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あの夏は、最悪だった。
うだるような暑さのなか、事件の捜査にあたっていた。当時は、熊本県警のいち捜査員だった。ある事件が発覚して、県警だけでなく、日本の警察が震撼した。
Mケースの発覚よりも、一年ほど遡る。
一つの家族が、あとかたもなく崩壊していた。
その家庭に入り込んだ悪魔によって──。
合計で五人が殺害され、ある者はドラム缶に詰められて海の底へ……軒下に埋められた者もいた。しかも、殺害された家族を殺害したのも、その家族なのだ。頂点に君臨した悪魔の命令によって、肉親を殺すのだ。
そうなるには、巧みなマインドコントロールと恐怖による支配が必要だ。
悪魔は、それらを魔術のように駆使した。
『熊本一家殺人・死体遺棄事件』と呼ばれるものだ。
生き残ったのは、一人だけ。
Mケースがその残酷性ゆえに報道を自粛したように、その事件も詳しい内容は報道されていない。あまりにも酷たらしいから、という理由だけではなかった。
犯人が、ただの人間ではなかったのだ。
犯人の父親が、有名な政治家だった。正確にいえば、隠し子だ。考えたくないことだが……多方面に圧力がかかったのは、ほぼまちがいない。報道、警察、司法にも──。
結果、事件は世間的に知られることもなく、動機面や詳細も捜査されることなく終わった。犯人は精神鑑定で責任能力なしと認められ、不起訴処分となっている。
あってはならないことだった。
父親である政治家が、だれであるのかも一般には広まっていない。現在においても、大物政治家としてあり続けている。犯人の顔写真も、本名も公表されていないから、いまどこでなにをしているのかも不明だ。
警察関係者でも、それを知る者はいない。
……いつの時代にも、こういうたぐいの事件はあったのかもしれない。しかし警察が認識した最初が、その事件であっただろう。そして、Mケースへ続く。
その後も忘れたころに、この種の犯罪が顔を出す。
尼崎、大阪堺──。
あのとき助け出された少女。当時十五歳。被害者であると同時に、自分の親を殺害している。彼女を《助けられなかった》ことに、深海は、どうしようもないやるせなさを感じた。
無力。警察官なんて、こんなものだ。なにもできない……限界を思い知らされた。
少女は、あたりまえのことだが、すでに成人となっている。
殺人は特殊な状況下でのこともあり、罪には問われなかった。彼女はいま、この東京で暮らしている。
深海の眼に、近所のごみ捨て場へ大きなビニール袋を運ぶ女性が映っていた。
成長した彼女だ。すでに結婚し、彼女の過去を知る者は限られているだろう。
「ん!?」
深海は、そのとき息をのんだ。彼女をうかがうように、男が一人たたずんでいた。自分と同じように、忍んで彼女を観察している。
何者だ? いまいる位置からでは、顔まではわからない。
彼女は、自宅へと消えていく。むろん、彼女が監視者に気づく素振りはなかった。
五分ほどして、監視者もいなくなった。
深海は、言い表せぬ不安を抱えて、その場をあとにした。
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「あれ? 深海さんは、まだ来てないんですか?」
少々、遅刻気味だったから、どこかホッとして健介は発言した。特殊Mケース犯罪研究室の狭いオフィスには、川名奈々子と湖内勇太の二人しかいない。
「なに言ってるの。深海さんは用事があって遅れてるのよ。新人の分際で遅刻ギリギリなんて、池田くん、たるんでるんじゃない?」
奈々子の説教には、返す言葉がなかった。
「まあまあ、先輩、そんな厳しくしなくても……」
「勇太は、黙ってろ!」
助け船を出してくれた湖内だが、あっさりと撃沈された。
「す、すみませんでした」
健介は、素直に謝るしかなかった。気を引き締めて着席する。昨日はバタバタしていたし、初めてで緊張していたから、あまり室内を観察している余裕がなかった。あらためて実内を見回すと、実際にはそれほど狭くないことがわかる。が、部屋の奥が大量の荷物に占領され、結果、窮屈になっているのだ。
「ピーポくん?」
巨大なマスコットキャラクターが、こちらを笑うように顔を向けている。
きぐるみのようだ。よく見れば、それ以外にも大小さまざまなピーポくんがいる。若干、色の異なるバージョンちがいも。
「ここ、もともと倉庫だったのよ」
「ピーポくんの墓場って、呼ばれてるッス」
警視庁だけのマスコットといっても、全国区の有名キャラだ。もちろん健介も知っている。いるのだが……なにかが、おかしい。
「わたしも、ここへ来て初めて知ったわ。ピーポくんに、いろんな家族がいたなんて」
「そうッスね。けっこう大家族ッスよね」
バージョンちがいは、それか。
「でもさ、うちのピーガルくんのほうが、絶対イケてると思うんだけどね」
よくは知らないが、奈々子がそう口にするということは、たぶん神奈川県警のマスコットなのだろう。
「山梨のふじくんは、イマイチッス」
健介は、迷った。埼玉のマスコット・ポッポくんの話をするかどうか……。
やめておいた。
「な、なんか……視線が気になりますね」
「なれれば、どうってことないわよ」
そうだろうか、と健介はチラッと巨大なピーポくんを見た。なんだか、嘲笑されているような気分になった。
と──。
軽やかに扉が開いた。だれかが入ってくる。てっきり深海だと健介は思ったのだが、それは見知らぬ……いや、昨日会っている男性だった。名前は……たしか、佐野といったはずだ。
「あ、サノッチ」
「いやー、奈々子さん、またどえらいもんを掘りあてたかもしれないぜ!」
佐野の声は喜々としていて、それでいて辟易しているようでもあった。その相反する感情は、なぜなのか?
「千葉県警から資料が来た。ヤツら、過去にやらかしてる可能性がある」
「どういうこと、サノッチ?」
奈々子からはヘンな呼ばれ方をしているようだが、呼ぶほうも、呼ばれるほうも、自然にしている。
そこで、佐野と眼が合った。
「昨日は、どうも……」
「お、新人くん」
年齢は、二七、八ぐらいだと思うので、アラフォーだという奈々子よりは(いまだ信じられないが)かなり年下ということになる。ざっと推測すると、階級は巡査部長か、警部補。
しかしそういえば、彼のつけているバッジが、あのときも気になっていたのだった。
記憶にまちがいがなければ、捜査一課の……。
警視庁捜査一課員のみがしているという赤バッジ。
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選ばれし捜査一課員──。
健介は、埼玉県警本部の捜査一課の人間を近くで見たことがないから、他県でも似たようなバッジをつけているのか、まったくそういうたぐいのものはつけていないのかよくわからない。だが、部外者すら思わず憧れてしまうバッジだ。
もし佐野が捜査一課に所属しているのならば、なぜこんなキワモノ部署が立ち並ぶエリアをうろついているのだろう?
「佐野さんは、捜査一課の管理官なんスよ」
不思議そうにしていたからなのか、湖内がそう教えてくれた。
「管理官? 捜査一課の……?」
ということは、警部……いや、管理官の階級は警視のはずだ。
彼の年齢を考慮すれば──。
「キャリア!?」
素っ頓狂な声をあげてしまった。
「そうッスよ。めずらしい、キャリア管理官なんスよ」
インテリ犯罪をあつかう捜査二課などはべつだが、普通、捜査の陣頭指揮をとる管理官は、叩きあげのノンキャリアがその任にあたることがほとんどだ。
そういえば、聞いたことがある。近年はキャリアの現場主義を推進しているために、警視庁捜査一課でのキャリア管理官も多くなってきたと。そして、それに追随する形で、他県警本部の捜査一課でも同様にその流れがあるということを。
健介の所属する埼玉県警にも、キャリア管理官がいたはずだ。当然のことながら、会ったこともなければ、見かけたこともない。そもそも、キャリア警察官の人数自体が非常に少ない。大半のノンキャリア警察官にとっては、縁遠い存在でしかないのだ。
「ま、そんな偉いもんじゃないよ」
佐野は、心の底からそう思っているかのように言った。だからなのだろうか、初対面のときから嫌味な感じはまったくしなかった。
「で、サノッチ、どういうことなの?」
奈々子が話をうながす。奈々子は本来なら警部補のはずなので、階級社会の真っ只中では、そんなふざけた呼び方など許される関係ではないはずだ。
「ヤツら、もともとは葛飾区でムチャやってた暴走族グループだったんだが、成人になってもバカなことを続けてるらしい」
「あ、そういうグループが増えてるんですよね? 埼玉でもあります」
かつてだったら、二十歳を過ぎると族を抜け、OBとなる。そこからは一般の生活に入り込むか、暴力団の構成員になるかの二つの道があった。しかし現在は、そのままグループのメンバーとして活動を続けるという、第三の道があるそうだ。俗にいう『ハングレ』と呼ばれる連中だ。
無論、成人になって罪を犯せば、少年法の適用がないぶん、罰は重くなる。なので、彼らは表立って派手な行動はとらない。そのかわり、巧みに犯罪行為を計画する。
「で、二年ほど前になるらしいが、ヤツらと接触があったと疑われる五十代の女性が、行方不明になったそうだ」
それはつまり、昨日の彼らが、なにかをした──ということだろうか?
「葛飾区で?」
奈々子の問いに、佐野はうなずいた。
「そう。だから、うちが動くことになった」
「じゃあ、サノッチが担当するの?」
「そうなるかもしれない。所轄署での先行捜査の結果、濃厚だと判断されたら、大々的に帳場をたてることになる」
「二年前には捜査できなかったんですか?」
健介は質問した。われながら、素朴な質問だな、と感じた。
「近所の通報で、交番勤務が見回りをしたときに、本人が出て、ヤツらのことは自分が招き入れている、と語ったそうだ。そう言われちゃ、それ以上捜査はできない。それからしばらくして、ヤツらは姿をみせなくなった。同時に問題の女性もいなくなっていた……というわけだ」
「でも、いなくなったのなら、捜索願いとか出てるんじゃないですか?」
「いや、その女性に身寄りはなく、近所の住人も、ヤツらの報復を恐れて、だれも声をあげなかった」
「そんな……」
「もっと年金をもらうような年齢だったら、役所が気づいて、こんなことになっていなかったかもしれない。もっといえば、当時ここが創設されていれば、こんな結果になっていなかっただろう」
こんな結果……。それが意味するものは、その女性が昨日の男たちによって、すでに殺害されている──そういうことだ。あのときの、深海が彼らに放った言葉が脳裏をよぎった。
『おまえらにマエがなけりゃな』
──せいぜい、おびえてろ。必ず警察は、つきとめる。
「ま、まだそうと決まったわけでは……」
「そのとおり。それをこれからつきとめるんだ」
まるで深海のように佐野が言ったのと、ほぼ同時だった。
彼がまだ閉めていなかったドアの隙間から、女性が顔を出していた。
「取り込み中ですか?」
「いや、おれの用は終わった」
佐野と入れ代わりに、その女性が部屋に入ってきた。白衣姿だ。
とても可憐な女性だと思った。奈々子のように場違いな艶っぽさはない。年齢は、二十代前半だろうか。それとも十代? 健介の眼には、自分よりも年下に見えた。
が、奈々子のような特殊ケースがあるから、油断はできない。
「天沼さん!」
喜々とした湖内の声で、その名前が、昨日の会話のなかに出てきたことを思い出した。警察官ではない、外部の協力者。話の内容からすれば、心理カウンセラーなのだろう。
メガネをかけて、どちらかといえば地味めな印象をあたえているが、そんな理知的な鎧が意味をなさないかのように、美女オーラが身体の隙間から滲み出ている。
正直、カワイイ、と思った。
湖内が言っていた、うちの女性陣はランクが高い──の意味がわかった。
奈々子より等身感が強いために、こちらのほうが出会いのインパクトは強烈だ。しいて例をあげれば、アイドルか研究者かの二者択一を迫られて、研究者のほうを選んでしまったかのよう。
「この方は?」
ポカンと口をあけて見蕩れていたことを健介は自覚した。あわてて閉じる。
「新人の池田くんよ」
「ど、どうも……池田健介です」
奈々子の紹介に合わせて、健介は名乗った。
「ちょっと、なにデレ~っとしてるの!」
ピシッと、奈々子にたしなめられてしまった。
「ね、言ったでしょ。うちの女性陣は──イテッ!」
言葉の途中で、湖内のほっぺたは、奈々子によってツネられていた。
「また、わたしたちをイヤらしい眼で見てる!」
「ちがうッス! AV女優みたいなのは、先輩だけッス! 天沼さんは、アイドルッス」
その告白に、チッと舌打ちして奈々子は指を放す。健介は内心で、またもや吹き出してしまった。男は、やはり同じような発想をするものなのだ。
「はじめまして、天沼詩織です」
奈々子と湖内の漫才をないことのように、彼女は自己紹介をしてくれた。下の名前も、なんと絵になるのだろう。
「彼女は、被害者の心のケアを担当してくれるのよ。もちろん、警察官じゃない。でも、彼女もふくめて、特殊Mケース犯罪研究室といってもいいわ」
「心理カウンセラーなんですか? それとも精神科医?」
「そういうものと思ってください」
彼女は答えた。
そういうものと思って……ということは、厳密にはちがうということだろうか?
「彼女の専門は、デプログラミングよ」
「デプログラミング?」
聞き慣れぬ単語に、健介は同じ言葉をなぞった。
「脱洗脳。もしくは逆洗脳。わたしたちの担当する事件の被害者が、洗脳やマインドコントロールをうけているのは、池田くんにもわかるでしょ?」
「は、はい」
「そういう被害者の洗脳を解くのが、彼女の仕事よ」
「洗脳……マインドコントロールされた人たちを正常にもどすんですね?」
「んー、洗脳とマインドコントロールは同義語として使われることが多いですけど、厳密には異なるものです」
彼女──天沼詩織は言った。奈々子の説明よりも突っ込んだ話をしたいようだが、健介にはよくわからない。洗脳とマインドコントロールが、ちがうものだと考えたこともなかった。
「洗脳というものは、拷問や恐怖をあたえて、無理矢理に──」
「コホン! で、詩織ちゃん、なにか用事があったんでしょう?」
これから彼女の講義がはじまろうというときに、奈々子がそれをさえぎった。
「あ、そうでした」
彼女は、本来の目的を思い出したようだ。
「昨夜のうちに、今回の被害者・菊地たみ子さんとの面会をおこない──」
再び、天沼詩織は声を中断した。
今度は、だれかにさえぎられたのではなく、自らの意思だ。
「深海さんは、いないのですか?」
「今朝は遅れるんですって」
「そうなんですか……」
どこか残念そうにうつむいたのが気にかかった。
「報告は、どうしましょうか」
「わたしたちが伝えておくわよ」
「そうですか……」
うかない顔ながら続きをはじめようとした彼女だが、飄々と部屋に入ってきた人物を認めて、一瞬で顔が明るくなった。
「遅くなった」
深海だった。昨日とは色違いだが、派手なガラシャツ姿は健在だ。
自身の席につくと、彼女を一瞥した。
「続けてくれ」
「は、はい!」
頬を赤らめながら、彼女は従う。どうやら彼女の狙いは、深海のようだ。意外だった。彼女の実年齢はわからないが、見た目は二十代前半。しかし、その特殊な職業から、本当にそんな若さとは考えづらい。童顔なのだろう。とはいえ、いっていたとしても、二七、八が限界だ。奈々子のことがあるといっても、まさか三十は過ぎていないだろう。
深海は四十前後だろうから、仮に三五歳だったとしても、歳の差がひらいているのではないか。それになによりも、彼女のかもし出すアイドルっぽさが、深海の険しいイメージとは対極に位置するのではないか……。
健介は、自分の考えをすぐに振り払った。
異性の好みに理論が当てはまるわけはないのだ。
「菊地たみ子さんの症状は、軽度とみられます。男たちが逮捕されたいま、もとの生活にもどることは容易と考えます」
彼女の言葉を聞いて、健介は単純な疑問を思いついた。
「あの……男たちが逮捕、といっても、ただの公務執行妨害です。起訴されたとしても、それほど重い罪にはならないはずです」
「それはちがう」
深海が、乾いた声音で言った。
「あいつらが刑務所を出るのは、遥か彼方の未来だ」
思わず、深海を凝視した。
「あいつらは、必ずマエがある」
あのときのセリフを繰り返していた。
捜査一課の管理官だという佐野も、その可能性を示唆していた。
「一度、魚を食らったら、その味を忘れられない。おぼえておけ。それがヤツら──フィッシュイーターの習性だ」




