていると。
あのときを思い出す──。
十七年前──。
熊本。そのころ深海は、県警の刑事部に所属していた。あるとき、顔見知りの地域課員から相談をうけた。彼は交番勤務の制服警官で、近所の住民から気になる話を聞いたという。
ある一家がおかしい、と。
どうおかしいのかまではわからない。しかし異変を感じる、という。その家に、長女の婿になった男が来てからおかしくなったということだった。とても漠然とした話だったから、その制服警官は上司に報告をしたものの、当然のことながら、それだけで警察は動けない。だから彼は、個人的にその家を何度も訪問した。とくに異常はなかった。ちゃんと家族に会うことができたし、脅迫されて平静をよそおっているふうにも感じなかった。
だが、どこかに違和感が残った。
彼は深海に、その家を見てくれないか、と頼んだのだ。
深海は、その家へ向かった。応対に出たのは、その家の長女と次女だった。問題の男の結婚相手と、その妹ということになる。姉妹と、いくつか会話を交わした。どこにも問題はなかった。制服警官にも、心配はない、と報告した。
それから、一年後──。
応対に出た長女は、ドラム缶に詰められた状態で遺体として発見された。そうだ。『熊本一家殺人・死体遺棄事件』──その発覚よりもまえに、深海は家族に接触していたのだ。
捜査は動き出し、その一家に警察が踏み込んだ。深海も捜査員の一人として、その場に加わっていた。
犯人の男は、その一家を完全に支配していた。父親も行方不明となっていたが、すぐに山中で埋められていたことが発覚した。母親と祖母は軒下で。まだ中学生だった次女だけは生きていたが、かなり衰弱した状態だった。さらに親戚の男性一人も行方不明となっていた。が、それはいまだに未解決のままだ。海に投棄されたようだが、現在においても死体はあがっていない。
犯人は逮捕された。手錠をかけたのは、深海自身だった。あのころは、まだ若手と呼ばれていた青二才だ。重要犯に手錠をかけるということは、一つの栄誉だ。だが、心はつねに苦かった。相談をうけたとき、もっと自分が真剣に捜査をしていれば……。
制服警官からも非難された。彼は責任を感じ、警察官を辞めてしまった。
派手なガラ。逮捕のとき、主犯の男が着ていたシャツと同じだ。
深海は、警察官としての希望を失った。助けられなかったから……だけではない。そのあとすぐに、その犯人が不起訴処分となったのだ。大物政治家の隠し子という噂は、本当だったようだ。
心神喪失? そんなバカな!
拷問で洗脳したあげく、家族同士で殺し合いをさせた。そんな男に責任能力が無いわけがない。だが、上からの圧力と刑法三九条の壁は高かった。飛び越えることはできなかった……。
それからの深海は、仕事で手を抜くようになり、上司からは信用を無くし、いつのまにか窓際部署に追いやられて腐っていた。五年が経ち、十年が経っても、くだらない警官人生に変わりはなかった。
ある時、警察庁の上層部から、声をかけられた。てっきり、辞表を書け、と命令されるのかと覚悟した。それでもいいと思った。自分のなかに、警察官としての誇りや情熱は微塵もなかった。しかし上層部からは、ある部署を創設する話をされた。そして、自分にそこの室長になれ、と。
一度は、断った。ちがう。断ろうとしたが、内容を聞いて、断れなくなった。
特殊Mケース犯罪研究室──。
その『特殊Mケース犯罪』とは、まさしくあの事件のことだったのだ。
正確には異なる。熊本の事件発覚から一年ほどして世間を騒がせた、北九州の事件を想定してのネーミングである。だが深海にとっては、熊本の事件のことだった。
不起訴となった犯人のイニシャルもまた、《M》なのだ。
むかしから、そのテの事件は報告されているそうだ。だが、全国的に有名になったのは北九州の事件であり、警察がその恐怖をはじめて認識したのが熊本の事件だった。
その後も、忘れたころに類似犯罪が世間を騒がせている。だからこそ、あの事件を専門に調査する機関が必要だと、上層部は主張した。あれに関わりあった君が、トップに適任だと……。
再び、情熱の炎が燃え上がった。
が、それは、かつての若々しく、明るい炎ではなかった。
黒々として、憎悪を形にしたような炎だ。
室長の話は断った。自分は、いち捜査員でいい。研究室に、リーダーは存在しない。一人一人が、それぞれの役割を果たすのだ。
精鋭の四人を集めた。フィッシュイーターを釣り上げる──そのためだけに。
まさしく、スペシャルチームだ。
あのときの苦い記憶を忘れないために、自分のユニホームは、毒々しいガラシャツにきめた。二度と、同じあやまちはおかさない。
二度と……。




