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母の容体が、日を追うごとに悪くなっている。
服を取り上げられてから、もう何日が経つのだろうか。思い出す記憶力も、思い出そうとする気力も、あきらかに弱っていた。母だけではない。このままでは、自分も危ない。
グッタリと寝そべっている母。あの男とあの女が起きてくれば、正座をさせられる。
冬ではないとはいえ、ずっと全裸を強いられるのは、体力を奪われるはずだ。低体温症になっているかもしれない。
母よりはマシとはいえ、父もだいぶやつれてしまった。
姉の行方は、いまだつかめない。
あの男とあの女から聞き出すのは無理だろう。
ヘタに機嫌をそこねてしまったら、どんな仕打ちが待っていることか。
妹だけは、いい暮らしをしている。
ああ……。このままでは自分の命も、いつまでもつだろう……。
「おい、奴隷ども、朝の挨拶!」
男が二階から下りてきた。女もすぐ後ろについている。さらに、その後ろから妹も。
父はすぐに姿勢を正したが、母はそういかなかった。
「なにへたってんだよ!」
急いで、母の上半身を起き上がらせた。息はしているが、意識があるのかどうか。
「た、頼みます……このままでは、死んでしまいます……」
医者にみせてくれ、薬をあたえてくれ──そんな言葉は続かなかった。言ったところで、この男とこの女がほどこしてくれるとは考えられない。
母は、か細い声で、だいじょうぶよ、とつぶやいた。
なんとか自身の力で正座を……。
いつまで体力がもつだろうか? もう限界に近かった。
家のチャイムが鳴ったのは、そのときだ。
「おい」
男が言うと、妹が玄関へ向かった。いったい、だれだろう?
何日か前に、警察官がやって来た。いや、もうあれは一ヶ月近く前のことだろうか。そのときは、やっと救われるのかと希望をもった。だが、あろうことか……妹が警察官を追い返してしまった。すでに妹は、男と女の支配下におかれていたのだ。
希望のあとにのしかかるのは、絶望しかありえない。
たとえ警察官が何人訪れようと、この状況は変わらない。
永遠に。あの男とあの女が飽きるまで……。
* * *
「あのー、小田原城下署の者ですが」
薄く開けられた扉からは、十六、七歳の少女が顔を出した。
この家──諸橋正三家に住んでいる女性は三人。長女の琴音、二六歳。次女のつぐみ、十七歳。妻の佳代、四九歳。
年齢からいって、次女の諸橋つぐみである可能性が高い。
「なんでしょうか?」
少女は、平然としている。もしなにかあるのだとしたら、家に警察官がたずねてきたら、少しは動揺するものだ。
瞳の動きにも、異常はない。どうやらこの家には、なにもないようだ。
「あ、いえ……近所をパトロールしていただけですので。今度、そこの交番に来ることになった池田です。よろしくお願いします」
「そうですか」
ぶっきらぼうに応じると、女性はバタン、と扉を閉めた。
健介は、諸橋家から離れた。
住宅街の真ん中にあたる。周囲には、似たような家々が並んでいた。
衆院の補欠選挙が近いようで、少し騒がしくなっているが、こんな平和な町並みのなかに、ドス黒い人間たちに乗っ取られたところがあるなど、想像すらできない。
ここは、空振りのようだ。
富山の深海と、鹿児島の湖内のほうは、どうなのだろうか。
とりあえず、こちらはなにもないと、川名奈々子には連絡をいれておこう。
携帯を取り出して操作しようとしたのだが、なぜだか指が動かなかった。
あの眼が気になった。
恐怖もなければ、焦りもない。
……というより、すべの感情が欠落していた。
脱け殻──。
そうだ。そう呼ぶのがふさわしい。
どういう状況になったら、あのような瞳をするのだ?
健介の人生経験において、似たような人のことは知らないし、もちろん自分でも体験したことはない。
想像してみよう。
もし、あの少女が何者かの支配下におかれているとして、普通なら、必死に警官を追い返そうとする。茂原での、菊地たみ子さんのように。
圧倒的な恐怖があるはずだ。助けを求めようものなら、あとでどんな仕打ちをされるかわからない。だから、従う。意思を無くしてしまうということは、恐怖を感じることすらも麻痺しているということか。
恐ろしさの向こう側には、なにがあるのだろう?
従うことに意思を介在させない。
考えない。
ただ言われたとおりのことを、機械的にこなしていく。
そういう日常。
そこに、善悪はない。
命令する人間の、ただ言われるがまま。
(まさか……)
なんと、おぞましい想像なのだろうか。
健介は、それらを脳内からはじき出した。そんなこと、あるはずがない。
特殊Mケース犯罪研究室に配属されてからの数日が、慌ただしすぎたのだ。
あの少女は、無事に日々をすごしている。
そうにきまっている……。
健介は、空をあおいだ。
日差しは強い。平日の昼間、時刻にして十一時半。
(平日の昼間?)
どうして、こんな時間に高校生がいる?
訪問する緊張のあまり、そんなことすら考えがおよばなかった。
いやまて。十七歳だからといって、高校生とはかぎらない。地元警察からいただいた資料には、年齢しか記されていないじゃないか。たとえそうだとしても、休むことだってあるだろう。そうか。具合が悪くて休んでいるのかもしれない。だから、ぶっきらぼうな対応だったのだ。
(本当に、そうか?)
考えれば考えるほど、深みにはまっていくようだ。
もう一度、話を聞いてみようか……。
やめておけ。もしかしたら、彼女が長女なのかもしれない。幼く見えるだけかもしれないじゃないか……。
わかっていた。
彼女は長女ではなく、高校生だ。学校は、たまたま休んでいるわけではない。
何者かが、あの家に巣くっている。
住人は、助けを求めている。
あの空虚な瞳の奥には、救いを待つ希望が……かぎりなく絶望に近いそれが潜んでいる。




