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 警察庁刑事局に属する『特殊Mケース犯罪研究室』は、犯罪捜査ではなく、研究・分析を主としたセクションであり、その人員に逮捕権はない。いわゆる司法警察職員ではないのだ。元来、警察庁は全国の警察を統括する立場であり、現場の捜査執行をおこなうことはない。その任は、警視庁をはじめとした道府県警察の役目である。警察法第六四条には、そう規定されている。

 犯人を検挙するのに公務執行妨害を適用するのはそのためだ。一般には、警察官や海上保安官、麻薬取締官などの司法警察職員にしか適用されない法律だと思われている。が、実際には役所の職員、公立学校の教員、議員など、公務員にならあてはまる。職務遂行の妨害をしたら、実害がなくても犯罪となる。

 公務員ではあるが、警察官ではない『特殊Mケース犯罪研究室』が、犯罪の違法性を追求できるのは、その刑法をもちいるしかないのだ。

 だから逮捕も、地元警察にゆだねるほかはない。厳密には現行犯であるならば、一般市民でも逮捕権を行使することはできる。とはいえ「現行犯」に該当するのかは、判断が難しい。正統な警察官の力を頼るのが懸命であろう。

 捜査権もなければ、逮捕権もない。だが特別な権限をまったくもっていないわけではない。それが、立入禁止命令だ。研究室員の判断で、強制執行することができる。裁判所の令状もいらない。『特殊Mケース犯罪研究室』にあたえられた唯一の権限であり、最大の武器となっている。



 帰りのワゴン車のなかで、健介は深海から説明を受けていた。運転席には湖内勇太が、助手席には川名奈々子が座っている。二列の席がある後部を、健介と深海が占領していた。

 深海は、シートを倒して寝ころがりながら話を続けていた。健介は、まだ肝心なことを聞かなければならない。そもそも『特殊Mケース犯罪研究室』とは、どんな犯罪をあつかう部署なのか?

「あの……われわれは……」

「フィッシュイーターを釣り上げる」

「フィッシュイーター?」

 その単語は、本部でも耳にしている。

 魚を食べる魚。ルアーで釣るのは、そういう獲物だ。

 藻やプランクトンを食べる魚は、ルアー釣りには向かない。

「フィッシュイーターとは、なんなんですか!?」

 健介は、声のトーンが上がったことを自覚していた。さすがに、ここまで焦らされると腹立たしくなる。

「魚を喰う魚だな。つまり──」

 やはり深海は、もったいつける。

「フィッシュイーターっていうのは、深海さん流の呼び名よ」

 言葉を挟んだのは、助手席の奈々子だった。

「正式名称はきまっていないの。でも池田くんも、ニュースでは眼にしているはずよ」

 健介のほうが年下だからなのか、階級が下だからなのか、奈々子からは「くん」づけで呼ばれるようになっていた。

 健介は最下層の巡査。しかも、一人だけ高卒採用。

 湖内勇太は、巡査部長。

 奈々子は、警部補。

 深海は、警部だということだった。

 ただし、研究室に出向となった時点で、警察官としての階級は全員『警視正』となっている。当然のごとく、給与や待遇などは変化しない。あくまでも名目上の警視正だ。

 おそらく、健介が本当の意味での警視正に昇格する日は来ない。定年ぎりぎりで、警視になるのがやっとだろう。たぶん、それすらも無理だ。警部に上がれれば、大成功の警官人生ということになる。

 地方公務員であっても、警視正からは自動的に国家公務員になる。研究室は、警察庁に属するということでもわかるとおり、その活動範囲は日本全国にまたがる。国家公務員でなければならない理由があるのだ。警察庁の職員には警視以下、巡査も存在するのだが、「研究」とはいえ、捜査活動に近いことをする以上、それなりの階級が必要になるのも事実なようだ。

「どういう犯罪なんですか?」

「そうねえ……、世間に大きく注目されたのは、北九州の事件ね」

「北九州?」

「そう。二〇〇二年に発覚した、北九州監禁殺人事件」

 そういうたぐいの事件は世の中にあふれているから、すぐには思い浮かばない。それに当時、健介はまだ小学生だ。

「最近では、尼崎でおこったわ。っていっても、それも数年前だけどね」

「尼崎事件のことですか?」

 それならば、わかる。数世帯の家族──親類をふくめて、何人も殺害されていた。しかも犯人自らが手をくだすのではなく、その犯人にマインドコントロールされた家族が、自分の親兄弟を殺害してしまう。当時、健介は中学か高校生だった。その記憶は曖昧なのに、事件のことは鮮烈に覚えている。

「家庭に入り込んで、その家を乗っ取ってしまうのよ。わたしは、たんに『乗っ取り犯』と呼んでいるわ」

 なるほど。今日の菊地家も、そういうケースの犯罪だった。あの家は、粗暴な集団によって乗っ取られていた。

「北九州の犯人のイニシャルから、Mケースとも」

 特殊Mケース──。

 健介は、ようやく納得した。

「『北九州監禁殺人』と聞いても池田くんの反応が鈍かったのにはね、理由があるの。まだ子供だったこともあるでしょうけど。北九州の事件では、七人が殺害されている。近代稀にみる凶悪事件よ。でもね、あまりにも残酷すぎて、マスコミが報道を自粛してしまったの」

 血の気の引く思いがした。

「そういう犯罪をあつかうんですか?」

「そうだ」

 深海が、短く答えた。

「今日のケースは、わかりやすい。老人の家に、あんな連中が出入りしていれば、だれだって不審に思う」

 たしかにそうだ。

「現に、近所から通報があったのよ。菊地たみ子さんの家がおかしいって」

 また、奈々子が補足を入れてくれる。見た目の華やかさとは裏腹に、案外世話好きなのかもしれない。

「それで、駐在の制服警官が見回りをしたんだけど、菊地さんは、男たちを自分の意志で家に入れている、と言ったそうなの」

「典型的な症例だ」

 深海は、あえてなのか『症例』という言葉を使っていた。

「侵入者の支配下におかれている」

 それは恐怖によるものか、巧みなマインドコントロールによるものか……。

 今回のケースは、前者であろう。

「それでね、その駐在からの報告で、わたしたちが動き出したのよ」

 奈々子が、そう続ける。

「そういう情報が、全国から集まるようになってるの。わたしたちのところに」

 一ヶ月ほど内偵を進めて今日に至った、と奈々子は語った。

「わかりやすいから、大事にはならなかった。問題なのは、発覚しづらいケースだ」

「北九州や尼崎のように、巧みに入り込んでしまえば、犯罪を立証しづらい。そうなれば、取り返しのつかないことになりかねないのよ」

 何人も殺害される──。

 健介は、過去の同類事件を連想して、背筋が凍った。

「でも、さすがは本物の『駐在さん』ね。板についてたわ」

 最初、なんのことだかわからなかった。

「え? ぼくですか?」

「そうよ。ほかにだれがいるの?」

 どうやら、勘違いをされているようだ。

「あの、ぼくは交番勤務でして、駐在ではありません」

「まあ、同じようなものじゃない」

 そう言われればそうなのだが、あからさまに一緒くたにされると否定したくなるものだ。交番は交替制で、あくまでも勤務場所にすぎない。それに対し、駐在所は住む場所もかねている。

「秩父は、山しかないと思ってますね?」

 駐在所は、その勤務内容上、山間部に設置されることが多い。

「ちゃんと、秩父にだって賑わってるところはありますよ」

「あれ、池田くん、知らないの?」

 奈々子は、不思議そうな顔だ。

「なにがですか?」

「駐在所って、都会の真ん中にも、けっこうあるのよ」

 意外なことを言われた。

「東京の二三区内にも、五〇箇所以上あるんだから」

 はじめて耳にする知識だった。

「駐在所は、治安対策に効果があるんですって」

 健介は、少し恥ずかしくなった。田舎に住んでいたからこそ、交番=都市部、駐在=田舎という図式を信じて疑わなかった。秩父をド田舎だと意識していたのは、自分自身だったのかもしれない。

 気を取り直して、べつのことを質問した。

「あの……彼らの調べは……?」

「それは、地元の警察がやるわ。わたしたちの仕事じゃない」

「で、でも……」

 健介は、奈々子の言葉に疑問を感じた。

「言いたいことはわかるわ。たかが公務執行妨害で逮捕したとしても、また同じことを繰り返すんじゃないか──」

「はい……」

「傷害や恐喝で逮捕するには、被害者自身の訴えが必要なのよ」

「ですが、傷害は親告罪ではないはずです」

「そうね。でも、立件するには被害者の証言が絶対必要なのよ」

 そのとおりだ。暴力はなかったと菊地たみ子が言い張っている以上、どんなに男たちを追求したとして、それを否定されたら証明のしようがない。

「とりあえず、いまは軽犯罪でもいいから、それで検挙して、被害者との距離を置かせるの。そうすれば、被害者の呪縛も解き放てるかもしれない」

「……」

「もちろん、被害者の心のケアも同時におこなうわ」

「そうなんですか?」

「専門のスタッフが派遣される」

「その方も、うちのメンバーなんですか?」

「そういうことになるかしら。厳密にいえば、外部のスタッフなんだけど。だから、警察職員じゃないわ。池田くんも、いずれ会うことになるはずよ」

「天沼先生に会ったら、ビックリするッスよ」

 それまで一言も発することなく運転していた湖内が、喜々として声をあげた。

「うちの女性陣、レベル高いッスからね」

 そのセリフに、奈々子は過剰に反応した。湖内の耳をつねりあげる。

「勇太! それはわたしのことも、イヤらしい眼で見てるってことか!?」

「い、痛いッス! 運転中ッス!」

「だまれ!」

「いいかげん、認めてくださいよ……AV女優みたいなんスよ、先輩は!」

 健介は、思わず吹き出しそうになった。男はみんな、そう考えるものなのだ。

「褒めてるんスよ! アラフォーでそれは、立派ッス」

「え!?」

 アラフォー……ということは!?

「なぜ、歳をバラす!?」

 さらに奈々子の指には力がこもった。

 驚きだった。アラサーでも驚くというのに……。すでに死語なのかもしれないが、こういう人のことを美魔女というのだろう。

 健介は、あまりの事実に気を落ち着かせようと、深海に視線を合わせた。

 深海の眼にも奈々子はそういう姿に映っているのか、なぜだか興味がわいた。

 だが深海は、いまのやりとりにも笑みを浮かべることなく、無表情のまま倒したシートに身をあずけ、車の天井を眺めていた。

 暗い翳りがさしている。瞳の色は、名前のように深い海を思わせた。

 シャツのガラだけが、不謹慎に明るかった。


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