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秀明は、海を見ていた。
眼の先にあるのは、アパートの天井のはずなのに、瞳は広い海原をとらえていた。幼いころから知っている嫌いな風景だ。嫌いなはずなのに、心を奪われる。
なぜ、自分はこの海に惹かれるのだろう。
しばらくまえに、仕事で使った。いつもの同じ場所。もうそこには、楽園が構築されているはずだ。
そうか。秀明は、ようやくわかった。自分も、その楽園の住人になりたいのだ。
寝返りをうって、横を見た。女が寝息をたてていた。
秀明はギャンブルをしない。いや、これまで人生において、すべての賭に負けている。だから、賭はしないと決めたのだ。しかし、それがどういう気まぐれなのだろう……。
きっと、最後の賭だ。
なぜだか、この女に賭けてみたくなった。
女の名は、忘れた。
ただ快楽だけをあたえてくれればいい。そういう存在だ。
時計の針は、すでに正午を過ぎていた。
だが、女が眼を醒ます素振りはない。
秀明も、眠りにつくことを選んだ。
身体を休めるのは、何時間でもかまわない。
あの海原に抱かれるように、深い海の底へ意識を沈めた。
9
諸橋家の次女、つぐみが通う高校を調べあげた。市内にある公立高校だ。担任に話を聞けたが、数ヶ月前から不登校状態だという。
その担任に、彼女の自宅をたずねたか質問した。一度だけ行った、という答えだった。あきらかに少ないと思ったが、高校は義務教育ではないから、教師にそこまでの責任はないのだろう。
本人には会えたが、玄関先での訪問だったので、それ以外の家族は見ていないという。様子は、いたって普通で、健康には問題ないということだった。あくまでも精神的な理由で不登校を続けていると、本人の口から語られたという。
その具体的な理由までは、担任は踏み込んでいないようだった。もし、つぐみがまだ中学生だったとしたら、事態はもっと大きくなっていたかもしれない。
高校は、学校側からの退学措置もありえるし、本人が退学届けを出せば、それでやめることもできる。
ある意味、とてもドライな関係だ。
健介は最後に、彼女が不登校となるまえ、なにか特別なことがあったかを訊いてみた。
予想していたとおり、さあ、と担任は首をかしげただけだった。
諸橋つぐみ──。
どうにかして、彼女の心を確かめてみたかった。
* * *
「ねえ、あいつ、また来てる」
「あ?」
女が窓の外を眺めていた。
男も少し焦った様子で、外を見る。
「おい、つぐみ! あの警官に、なにかよけいなこと言ったんじゃねえだろうな!?」
ドスのきいた声が、家中に響いた。
妹は、ただ首を横に振る。
「この子は、そんなことしないわよ。わたしたちの大切な仲間なんだから」
女が、悪魔のように言う。
そうなのだ。妹は、男と女に引き入れられている。
哀れな傀儡。意思のない人形。凍りついている魂。
「どうするよ、蓮美?」
「大丈夫よ。あんな制服警官には、なにもできないわ」
「ホントにそうか?」
「あなたは、わたしの言うとおりにしていればいいの」
「だけどよ、もう塀のなかはこりごりだぜ」
「あれは、捕まったんじゃない。隠れてただけでしょ?」
「そ、そうだけどよ……でも、蓮美は入ってないから……」
「なに? 文句でもあるの?」
「ね、ねえよ……ねえけどよ、ここでも一線越えてんだからよ」
「おしゃべりがすぎるわよ」
女にたしなめられて、男が黙った。
いま男が口にした一線とは……まさか?
不安がよぎる。それは、姉のことではないのか!?
薄々は感じていたことだが、心臓に直接、拷問をうけたかのようだった。
いったい、姉はどうなってしまったのだ!?
「安心して。わたしに、すべてまかせておきなさい」
女の言葉で、男は落ち着きを取り戻したようだ。
これで確信した。この男もまた、従属する立場なのだ。
「あいつは、ほうっておいていいのか?」
「かまわないわ。まるで、小さな小さな働きアリみたいじゃない。一匹いたって、なにもできない」
自分自身を女王アリとでも見立てているのか、そう女はうそぶいた。
外からこちらを見ているという警察官は、はたしてこの家の異常を察知してくれたのだろうか……?
それを願う。
願ったところで、どうにかなるものでないことは……。




